く~にゃん雑記帳

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<BOOK>集英社新書ノンフィクション「幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語」

2013年04月10日 | BOOK

【平野真敏著、集英社発行】

 「お母さん、こんなに小さいチェロがあるよ」。2003年、東京の楽器専門店で聞いた男の子の声が、その楽器「ヴィオラ・アルタ」を巡る〝謎解き〟の出発点になった。裏板は長さが47cm。一般のヴィオラ(40cm前後)に比べるとかなり大きい。もともと5弦の楽器らしく、それを4弦に修理した痕跡もあった。この謎の楽器はどこで作られ、どうして日本の楽器店のショーウインドーで長く眠っていたのか――。

   

 筆者は1967年福岡県生まれのヴィオラ奏者。高校進学のため単身上京してから、その楽器店にはヴァイオリンの弦の購入などのためよく訪ねていた。東京芸大音楽学部器楽科とドイツのデトモルト音楽院ドルトムント校を卒業。2011年、クロアチア共和国ザグレブ市から同国の音楽文化を広めた功績で市民表彰を受けている。

 楽器の胴の中のレッテルには「ヘルマン・リッターモデルの製造を許可 フィリップ・ケラー 1902年製 バイエルン王国宮廷御用達商人」などと記されていた。平凡社の「音楽大事典」によると「1872~75年ドイツのH・リッターが考案したヴィオラの改良種。ワーグナーやR・シュトラウスもこの楽器を賞したが、大型で扱いに不便なため一般化しなかった」。

 製作者リッターはドイツを代表するヴィオラ奏者でヴュルツブルク王立音楽院教授だった。さらにリッターが「ヴィオラ・アルタ物語」を書き残していることも分かり、在庫があった米NYの書店から取り寄せた。その音色に魅せられた筆者は2005年、日本初のヴィオラ・アルタ独奏演奏会を開催する。それ以来「ヴィオラ奏者」ではなく「ヴィオラ・アルタ奏者」を名乗っているそうだ。

 その後、インターネットを通じてヴィオラ・アルタの歴史を研究しているというオーストリア人カール・スミスと知り合いになる。この楽器は一時期大量生産されたが、現存するのは極めて少ないらしい。彼も「オリジナルは博物館でしか見たことがなく、使っているのはレプリカ」という。筆者はリッター教授の足跡をたどるとともに、スミスとの二重奏のコンサートを開くため2010年ヨーロッパに向かう。

 リッターが開発したヴィオラ・アルタはワーグナーに高く認められた。ワーグナーは「過去のヴィオラの欠点を覆い隠し、その音は称賛に値する」という手紙をリッターに送っている。さらにバイロイト歌劇場のオーケストラ用にヴィオラ・アルタ6丁を購入、その首席奏者にリッターを指名した。筆者によるとヴィオラ・アルタの響きはパイプオルガンの響きに似る。それほど共鳴するということだろう。そして「ワーグナーも弦楽器でありながらパイプオルガンのような荘厳な響きを持つ音を求めたのではないか」と推測する。

 パイプオルガンには様々な楽器の音色に似た音を選ぶことができる「ストップ」という機能がついている。筆者はヨーロッパ旅行の最終盤になって、ドイツの古い大聖堂で「ヴィオラ・アルタ」のストップを持つパイプオルガンに巡り合う。「妙なるベルカント(人の美しい歌声)の響きは、リッター教授が目指した〝未来のヴィオラ〟の音として白亜の教会を満たしていった」。

 そのヴィオラ・アルタがその後、なぜ姿を消したのか。筆者は「ワーグナーによって『ドイツの正統を担う楽器』と太鼓判を押されたことで、かえって戦後、思わぬ不遇な運命を辿ることになったのではないか」とみる。ヴィオラ・アルタの悲運の歴史は、決して「大型で扱いに不便」だったからだけではなかったようだ。

 第2次世界大戦中、ワーグナーの音楽はヒトラーによってナチスのプロパガンダに利用された。このためイスラエル国内やユダヤ人の間ではワーグナーへの拒否反応が極めて強く、演奏はタブー視されている。ただ2011年夏、ワーグナーの聖地バイロイトで初めてイスラエル室内管弦楽団がワーグナーの「ジークフリート牧歌」を演奏した。そのライブ輸入盤も販売されているようだが、まさに画期的といえよう。

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