波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

オショロコマのように生きた男  第69回

2012-02-04 09:31:46 | Weblog
暫く会わないうちにすっかり変わってしまっていた多田の姿はやせこけて見る影もなく哀れだった。夫人の話では喉頭がんで
殆ど声も出せない状態で話は無理だとのことだった。宏は人間の死というものを今まで想像したり、考えたりすることはなかった。しかしこの時いやが應もなく直面し考えざるを得なかった。人間はいつか死ぬ、それは頭で分かっていたことではあったが、現実の問題として考えたくなかった。しかしこの場において逃げることは出来ない。そしてそれがそんなに遠くない将来に自分の身に降りかかるとは、この時露ほどにも思わなかったことだった。
病院からの帰り道、宏は不図多田の工場へ立ち寄ることにした。暫く見ていなかったし、どんな様子なのか気がかりだった。
場所は以前のままであり、勝手知ったる所で戸惑うことはなかった。機械や設備はそのままになっており、多田のやりかけた仕事がそのまま残っていた。たぶん人も使える状態ではなく一人でこつこつとやっていたのだろうことが分かった。
工場の周りは雑草が生い茂り、その一部は中にまで伸びていたがそのままになっている。ビニール屋根の破れから漏れて差し込む太陽の日差しが、そのまま工場の荒れ果てた姿を象徴していた。
宏はそんな中を機械や設備そして事務所の中と丹念に見て回った。覆いのかけられてないものはすっかりほこりにまみれ、錆も見られる。そして頭では自分が始めるときにはどうすればよいか、準備が出来次第何から始めるかを無意識に計画していた。
それは長年の感覚であり、経験であった。何が不足で何が必要であるかはすぐに浮かんでいた。
そしてある程度納得したところで工場を出ると、会社へは戻らずまっすぐ千葉の家へ向かった。その日の夜、二人きりの食事を済ませると宏は珍しく久子に声をかけた。「おい、今日はちょっとお前と話があるんだけどいいかな。」ぶっきらぼうなその物言いに久子はきょとんとした顔でまざまざと宏を見た。
「どうしたの。珍しいわね。私に話なんていつもなら自分の部屋へ行ったきり声もかけないくせに」
娘が年頃になって嫁に行ってもう居なかったし、息子も北海道の大学へ行って帰ってくることもない。
「まさか、子供も大きくなって居なくなったから別れようとでも思っているの。それならそれでも結構だけど、その時は
私も考えさせてもらうわ。」少しけんか腰の久子の言い方に宏は驚いていた。
「そんなこと考えてないよ。」いつもより深刻な宏の様子に久子は気づいて少し心配になっていた。