【62年前の1951年11月19日、応接間で】
昭和天皇が1951年11月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の批准書に署名した県知事公舎(奈良市登大路町)の応接室「御認証の間」が28、29の両日、初めて一般公開された。見学したのは約770人の応募者の中から抽選で選ばれた100人。日本と連合国側の戦争状態に終止符を打つ条約を天皇が認証した歴史的な場所だが、広さ20平方メートルほどで意外なほど狭く、飾り気のないシンプルな造りの応接間だった。
講和条約と安保条約は同年9月、サンフランシスコで開かれた講和会議で日本の全権団(首席=吉田茂首相)と連合国側の間で調印された。11月18日、衆議院に続いて参議院も締結を承認し、内閣が条約を批准した。昭和天皇は18日から2泊3日のご予定で奈良県内を行幸中。そのため剱木亨弘・内閣官房副長官が批准書を携えて東京から奈良に向かい、署名・認証は翌19日、天皇のご宿泊先になっていた知事公舎で行われた。
公舎は県庁の東側に位置する。その応接室は玄関を入って左手突き当たりにあった。部屋の入り口には上に日付を刻んだ「批准書御認證の間」の銅板。中に入ると、円形のテーブルの周りに肘掛け椅子が5つ。その1つに天皇が署名に使われた蒔絵硯箱のパネル写真が飾られていた。近くにある寧楽美術館の所蔵品で、県の要請に応じてお貸ししたという。署名の際、応接室に入ったのは天皇の他には侍従長1人だけだったそうだ。
28~29日には県庁東棟の県民ホール1階で「昭和の日 パネル展」も開催、昭和天皇の奈良行幸の模様を白黒写真で紹介していた。視察先は天理大学付属図書館や森野旧薬園、紡績会社などのほか高校や小学校など教育施設がかなり多い。日程はかなりハードだったようだ。天皇は署名の翌日午前、国鉄奈良駅を立たれた。
批准書はその後、11月28日に米政府に寄託され、翌1952年4月28日に発効した。ちょうど61年前のことである。その日は日本が主権を回復した日だが、沖縄にとっては本土から切り離され米国の施政権下に置かれた〝屈辱の日〟でもある。沖縄が復帰するのはそれから20年も後の1972年。一方、安保条約を巡っては60年と70年の2回にわたって激しい安保闘争が繰り広げられた。批准書の認証は憲法が定めた天皇の国事行為とはいえ、昭和天皇のその後のご心痛はいくばくだったことか。
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