goo

夏休み!!

 今日から夏休みだ。子供たちには長い休暇の始まりだが、私にとっては一日中塾で勉強を教えなければならない日々が今日から始まる。朝から深夜まで、文字通り休む暇もなく、バスでの送迎と授業を繰り返す日々がまたやってきた。妻に言わせれば、普段はだらだらしているんだから、たかが1ヵ月半くらいフラフラになるくらい働いたってどうってこないよ、らしいが、私には塾に縛り付けられて身動きの取れない「籠の鳥」状態がずっと続く試練の1ヵ月半である。
 しかし、よく考えてみれば、勉強するのは生徒たちであり、私はそれをサポートするだけであるから、そんなに偉そうなことを言う資格はないのかもしれない。私の仕事は、昨日までの半月でこつこつ作ってきた夏期講習用のテキストを作り終えたところで半分くらい終わっている。今日からは、生徒たちがどれくらいそれをこなして行ってくれるかを見ていくだけだ。問題を説明しながら、理解できないところがないかをチェックしていく、それを繰り返していくことがこれからの仕事の大部分だ。そうは言っても、一人一人の進み具合には個人差があり、基礎学力の差も厳然として存在するため、生徒たちが己の能力を最大限に発揮できるよう手助けをしていくのは大変なことだ。
 ある程度までは教えなければならないが、教えすぎてはその子の能力をスポイルしてしまう。その辺りのさじ加減が難しい。今の子供たちはすぐに答えを知りたがる。答えを導き出す過程こそが勉強の面白みだと思うが、その過程を無視してすぐに結論を要求する。「そうじゃない、答えなんて分かったって大したことじゃない。たとえ答えが間違っていたとしても、それを導き出した過程が正しければ、そのほうが大切だ」などとよく言うのだが、効率を求める風潮は子供の世界にも押し寄せていて、面倒くさいことはとにかくやりたがらない。「面倒くさがってばかりいてはいつまでたっても面倒くさいままだぞ」、といくら諭しても理解してくれる者は少ない。
 などと、夏休みを乗り越えるための決意を記そうと思っていたのに、ついつい愚痴になってしまった。それは本意ではない。では、気を取り直して夏休みの決意を述べよう。
 
 1.疲れた顔をしないで、元気よく行こう。
 2.イラついたり、あわてたりしないで、落ち着いてすごそう。
 3.バスの運転にはくれぐれも注意しよう。

まだまだ足りない気がするが、要するに、「心にゆとりを持って生徒たちと毎日を楽しく過ごして行こう」ということだ。
 じゃあ、吉田拓郎の「夏休み」などを口ずさみながらやっていってはどうだろう。案外、のんびりやっていけるかもしれない。

    「夏休み」
  吉田拓郎 作詞/作曲

  麦わら帽子は もう消えた
  たんぼの蛙は もう消えた
  それでも待ってる 夏休み

  姉さん先生 もういない
  きれいな先生 もういない
  それでも待ってる 夏休み

  絵日記つけてた 夏休み
  花火を買ってた 夏休み
  指おり待ってた 夏休み

  畑のとんぼは どこ行った
  あの時逃がして あげたのに
  ひとりで待ってる 夏休み

  すいかを食べてた 夏休み
  水まきしたっけ 夏休み
  ひまわり 夕立 せみの声

勉強ばかりで、遊びにいけない子供たちを相手にしているのだから、私が心に余裕を持つことがなんにしても肝要だ。
 さあ、がんばるぞ!!
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トランス

 昨夜授業が終わって生徒をバスで送っていくときに、隣に座った高3の生徒の携帯が鳴った。
「それ、着歌ってやつなの?」
「そうですよ」
「今みんな着歌にしているの?」
「そうですね」
「でも、あれうるさいじゃん、急に歌声が流れ出して」
私はずっと、携帯の着信音は昔ながらのベルにしてあったのだが、最近は「六月の子守唄」を電話の着信音に設定した。メールの着信音はムーミンに登場する「スナフキンのテーマソング」にしてある。着メロにしたのは何年かぶりだが、なかなかいい感じだ。しかし、着歌はさすがに一度も設定したことがない。
 試しにと思って、後ろの席に座っていた同じ高3の女の子に聞いてみた。
「やっぱり着歌なの?」
「そうですよ」
「誰の曲?」
「誰のってことはないですけど、トランスが多いです」
「えっ?何?」
「トランスです」
ここで私は完全に詰まってしまった。「なんだ、トランスって?」ブツブツ言っていると、隣の子が説明してくれた。
「ダンスなんかする時のノリのいい曲のことです。これがそうです」
と言って携帯から曲を流してくれた。
 うるさい、何を歌っているのか分からないが、電子音をバックに高い声で女の子が歌っている、うるさい。
まあ、要するに私にはうるさいとしか聞こえない音楽のことなんだろうとは思ったが、それだけではいけないと思って調べてみた。

 音楽におけるトランス(trance)とは、テクノから派生した音楽の一種である。130から150くらいまでのBPM(テンポ)のリズムに加え、うねるような旋律を奏でるのが特徴。そのリズムやメロディは、さも脳内の感覚が幻覚や催眠を催す「トランス状態」に誘うかの様な様式からトランスと呼ばれている。主にクラブシーンやレイヴパーティーなどでDJらによってターンテーブルまたはCDJなどを用いて演奏される。また、トランスミュージックの中でも二つの大きな流れがあり、その中でも更に細かく細分化されているため、非常に分類が難しく、地域や時代、個人的な解釈により分類や呼称が異なる傾向があり、物議を醸しているジャンルの一つである。

こんな説明を読んでもよく分からないが、その高校生がトランスの例として「恋のマイアヒ」を挙げた。その歌ならさすがの私も知っている。のまネコ問題として、少々問題になったフラッシュに流れていた曲だ。

     恋のマイアヒ

本当に「恋のマイアヒ」がトランスなのかどうかはよく分からない。違うような気がしてならないが、まあ、こうしたノリの曲だ、くらいに考えておけばいいのかもしれない。上の解説にも『非常に分類が難しく、地域や時代、個人的な解釈により分類や呼称が異なる傾向があり』と書いてあるから、いいのかもしれない
 後世恐るべしとは言うが、こんなに訳の分からぬことを言われては少々つらい。自分のことを、それほど時代遅れだとは思っていなかったが、いつの間にか時代ははるか先のほうへ進んで行ったようだ。ちょっと悔しい。
コメント ( 22 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舞妓さん

 古い友人に新聞記者をしている者がいる。今は京都支局にいて、地元の新聞に時々京都ネタの記事を書いている。一年ほど前に初めて彼の記事を見つけ、夏に「野草を食べる会」の同窓会で集まったときにそれを話題にしたが、なんだか照れくさそうにしていた。プロでも恥ずかしいのかと不思議な気がした。その後、あまり記事を見かけなくなっていたので、どうしたのか気になっていたところ、1週間ほど前の夕刊に久しぶりに彼の記事が載っていた。
 「舞妓はん 英会話どす」という題名で、京都伝統技芸振興財団(愛称・おおきに財団)が国土交通省の補助を受けて、舞妓さんや芸妓さん向けに英会話講座を始めるという内容の記事だった。
 

 私は大学に5年いたが、彼は7年いた。授業は私よりも出ていなかった、というよりまったく大学に行っていなかった。学校など行かずに一日中、寝る暇を惜しんでひたすらマージャンばかりしていた。確かに強かった。高校では将棋部で活躍していただけに勝負事の勘所はしっかり押さえていて、ほとんど無敵状態だった。私のように深く考えずに成り行きで打っていた者とは違って、緻密な理論を重ねていくタイプなので、私のかなう相手ではなかった。
 その彼が何とか卒業を果たし、新聞社に就職し、結婚して子供まで生まれたというのは、きちんとした社会生活を送れるようになった証拠ではあるが、なかなかどうしてそうは問屋が卸さないようで、かなり前から奥さんと別居して長く独身生活を続けている。去年の同窓会の3次会で、その辺りのことを話題にしてみた。
 「こうしたところ(祇園のお茶屋風の小料理屋)にはよく来るの?」
 「まあ、ほとんど毎日飲んでるから、それが仕事みたい」
 「そりゃあ、忙しいねえ。でも、いいところだね、ここ」
 「もう若い娘がいるところは無理だね。まあ、それなりに楽しくはあるけど。今はもう、しゃべりの勉強をしてるんだ、こういうところで。会話を楽しむってやつだね」
 「ふ~ん、そんなもんなの?」
 「そんなもんだね、もう。楽しいよ、毎晩。ねえ、ママ」
などと慣れた話し振りで場を盛り立てる。昔から、太鼓持ちみたいなところがあって、飲み会の席には欠かせない男だったが、一段と磨きがかかったようだ。そういえば隣の席には、舞妓さんが同席していたグループがいた。私はそんなに近くで舞妓さんを見るのは初めてでちょっとうれしかったが、彼はその席の客とも顔見知りのようで、近づいていって大声で笑いながら、なにやら話し込んでいた。なかなかの社交家ぶりだった。
 そうした彼の姿を知っているだけに今回の記事は、面白く読ませてもらった。特に、舞妓さんに感想を求めて
 「詳しくは知りまへんけど、英語が話せるようになるのは、うれしいどす」(祇園東の梅葉さん)
などという言葉をもらっているときの彼の様子を想像するだけで笑えてしまう。きっと、新聞記者らしくしようとしてもニヤニヤしてしまうのを我慢できないだろうな、などと思って私まで照れてしまう。
 
 こういう生きた記事を書くために今夜もきっと、ネオンの下を徘徊しているんだろうな、彼は。まさしく天職に恵まれたようだ、うらやましい。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創作料理

 月曜、妻が市内にある創作料理の店にランチを食べに行きたいと言ってきた。なんでも、友人が行ったらなかなかのものだったそうで、一度行ってみたいと思ったのだそうだ。創作料理などというものがいったい何を指すのか分からないが、要するに和食とか中華とかフレンチとかの枠組みを取っ払った料理のことを言いたいんだろうと思う。今までにないものを作るという料理人の意気込みのようなものかもしれないが、それが空回りしたようなものを食べさせられたことも何度かあるので、そう期待はしないで行くことに決めた。
 店は、市内の商店街のはずれにある、かつては眼科医の診療所兼住居だった民家をそのまま利用している。「古民家」などと呼ばれており、築100年ほどたっているようだが、それなりの雰囲気は確かにある。十畳くらいの座敷に座卓が4つ並べられている。私たちが入った時には満席状態だったから、予約をしていったのは正解だった。

 


それほど広くはないが手入れの行き届いた庭は散歩が自由にできるようだ。この家は料理店として主に週末に利用される他、陶器や和紙や手作り小物を売る店なども開かれており、さまざまに活用されている。訪れる人も次第に増えているようだ。
 ランチは、デザート・コーヒーつきの値段が1,400円と思ったより安い。「文月ランチⅢ」という名前がついていて、お品書きには、
  ・鮪と山芋のタルタル
  ・グレープフルーツのサラダ
  ・しその香りのスープ
  ・鮭のムニエル・キャベツと粒マスタードソース
  ・ご飯
と書いてあるが、これだけではよく分からない。実際に出てきたものをいくつか写真に撮ってみた。

 


左が、鮭の皿である。粒マスタードソースが何なのか分からないが、私にはトマトソースにしか思えなかった。でも、なかなかおいしかった。右が、鮪と山芋であるが、どうして緑色をしてるのか私も妻も分からなかった。何かが加えられているのだろうが、どうなんだろう、味は微妙な感じがした。(鮪が申し訳程度にしか入っていない・・・)写真には撮らなかったが、赤いグレープフルーツがトマトのように見えて最初食べるのをためらったレタスのサラダは、ドレッシングがあまりおいしくなかった。しその香りのスープというかお吸い物は、香りはよかったけれど、具に入っていたのがセロリだったのには驚いた。妻は「まずい」と文句を言ったが、私も賛成した。う~ん、まあ、こんなものかなとあきらめに似た気持ちで食べ終わったら、デザートが運ばれてきた。私が頼んだのは「冷たいアジアンココナッツバナナミルク」というものだ。


ドロッとしていて見た目はよくないが、食べてみると冷たくておいしい。やはりバナナが使ってあるデザートはおいしい。妻はマンゴーが上に乗ったものを注文したのだが、私が写真を撮る前に食べてしまった。なんて意地悪なやつだ・・・
 どうだろう、あまり奇を衒わずにもっとストレートに作ったほうがおいしいのではなかろうか、そんな気がしないでもない料理だった。
 
コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スコール

 どうしてだろう、いくら梅雨だといっても、通り雨の勢いが尋常ではない。驟雨などと詩的な言葉で表現されないほど激烈な様相を呈する。
 昨日も、午後1時過ぎから雷を伴ってものすごい勢いで雨が降った。出先から車で帰る途中に雨が降り始め、家に着いた頃にはワイパーをフルに使っても前が見えないくらいだった。それでも、まだその時は序の口でしかなかった。確かに雨脚は強かったが、川はさほど増水していない。

  
それがものの10分もしないうちに雷鳴が激しくなり、豪雨に変わった。

  
それからはもう、無茶苦茶としか言いようがないくらい、土砂降りが続いた。熱帯のスコールでもこんなひどい雨は降らないだろうと思うくらいだった。

  

調子に乗って写真撮影をしていた私も、いくら傘を差していたといってもほぼずぶ濡れ状態、服やズボンがベトベトでまとわりついて気持ち悪い。そんな時、思わぬ発見をした。なんとカモが濁流の只中にぽつんと一羽だけ浮かんでいる。その前にカモが何羽か空を飛んでいくのを見ただけに不思議な感じがした。

  

見ているうちに、奔流に飲み込まれてしまった。大丈夫かと心配していると、流れに巻き込まれながらも、次の瞬間には流れの緩やかな地点に達している。そこから自力で脚をばたつかせながら、流れが比較的緩やかなところまで逃げのびた。まるで名人芸だ。
 しかし、よく見ると先日見つけた子ガモが一緒にいない。野良猫かアライグマにやられてしまったのか。でも、こうやって大雨が降ると、流れに巻き込まれてしまったのではないかと思えてくる。無事な姿を早く見たい。
コメント ( 11 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木枯らし紋次郎

 
 
 中学・高校のとき、私の部屋には上の写真の「木枯らし紋次郎」のポスターが貼ってあった。「木枯らし紋次郎」といっても、今ではもう知る人はそれほど多くないかもしれないが、松田優作と並んで、私の永遠の2大ヒーローである。笹沢佐保原作の時代劇を市川昆監督のもとにTV化されたものであるが、中村敦夫演じる木枯らし紋次郎が、「あっしには関わりのねえことでござんす」と言いながらもいつの間にかいろんな事件に巻き込まれていく様子を一話完結で描いた傑作である。他人に関わることを拒否しながらも、困った者を無碍に見捨てることもできない紋次郎の、ニヒルに見えて実は人情に厚い役どころを、淡々と演じた中村敦夫が大好きだった。それとともに、当時でも珍しいほど美しい自然にあふれた映像は、江戸時代の天保年間に見る者をタイムスリップさせてくれるようで、本当にすばらしかった。もちろん、一話の最後に、芥川隆行のナレーションで、
 「木枯らし紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという。十才の時国を捨て、その後一家は離散したと伝えられ、天涯孤独な紋次郎がなぜ無宿渡世の世界に入ったかは、定かではない」 
というナレーションは今でもしっかり言える。時々楊枝をくわえるとフッと飛ばしたくなるのも、常に紋次郎の素振りを真似していた当時の名残だろう。
 なぜそんなにも、「木枯らし紋次郎」にはまったのだろう。今でも時々、撮りためた昔のビデオを見るときがあるが、ヒューという木枯らしの音がしたかと思うと、その回の話のプロローグが短く流れる。それに切りがついた瞬間に、上条恒彦が力強く歌うテーマソング「誰かが風の中で」が流れ始める。

作詞:和田夏十、作曲:小室等、歌:上條恒彦
一、
どこかでだれかがきっと待っていてくれる
雲は焼け道は乾き陽はいつまでも沈まない
こころはむかし死んだ
ほほえみには会ったこともない
きのうなんか知らないきょうは旅をひとり
けれどもどこかでおまえは待っていてくれる
きっとおまえは風の中で待っている

二、
どこかでだれかがきっと待っていてくれる
血は流れ皮は裂ける痛みは生きているしるしだ
いくつ峠をこえた
どこにもふるさとはない
泣くやつはだれだこのうえ何がほしい
けれどもどこかでおまえは待っていてくれる
きっとおまえは風の中で待っている

もうここから、私は紋次郎の世界にどっぷりつかってしまう。後はもう画面に現れる紋次郎の一挙手一投足を息を潜めながら見つめることしかできない。何度も繰り返し見て、話の細部まで熟知しているにもかかわらず、見るたびに新しい発見がある。それだけしっかり作られていたんだろうなと思う。
 「木枯らし紋次郎」シリーズとしては二期に分かれている。一期18回の題名を調べてみたが、それを読んでいるだけでも場面が目に浮かんでくる。いや、紋次郎を見たことがない人でも、題名のいくつかを見るだけで美しい映像を想像できるのではないだろうか。以下に私が特に好きな回の題名をあげておく。
 
 第1話「川留めの水は濁った」
 第6話「大江戸の夜を走れ」
 第9話「湯煙に月は砕けた」
 第10話「土煙に絵馬が舞う」
 第11話「龍胆は夕映えに降った」
 第13話「見かえり峠の落日」
 第15話「背を陽を向けた房州路」
 第16話「月夜に吠えた遠州路」
 第18話「流れ舟は帰らず」

DVD-BOX、欲しいなあ。なんで買っていないんだろう・・・
コメント ( 9 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モリコロパーク

 今日7月15日に、旧愛知万博会場の一部がモリコロパークという愛称で開園される。地元に住みながら、結局一度も行かなかった私のようなものがあれこれ言う筋合いのもではないかもしれないが、万博の跡地をどのように活用していくかを見るのは興味深い。元々が、愛知青少年公園だった場所だから、元に戻ったと言ってしまえばそれまでだが、新聞発表などを見るといろいろな工夫がなされているようだ。
 
 
まず、なんと言っても目玉は、「サツキとメイの家」だろう。映画「となりのトトロ」の主人公たちが暮らす昭和30年代の民家を再現したものだ。木造2階建て、延べ床面積108㎡が、有料で公開される。1日あたりの制限入場者700人に対し、7月の応募は平均2580人、8月も1587人と相変わらずの人気だが、いつか入ってみたいと思っている。
 


「県児童総合センター」は、子供たちの遊びのためのフィールドであり、遊びや子育てなどさまざまな情報を提供する場所でもある。チャレンジタワー・あそびのスタジオ・あそびのラボ・ロボットシアターなどソフトの充実が図られたと言われる。(有料)

 
「愛知国際児童年記念館」は、万博会場で活躍したロボットたちが集結し、会場の入り口で、「コンニチハ」と出迎えてくれる案内ロボット「アクトロイド」などが来場者を楽しませてくれる。おもちゃコーナー・絵本図書コーナー・アドベンチャーボックスなどの施設もそろっている。(一部有料)
 

高さ約88mと東海地方いちの高さを誇る「大観覧車」は、万博当時と同じように有料で乗ることができる。13分で一周し、東部丘陵の森が一望できるという。さぞや素晴らしい眺めであろうが、私は高くて狭い密室に13分も閉じ込められるのは苦痛だ。乗りたい気もするし、いやな気もする。
 
 他にも、「森・水・風」をテーマに遊びながら自然の仕組みを体感できる遊具が設置された広場、「自然体感遊具」や、水や緑に囲まれた「日本庭園」の一部が無料で開放される。
 
 私が万博に行かなかった大きな理由は、車で会場に行くことができず、公共交通機関を使わなければならなかったことだ。会場までたどり着くのがどうにも面倒で、とうとう行かずに終わってしまったが、このモリコロパークには企業パビリオンが並んでいた公園北側に約740台分の駐車場が新設されている。これで、私にはずいぶん行きやすくなったように思われる。
 ここまでされたなら一度は足を運んで見なければならないだろう。モリゾーとキッコロには会えるのかな?
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バッティングセンター

 昨日、昼食を食べに外へ出た。ちょっとした用事を済ませて、何を食べようかという話になった。妻の「私は何でもいいけど、あなたがね・・」というワンパターンのいやみを聞きながら、古くからある洋食屋に行くことにした。昔ながらのイタリアンスパゲッティを久しぶりに食べたいと思ったからだ。車を停めたら、店のすぐ横にバッッティグセンターがあるのを思い出した。「ちょうどいい。ちょっと打ってくるから、先に入って注文しておいて。すぐに行くから」と妻に言っておいて、バッティングセンターに走った。
 このブログでも何度か取り上げたことがあるが、私は毎晩ちょっとした体の鍛錬を続けている。腹筋80回以上、腕立て伏せ35回以上、バットの素振り100回以上を毎晩のノルマにしている。最近は雨の日が多く、なかなか予定をこなせない日もあるが、2年以上はずっと続けている。その間に体が締まって、胸や腕に筋肉がつき、この年になって肉体改造が少しはできたのではないかと密かに誇らしく思っている。まあ、もともと筋肉質ではないので、大してかっこよくはないのだけれど。
 バットの素振りもずっと続けている間に、スイングが早くなり、バットコントロールも自在にできるようになって来た。少しずつ努力を積み重ねたことで、素振りに必要な筋肉がついたのであろう。ぶんぶん振り回しても、体がしっかりしてふらついたりしなくなった。しかし、それはあくまでも素振りだけのことであり、実際にバットにボールを当てたことは一度もなかった。ずっとバッティングセンターで成果を試したいものだとは思っていたのだが、家から遠いこともあり、忙しくて時間がとれずに今まで一度も試すことができなかった。それが、昨日まったくふって沸いたように絶好の機会が訪れた。これを逃したらまたしばらくは・・などと半ば追い立てられるようにしてセンターの中に入った。
 さすがに平日の昼間、誰もいない。がらんとしてどこのゲージにも入れる。私は左バッターなので、入れる場所は2箇所しかない。その中でも、無理せず球速80kmのゲージを選んだ。入り口にあったバットを適当につかんで、100円を機械に投入した。軽くバットを振ってみて驚いた、軽い、短い、えっ?と思ってバットを見ると少年用と書いてある。しかし、もう遅い。一球目が投げられた。ダメだ、届かない、空振り・・・何球か繰り返したがダメ。怖いけど、ベースに近づいてみた。キャッチボールよりも少し速いくらいの球だが、何とか当てることはできた。しかし、やはり軽いし短い。どうにもタイミングがつかめずに終了・・・なんだったんだ、今までの素振りは。これくらい当てられないのか。悔しくて、このままでは帰れない。
 バットを一般用にかえて、再び打席に立つ。一球目、無心に振るといい当たり、手ごたえもばっちりで、ライトフライくらいの感触だ。さすが、バットがちゃんとしていればできるに決まっていると、自信が回復してどんどん振ってみる。なかなか鋭い当たりを連発できた。空振りは一度もしなかった。なんといっても、ぼーるに打ち負けないのがうれしかった。バシッと叩くと気持ちよくボールが飛んでいく。これこそ、毎日繰り返してきた成果だ。うれしくなってきたが、すぐに終了。まあ、これくらいでやめておいたほうが無難だろう、と思った。30回くらい振ったと思うが、まったく疲れを感じないし、汗もあまりかいてない。我ながらかっこいいじゃん、などとナルシストっぽい思いを抱きながら、妻の待つ洋食屋に入った。
 
 「なんで来たの?ずっとバット振っていればいいのに」妻のいやみなどまったくどうでもいいくらいに気持ちがよかった。本当にずっとバット振っていればよかった。
 今度行くときは、忘れずにマイバットを持っていこう!
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バナナ

 ビッグコミック・オリジナルという隔週で発行される漫画雑誌がある。その最後の目次のページに、業田良家が描いた「百年川柳」という4コマ漫画が連載されている。毎号欠かさず面白く読んでいるが、先週発行されたものは特に面白かった。
 
 1コマ目「他のフルーツだと
      洗ったり
      包丁で切ったり
      皮を剥いだり
      そうじゃなくても 
      果汁で手が汚れたり・・・
 2コマ目「その点バナナは
      配慮がいき届いている
 3コメ目「普段は丈夫な皮で
      その身を守っているが    
      いったん人から
      食べられるとなると
      異様に剥きやすく
      直径も
      ちょうど人の口に収まる
      程よい大きさ
      さらに種もない
 4コマ目「『バナナを食べる時、
      神様って本当にいるんじゃないか・・・
      って思うんだ』」
  『食べやすい!神のサービス バナナかな』(良家)

これを読んで、本当にそうだなと思った。バナナは食べやすい、おいしい、手が汚れない、栄養がある・・本当に素晴らしい食べ物だ。私はバナナが好きだ。(時々喫茶店でバナナジュースを飲むくらいだ)。改めてバナナのいいところを認識できてうれしかった。
 しかし、ちょっと待てよと思った。「バナナに種ってないのか?もしそうなら、どうやってバナナって増えるんだ?」と素朴な疑問が沸き起こった。意外なことを知っている妻に尋ねてみたら、「何言ってるの、種なんかあるに決まってるじゃん、あの黒い粒々」と答えた。「えっ、あれが種?」なんだか納得できずに google に「バナナの種」と入力して検索してみた。するとあまりに簡単に答えが見つかってしまった。

 栄養価が高くおいしいフルーツの代名詞のバナナ。しかし、バナナの種はどうしてないのだろうか。
 実は、マレーシアに残る野生のバナナにはちゃんと種が詰まっている。スーパーなどで売られているバナナを輪切りにすると中心部残る黒い点々が種の痕跡で、食用のバナナにのみ種がない。
 この種なしのバナナが出来たのは紀元前5千年前のことで、遺伝子の突然変異により偶然に生まれたと言われている。
 ちなみに種のないバナナは、新芽を利用して栽培している。

ちょっと拍子抜けしてしまうくらい簡単に答えが見つかってしまった。そうか、そうなんだ。ひょっとして常識なんだろうか?
 妻にも教えてやろう。


 
コメント ( 19 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掃除機

 学生のころ、学校の掃除をするのは大嫌いだった。何とかサボって楽しようとばかり考えていた。何で掃除なんか毎日しなけりゃいけないのか分からなかった。早く帰らせてくれよ、と碌に協力もしないで文句ばっかり言っていたような気がする。
 しかし「天網恢恢疎にして漏らさず」だ。若い頃にずるいことばかりしていると必ず後年そのしっぺ返しを食らうようにできている。今では、私は毎日毎日、塾の教室の掃除を自分で行っている。他にやってくれる者がいないから仕方ない。もう20年以上、来る日も来る日も掃除機をかけている。それだけに掃除機の扱いについてはなかなかの腕前だ。妻よりもよっぽどきれいに掃除機をかけられると自負している。



これが現在愛用している掃除機だ。日立製の業務用の掃除機で土間の掃除もできるそうだが、室内にしか使っていない。吸引力も強くて、見かけほど重くもない。使い勝手はなかなかのものだ。もう5年くらい使っているが、これにたどり着くまでは家庭用のクリーナーを何台も買い換えた。私が力任せにガンガン床や壁にぶつけるからだろうが、黒板のチョークのかすを吸い込ませることもよくないのかもしれない。本当にすぐにだめになってしまい、定期的に新品を買わねばならなかった。費用もかさんで頭痛の種だったが、電気店にこの掃除機を紹介されてからは壊れる心配がほとんどなくなった。力任せに取り扱っても、どんなごみを吸わせても、私の期待通りの働きをしてくれる。心強い相棒だ。
 しかし、こんな素晴らしい掃除機でも、1つだけ難点がある。それは吸ったゴミが通っていくチューブが妙にちぎれやすい。らせん状に巻かれたチューブに時々亀裂が入る。こうなると空気が漏れてしまい、どうしようもなくなってしまうので、そこを切り取ってセットし直さなくてはいけない。自力でできる作業であるから、お金はかからないが、結構面倒で時間がかかる。一昨日それが久しぶりに起こった。
 2cmくらいの亀裂があるのを見つけたのが遅かったため、授業開始の時間までに直すことができず、急遽家の掃除機(同じものを使っている)を借りてきて、教室の掃除は終えることができた。しかし、2日も借りたら妻に文句を言われるに決まっているから、面倒だが、昨日チューブを直してみた。が、やっぱりすぐにできない。接続部に食い込んだチューブを金具で引っ張り出しているうちにチューブがグニャグニャになってしまった。途中で投げたしたくなるほどだったが、そうも行かずに我慢して何とかセットした。どうにもこういう細かい作業は苦手だ。途中でいつも腹が立ってくる・・・


 それにしてもこんなことを繰り返しているから、買った当初と比べるとずいぶんチューブが短くなった。このままいったらチューブなんてものがなくなってしまう。いや、私のような荒っぽい使い方を続けていたら、モーターが焼き付いてしまうほうが早いか・・・。いづれにしても、道具をもっと丁寧に扱えと言うサインなんだろうな。
 
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前ページ 次ページ »