【帝塚山大学市民講座で、堺市文化財課の近藤康司氏】
奈良時代の高僧、行基(668~749年)は各地に寺院を建立する傍ら、溜め池や橋の建設など社会事業に尽くし、晩年には東大寺大仏の造営にも関わった。行基はなぜ多くの寺院を造り、なぜ民衆に絶大な人気を博したのか。帝塚山大学で13日「行基建立49院を考える」の演題で公開講座が開かれた。講師の近藤康司氏(堺市文化財課)は「諸事業の多くが49院に近接する。事業を民衆と共に行い寺院で行基の説法を聞くことがセットになっていたのだろう」と話した。
行基が開いたといわれる寺院は全国各地にあるが、そのうち行基が自ら創建したといわれる摂河泉と大和、山城の寺院を総称し49院と呼ぶ。平安時代の「行基年譜」に建立年や所在地などが詳しく記されている。都があった大和には隆福院(登美院)、菅原寺(喜光寺=写真)など、河内には石凝院(東大阪市)などが建立された。このうち隆福院は現在の追分廃寺(奈良市大和田町)と推定される。「初期建立のこれら3つの寺院は河内から生駒を越えて大和への街道沿いに位置しており、都へ向かう人々の布教の拠点だったとみられる」。
行基は民衆への伝道活動が「僧尼令」に違反するとして、717年以降、朝廷から弾圧を受ける。そのため活動地域を平城京から、生まれ故郷(現在の堺市)の和泉に移した。そこで築いたのが大野寺(土塔)。13重の瓦葺きの塔で、人の名前を刻んだ人名瓦1200点が見つかっている。現在の京都府大山崎町に建立した山崎院とみられる場所からも人名瓦が出土している。その近くには行基が架けた山崎橋があった。行基の諸事業には「知識」と呼ばれる集団が参加しており、人名瓦はそれらの協力者の名を記したものとみられる。〝禁圧〟は14年後の731年にようやく解かれた。
行基の建立寺院の多くは①僧寺と尼寺がセット②諸事業の施設と隣接③建物は瓦葺きが少なく、簡易で小規模④軒瓦の出土例から整備されたのは平安時代以降――などの共通する特徴を持つ。建立地域は大和や河内よりも和泉や摂津、山城などに多い。これらのことから近藤氏は「基盤整備が進んでおらず開発が必要な地域を巡回したのだろう。事業には女性の集団も結構参加したようだ」とみる。
では行基の事業になぜ多くの人々が率先して参加したのか。近藤氏は「善い行為の種子を蒔いて功徳の収穫を得るという〝福田(ふくでん)思想〟が民衆の間に共感の輪を広げた」と推測する。藤原不比等ににらまれたためか、一時期、朝廷の弾圧さえ受けた行基だが、「聖武天皇も東大寺の大仏造営に、行基と『知識』の集団の力を生かしたいと思ったのだろう」。
だが、行基は大仏の完成を見ることなく、その3年前の749年、菅原寺で波乱の生涯を閉じる。49院の中に建立年が不明な長岡院がある。現在の菅原遺跡(奈良市疋田町)とみられるが、近藤氏は出土瓦などからこうみる。「行基自身が建立したのではなく、弟子たちが没後に菩提を弔うため、真正面に大仏殿が見える二条大路の先の丘陵地に建てたのではないか」。