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花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「サンダカンの日本人墓地」

2013年06月21日 16時33分45秒 | インドネシア
<海外日本人慰霊碑・日本人墓地、日本軍遺跡など(7)>


<カリマンタン(ボルネオ)・サンダカンの日本人墓地>
2000年12月にカリマンタンのマレーシア・サバ州のサンダカンに行きました。サンダカンは、山崎朋子著『サンダカン八番娼館』や映画の「サンダカン八番娼館・望郷」で有名になりましたが、“からゆきさん”達の墓を訪れてみました。 日本に背を向けて立っている墓、墓地には草が生い茂り、ヤブ蚊の大群に悩まされたことを記憶しています。現在はきれいに整備されているようです。

<墓地の様子>




(参考写真:サンダカン市内の様子)




【2013年6月21日 花熟里】


「バンカ島に残る戦時中の船の残骸」

2013年06月10日 16時11分55秒 | インドネシア
<海外日本人慰霊碑・日本人墓地、日本軍遺跡など(6)>

(バンカ島の海岸に残されている船の残骸)
2000年4月にスマトラ島の東部にあるバンカ島を訪れた時に海岸で多くの船の残骸を見かけました。ガイドが第2次大戦時の“オーストラリアの小型軍艦”の残骸と説明していました。








(参考写真:バンンカ島の錫採掘場、錫選鉱場)









『バンカ島』
第16軍第38師団歩兵第229連隊第1大隊が、1942年2月にバンカ島に上陸、ムントク飛行場 を占領。 バンカ島はスマトラ島のパレンバン油田とともに、日本軍が資源確保のため占領した島。首都ジャカルタから北へ約300キロメートル。バンカ=ブリトゥン州。州都はパンカルピナンで東海岸沿い。面積は1万2千平方キロメートル、四国ほど。人口は約63万人(1990年)。マレー系が多数派。1/4程は客家を主とする中国系住民。バンカ島は錫の産地で、1710年に採掘が開始されて以来世界有数の生産量を誇っている。露天掘りで西部の都市、タンジュンパンダンから日本などへ船積みされる。日本のスズ輸入は、近年4万トン程度。インドネシアが最大の輸入相手国である。また、胡椒も栽培されている。


【2013年6月10日 花熟里】

「スラウエッジ島のウジュンパンダン、ケンダリ、ブトン島バウバナウの日本軍遺跡」

2013年06月01日 14時24分35秒 | インドネシア
<海外日本人慰霊碑・日本人墓地、日本軍遺跡など(5)>

2000年9月にスラウエッジ島西南部のウジュンパンダン(マカッサル)、南東部のケンダリ、ブトン島のバウバウを旅しました。スラウエッジ島の玄関であるウジュンパンダンでは日本軍洞窟跡、ケンダリでは日本軍高射砲を見かけました。 後日、ウジュンパンダンにハ日本軍慰霊碑があると知りましたが、当時はそこまでの知識がなく訪れていません。  

<スラウエッジ島ウジュンパンダン郊外の日本軍洞窟跡>


(参考写真:ウジュンパンダンのロッテルダム要塞跡:現在マカッサル市博物館)







『ウジュンパンダン(旧マカッサル)』
海軍第二南遣艦隊第23特別根拠地隊(セレベス島防衛、司令部はマカッサル)。
オランダ時代ロッテルダム要塞、1545年建設。独立後ロッテルダム要塞もウジュンパンダン要塞と改名。ポルトガル風の四角形の建築スタイル。


<スラウエッジ島ケンダリ近郊の日本軍高射砲>



『ケンダリ』
第2次世界大戦中は日本の海軍基地。第二〇二海軍航空隊、次いで第三八一海軍航空隊配置。現在、インドネシア空軍の基地あり。


<ブトン島バウバウのスルタンの家に残されていたセレベス民生部長からの首長辞令>


(参考写真:Buton王国時代の城壁、砲台、バウバウ市街、ブトン島の滝)









『ブトン島バウバウ』
 ブトン島はスラウェシ島の東南部に接した島。面積4200k㎡,人口約25 万。ブトン島にあるバウバウは人口5万人余りの港町。


<後日、バンカ島の戦争跡を掲載予定>

【2013年6月1日 花熟里】


「スマトラ・ブキティンギの日本軍洞窟跡」

2013年05月20日 16時00分34秒 | インドネシア
<海外日本人慰霊碑・日本人墓地、日本軍遺跡など(4)>

1998年11月年にスマトラ・ブキティンギを訪れた時、日本陸軍の第25軍司令部(スマトラ全域を担当)があった洞窟跡を訪ねてみました。

<ブキティンギ付近の日本軍の指揮所後(洞窟)入り口:洞窟の入り口には、かつて、日本軍による労務者虐殺のパネルがあったそうで、その後、労務者の虐殺はなかったことが関係者の努力で明らかにされ、パネルは撤去されたそうです。>




<別の洞窟の入り口付近のレリーフ:撤去されたといわれているパネルと関係があるのでしょうか? このレリーフも日本軍の虐待を表したもののようですが。>






(以下は参考写真)
<ンガライ・シアヌック峡谷>



<ブキティンギ市内>





<ブキティンギ近郊の山中で見かけたスマトラオ・オコンニャク>



<コト・パンジャンダム:日本のODAで建設された>





<後日、スラウエッジのウジュンパンダン・ケンダリ・バウバウなどの日本軍遺跡を掲載予定>


【2013年5月20日 花熟里】




「スマトラ・パレンバンの慰霊碑」

2013年05月12日 11時26分52秒 | インドネシア
<海外日本人慰霊碑・日本人墓地、日本軍遺跡など(3)>

2000年6月にパレンバンを旅した時に慰霊碑を訪れました。 この慰霊碑は、戦死者の戦友の募金をもとに、パレンバン在住の個人の方の敷地内に資料館「静華苑」を設け、慰霊碑を建立したとのことでした。管理されていた方は当時でも高齢 (当時で70歳台?)でした。

(慰霊碑)


(資料館に飾られているものから一例を紹介)





「パレンバン」
1942年2月14日、「空の神兵」と謳われた大日本帝国陸軍の空挺部隊である第1挺進団挺進第2連隊が、オランダ軍が守備するパレンバン油田・製油所と飛行場に対し奇襲落下傘降下、これらをほぼ無傷で占領する。降下人員329名中、戦死39名(うち2人は、落下傘が開かず墜死したもの)、戦傷入院37名、戦傷在隊11名。
パレンバンはスマトラ第2の都市で、ジャワ海西部に注ぐムシ川の河口から約80キロ、海洋船も入ってこられる。蘭印最大の石油基地。石油25万トン、連合軍飛行機数機や資材を獲得。 パレンバン市・油田防衛の為だけに特別に配備されていたのが、第25軍所属の中島少将指揮下のパレンバン防衛隊。空襲に備えた高射砲第101連隊、高射砲第102連隊、高射砲第103連隊、機関砲第101大隊、 地上警備のパレンバン警備隊とパレンバン防衛通信隊、これに油田操業の為、日本の石油会社から派遣された要員(軍属扱い)で編成。


(後日、スマトラ・ブキティンギの日本軍遺跡を掲載予定)

【2013年5月12日 花熟里】