く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<木津川計の一人語り劇場> 映画「無法松の一生」 検閲で映像18分間もカット!

2013年04月21日 | メモ

【当局「卑しくも人力車夫が帝国陸軍の未亡人に思いを寄せるとは何事か」】

 〝無法松〟の未亡人への純愛を描いた映画「無法松の一生」。この映画が公開されたのは戦争真っ只中の昭和18年(1943年)だった。当局による検閲制度の下でどう扱われたのだろうか。奈良県生駒市の市コミュニティホールで20日「木津川計の一人語り劇場『無法松の一生』」(生駒市平和委員会主催)が開かれた。木津川氏は原作と映画を対比したり、時代背景を紹介したりしながら2時間近くにわたって口演、「検閲がいかに芸術を歪めたか」と指摘した。

 

 木津川氏は1935年生まれの77歳。「上方芸能」発行人や和歌山大学客員教授などを務める傍ら、7年前から芝居や映画の再現を通じて時代の本質を明らかにしたいと「一人語り劇場」を始めた。これまでに「無法松の一生」のほかに「瞼の母」「一本刀土俵入」「金色夜叉」「婦系図」「王将」などを取り上げてきた。

 「無法松……」の原作は作家岩下俊作が昭和14年同人誌「九州文学」に発表した直木賞候補作「富島松五郎伝」。舞台は小倉、時は明治30年代~大正初め。怪我をした少年を助けた縁で松五郎(無法松)は陸軍大尉の家に出入りするようになる。ところが大尉が肺炎で急死。息子を立派な職業軍人に育てたいという未亡人吉岡良子のたっての願いで松五郎が父親代わりに。未亡人は地元で評判の美しい女性。松五郎は次第に思いを寄せるが、身分の違いからかなうはずがない。募る思いをすっぱり断ち切ろうとするが――。稲垣浩監督、伊丹万作脚本で映画化された。

 木津川氏は作務衣の上に青の法被姿で映画のシーンなどを再現した。舞台の上に椅子が2つ。原作を読むときには向かって右手の椅子に座り、映画などのときには立つか左手の椅子に座った。原作では酒に酔った松五郎が夫人宅を訪ね手を握る場面がある。「だが映画では指1本触れずに黙って涙を流す。脚本は純愛の物語に書き換えられた。そうしなければ上映禁止になるに違いなかった」。

 公開された昭和18年はアッツ島で玉砕が始まり、「撃ちてし止まむ」のスローガンが連呼された。封切り1週間前には学徒出陣の壮行会も開かれている。こうした中で谷崎潤一郎の「細雪」などは〝軟弱文学〟として禁圧され、この映画も卑しくも車屋風情が陸軍の未亡人に思いを寄せるとは何事かと、内閣情報局の検閲で18分間分もの映像がカットされた。「松五郎が息を引き取る直前、走馬灯のように夫人の顔が3回思い浮かぶが、この場面も全てカットされた。脚本を書いた伊丹氏は無念だっただろう」。夫人が松五郎の遺体に取りすがって泣き続ける原作の場面も映画にはない。

 終戦後の昭和33年、稲垣監督は松五郎に三船敏郎、吉岡夫人に高峰秀子を起用して再度「無法松の一生」をカラーで撮り直した。もちろんノーカット。この作品がベネチアの国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲得する。「トリマシタ。ナキマシタ」。稲垣監督は関係者にこう電報を打ったという。木津川氏は口演の最後をこう結んだ。「澤地久枝は『妻たちの二・二六事件』を書き、橋田壽賀子は『女たちの忠臣蔵』を書いた。『無法松の一生』は『吉岡良子伝』ができたときに完結するのです」。(写真㊨は口演後、本にサインする木津川氏)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <ヤマブキ(山吹)> 古名... | トップ | <シャクナゲ(石楠花)> ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿