備中高梁は、備中松山城の城下町である。その中でも、武家屋敷がかつて立ち並んでいた石矢来町には、江戸時代からの屋敷が未だに保存されている。
旧折井家。江戸も天保年間の建物。
通常なら、式台付きの中央寄りの玄関と、庶民向けの家屋の端にある玄関は大きさがまるで違うのだが、この家の場合はほぼ同規模で作られている。おそらくは、役人か武家ではない立場の人間が、この家の経済を大きく支配したのだろうと思われる。
江戸時代の武家屋敷は、その主人の格に応じて、規模も造りも厳しく決められていた筈である。
いささか、不思議な姿である。
旧植腹家。
こちらの方が、大分豊かな家である。
広々とした奥座敷や、手前の座敷を持つ。相当に格の高いいえである。
場所としては玄関の脇なのだが、回っていかないと入れない座敷には、華頭窓が残されている。
どちらも、この高梁の町でなければ残らなかったような気がする。
旧折井家。江戸も天保年間の建物。
通常なら、式台付きの中央寄りの玄関と、庶民向けの家屋の端にある玄関は大きさがまるで違うのだが、この家の場合はほぼ同規模で作られている。おそらくは、役人か武家ではない立場の人間が、この家の経済を大きく支配したのだろうと思われる。
江戸時代の武家屋敷は、その主人の格に応じて、規模も造りも厳しく決められていた筈である。
いささか、不思議な姿である。
旧植腹家。
こちらの方が、大分豊かな家である。
広々とした奥座敷や、手前の座敷を持つ。相当に格の高いいえである。
場所としては玄関の脇なのだが、回っていかないと入れない座敷には、華頭窓が残されている。
どちらも、この高梁の町でなければ残らなかったような気がする。
頼久寺庭園にしか行きませんでしたが、
武家屋敷も多く残されているのですね。
改めて、
町をゆっくり巡りたいです。
高梁に今も残されている武家屋敷を見ていて、なんだか松代の公開されている武家屋敷が懐かしく思い出されました。
旅行の日程が厳しければ、カットされてしまいそうな遺産です。
自治体は頑張っていますが。