ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

『新・お葬式の作法』

2006-04-29 | 読書
副タイトルは「遺族になるということ」。

著者の碑文谷創という人の名前には覚えがある。

以前にも この人が書いた葬儀についての本を読んだのだ。

碑文谷、という都内の地名と同じ苗字が印象的で。

葬儀ジャーナリスト、あるいは 葬送文化評論家、という職業に
「そんな仕事もあるのか!?」とびっくりもして。

葬送専門雑誌『SOGI』の編集長をしている人らしい。

そんな雑誌は見たことがないが。

思えば 日本の葬儀のありようが
急激に変わっていった頃に 出版された著書、
あるいは創刊された雑誌かと思う。

それにしても そんな本を買って読んだ、なんていう私は
けっこう変わり者だ。

そして 今 一番興味のあるのは
お葬式について、なのだ。

そしたら またこんな本が出ていたので
迷わずに買って読んだ、というわけ。

平凡社新書314、2006.3.10、740円。



お寺に生まれても
お葬式を出した事は ほとんどない。

葬儀とはどういうものか、ということも 
ほとんど知らない。

こうか、ああか、と想像する事はできても
本当にそうか、と問われると 確信がもてない。

もっとも 
葬儀とは「正解」がどこにも無いもの、とも言える
と思っているので

ハウツー本のように
「こうです!」
とあっても
「ああ、そうか!」
というわけにはいかないが。



この本によると
日本における葬儀の95.2%は仏式なのだそうだ。

神道は1.5%、
キリスト教は1.2%、
ごくごくわずかな少数派に過ぎない。

私は 神道での結婚式は2度 出席した事があるが
ご葬儀はない。

キリスト教のものも その他の宗教のものも
あるいは 無宗教のものも
ご葬儀はもちろん 結婚式さえ 出席したことがない。

私が 葬儀を語るとき、
それは 自動的に仏式のものを意味する。
(「フランス式」とは読まないで。)



私は田舎のお葬式が大嫌いだ。

なぜならそれは葬儀を出す当家の意向を
全く無視した
地域の住民によるお祭り騒ぎに過ぎないから。

けれど それは
年寄りが寝付いて
「あとどれくらいだ?」
「そろそろか?」
と噂されてから亡くなった時に。

毎日毎日 家と 田んぼや畑との往復で
語り合えるものは
家族の他は 幾人かの近所の人、
あとは 虫や鳥。

そうして
そういった退屈?
あるいは 少なくとも 変化に乏しい日常に
変化と興奮とをもたらしてくれるもの、

それが 葬儀だった場合のことなのかもしれない。

だから 私が 葬儀に対して
もしかしたらとんでもなく的外れな嫌悪感を持っていたのは
これは
とても幸福なことだったのかもしれない。

いま 再び 葬儀は変化の時期を迎えているように思う。



それを著者は

「かつて葬儀は、
 地域の「共同体」が 死者の「家」のために
 おこなうものだったが、

 最近は、
 家族という「個」が 死者「個人」のために
 行うものへと 変化してきている。

 習慣や風習も 文化ということでは尊重されるべきだろうが、
 個の意志もまた 尊重されるべきである。
 
 これまでは どちらかといえば 共同体の習慣が重視されてきたが、
 これからは 個の意志も 充分に尊重されるべきであるように思われる。」

と言い表している。

小さな新書版に いっぱいに詰まった葬儀の知識。

勉強になった。。。

そして、
今の私には とても興味深く、面白い本だった。