中村家は江戸時代初期に上方から大町に移り住んだという。
母屋は17世紀後半の建築という古文書が残り、長野圏内で建築年代が明らかな民家としては最古のものだそうだ。
日常的な居住エリアにも、二つの火床が造られている。
火を前にしてどこに座るか、は昔の身分制度を見事に反映しているようだ。
しかし、身分の問題だけではなく、火がはぜて飛んだ場合の対処など簡単そうで、お役人に任せられない作業だったのだろう。
風の流れから、そのような対処をスムーズに出来る位置は、家の内の者がひかえていたのかもしれない。
奥座敷は洗練された造りで、当時の大都市に居るのと変わらない居心地の良さを提供しようとしたのだろう。
屋敷の奥には山が迫り、上段の間でさえも限られた広さの庭を楽しむのがせいぜいである。
庭木は茂り過ぎのように思われる。
母屋は17世紀後半の建築という古文書が残り、長野圏内で建築年代が明らかな民家としては最古のものだそうだ。
日常的な居住エリアにも、二つの火床が造られている。
火を前にしてどこに座るか、は昔の身分制度を見事に反映しているようだ。
しかし、身分の問題だけではなく、火がはぜて飛んだ場合の対処など簡単そうで、お役人に任せられない作業だったのだろう。
風の流れから、そのような対処をスムーズに出来る位置は、家の内の者がひかえていたのかもしれない。
奥座敷は洗練された造りで、当時の大都市に居るのと変わらない居心地の良さを提供しようとしたのだろう。
屋敷の奥には山が迫り、上段の間でさえも限られた広さの庭を楽しむのがせいぜいである。
庭木は茂り過ぎのように思われる。