EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 15、NHK松山放送局制作放映された「碑文に残された好古の思い」

2019年03月01日 | 伊予松山歴史散策

番組「NHK松山放送局制作・碑文に残された好古の思い」はこの画面から始った。

 NHK松山放送局 放送部編成専任部長・阿部さんは、秋山好古についてはいろんな資料が残っているが好古が揮毫し全国に存在する石碑調査をこれだけ綿密に調査していることに驚き、そして揮毫から建立に至る経緯が貴重なものだと評価して頂き、番組を編成企画し制作立案しますと言って頂いた。

そして遂に番組制作が決定しロケが行われることになった。
ロケの前に48基の石碑静止画像をNHK松山放送局放送編成部に送り、NHKがその中から選択して放映に使った。

これからの画像は、TV映像を切り取ったものです。

ナレーションは、NHK松山放送局の女性アナウンサー・田中紀英さんが語ってくれました。

 秋山好古が揮毫した石碑調査を始めてから今年で14年の年月が経つ、平成17年5月5日、大阪市からお越しになったある男性からの暴言がきっかけで石碑調査の事始めとなり、現在全国に52基の石碑が発見され全て取材を終えている。
52基目の石碑は、平成28年5月30日、長野県安曇野市豊科にある、内田与作騎兵隊員の墓石であった。まさか墓石に好古が揮毫していたとはビックリでした!

 そして、この石碑(墓石)が最後で以後発見されていない。
取材ロケは、石碑調査を始めて48基目が発見された平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いた。

番組制作を企画してくださったのは、NHK松山放送局 放送部編成専任部長、阿部 真人さんでした。
そしてナレーションは、NHK松山放送局の女性アナウンサー・田中紀英さんが語ってくれました。

ロケ地は、NHK松山放送局が選定した、松山市神田町の厳島神社境内にある「表忠碑」と今治市大西町にある「衆心和暢化乃成」で午後2時から雨天の中でのロケでした。
私は、阿部放送部編成専任部長に、「天候の良い日であれば綺麗な画像が撮れるのに残念ですね」・・と伺うと、この番組には雨天の方が情緒ありいいですよと言われた。

放映は、NHK四国管内限定で、平成23年12月16日から数回放映があり、スペシャルドラマ坂の上の雲、第3部が始まる時であった。
この後、NHK松山放送局は新潟市にある秋山好古揮毫石碑の取材ロケに行った。

NHK松山放送局制作「碑文に残された好古の思い」の番組映像を石碑調査でお世話になった愛媛県外の新潟市・東京都・千葉県習志野市の方々に映像をダビングして送りました。

揮毫嫌いであった秋山好古は、大正14年元内閣総理大臣・清浦圭吾氏が来松、清浦圭吾氏が早朝から宿舎の旅館で揮毫する姿をみて新田長次郎氏の強い勧めで好古は揮毫するようになった。
現在(平成31年3月1日)52基の石碑が発見されているが、大正13年以前の石碑は少なく、大正14年以降に揮毫された石碑が多い。
大正13年以前の揮毫は、よほどの方からの依頼でないと揮毫しなかった。

平成17年5月5日、大阪市からお越しになったある男性からの暴言がきっかけとなった社号額で石碑の調査の事始めとなったのである。

 

伊豫十二景は、大正15年6月海南新聞社主催で読者投票によって選定された本県の名所名勝である。
2ヶ月の投票期間に120余の候補地があがり総投票数70万5315票の中から伊予史談会幹事6名の立会いのもと開票され結果第一位に鹿島・二位以下は、白猪の滝・極山の薬師・歌仙の滝・砥部銚子の滝・麻生金毘羅権現・久万の台・宮内天満宮・仙波ヶ嶽・重信川口・重信橋・和気浜の順である。

13位から24位までは「裏伊豫十二景」として発表された。
裏伊豫十二景:樽滝・面河・祇園公園・湧ヶ渕・松山城・八幡浜八幡・臥龍・法ヶ津峠・生石八幡・石手川長堤・志々満ヶ原・波止浜公園である。

旧愛媛県周桑郡三芳村(現西条市)在住のスエ女は、渡辺小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟する身となった。
スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。

官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となった。そして明治36年に亡くなった。
スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。三芳村では後生にスエ女の徳をたたえるため、昭和3年表彰碑を建立した。
石碑裏面に、文部大臣 勝田主計(秋山眞之の後輩)の渡邊スエ女を称える献上文が書かれている。

昭和3年松山市立清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して20数名の先生方が醵金して校庭に建立した。
昭和20年10月米英を主とする連合軍が松山に進駐し「連合軍最高司令官マッカーサー元帥の命令で撤去せよ」と、松山進駐軍第24師団司令官・トーマスD、ドレーク陸軍大佐から撤去指示が出され撤去した。

撤去した石碑は、平成7年9月まで清水小学校の用具室に眠っていたのを、同年10月渡部校長の許可を得て愛媛県護国神社、波爾荘(はに) 識(さかえ)宮司の努力で境内に再建立した。
碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。撤去指示が出されたのは、義務教育の施設である小学校の校庭に陸軍大将揮毫の石碑それも「天壌無窮」の碑文も原因であったのではないかと思う。

 新潟県新潟市江南区沢海(北方文化博物館の隣接)にある忠魂碑で、NHK松山放送局が取材に行った石碑である。

 大正13年以前の揮毫は、よほどの方からの依頼でないと好古は揮毫しなかった。
画像の新潟県新潟市江南区沢海(北方文化博物館の隣接)にある忠魂碑の揮毫は、新潟県中蒲原郡横越村・神田又一村長が、伊澤多喜男・新潟県知事に忠魂碑を秋山好古に揮毫してもらいたくお願いした。

伊澤多喜男知事の前任地は愛媛県であり、秋山好古も愛媛県の生まれで旧知の中であった。
愛媛県知事から新潟県知事に転任して来た伊澤知事は、大正2年2月1日、新潟県高田に居た第13師団長秋山好古中将を表敬訪問しその時に忠魂碑の揮毫をお願いし画像の石碑が建立されたのである。

 伊澤多喜男新潟県知事はその後、警視総監、東京市長に就任した。
第13師団はその後満州に移転し秋山好古も満州に行くこととなる。
新潟県高田在任僅か2か月であった秋山師団長は、新潟県魚沼市堀之内竜光にある、天満神社境内に「戦役記念」の記念碑がありこれも揮毫している。

この揮毫経緯については不明であるが村の代表者が伊澤知事にお願いし渡満直前の師団長・秋山好古中将に揮毫を願い出たのではないか?です。
新潟県中蒲原郡横越村・神田又一村長が、何故忠魂碑を秋山好古に揮毫依頼したかは、秋山好古が騎兵第1旅団長時代、好古が最も信頼する副官が3名いた。
その3名とも新潟県出身者であった。

 1人は、豊邉新作(長岡藩筆頭家老・河井継之助の従弟の子)
2人目は、建川美次で「敵中横断三百里」の主人公として有名で、大東亜戦争開戦時ソ連大使として「日ソ中立条約」に松岡洋右外務大臣とともに調印している。
3人目の副官は、山内保次で、騎兵第14連隊の小隊長として秋山旅団長から斥侯隊長を命じられ適地深く偵察し重要な情報をもたらし奉天開戦に寄与した。

また、秋山好古騎馬像制作にあたり、山内保次がモデルとなり、彫刻家の横江嘉純が作り上げた。
このような事案があり、神田又一村長は秋山好古師団長に揮毫をしてほしかった。村民上げての願いであったのではないか。

新潟県新潟市江南区沢海(北方文化博物館の隣接)にある忠魂碑は平成26年3月13日付で新潟市民文化遺産に認定された。
現在も忠魂碑の前で戦没者慰霊祭が行われている。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑で、秋山好古石碑の中で一番古い石碑である。
画像に大きな石碑の右側の小さな石碑が明治29年6月30日に建立された一番古い石碑である。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑で、秋山好古石碑の中で一番古い石碑である。
日清戦争の時に秋山好古率いる騎兵第1連隊の隊員15名が戦死したその哀悼碑で、裏面には戦死した隊員の氏名・戦死場所・戦死年月日が刻まれている。
石碑の石の調達、碑文、建立者全て秋山好古である。

愛媛県今治市大西町にある「衆心和暢化乃成」の記念碑で雨天の中でのロケであった。
この石碑は、現在52基の石碑が発見されているが、漢詩で揮毫された石碑はこの石碑のみである。
「衆心和暢化乃成」の意味は、みんなの心が、穏やかで、伸びやかであれば、教育は間違いなく、実ってゆく。・・でこれは、秋山好古の原作で出典なしである。

今治市大西町は元、愛媛県越智郡小西村で当時の村長・近藤氏も校長をしていた人物で、秋山好古を尊敬していた。
好古は元大阪師範学校(現大阪教育大学)を卒業し、名古屋師範学校付属小学校の教師であった。
軍服という甲冑を身に着けた教育者であった好古に、これからの小西村発展の基盤となる事を願って揮毫を頼んだ。

 

平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いたロケ画像。
場所は、松山市神田町1番7号、厳島神社で雨天であった。
石碑裏面に日清・日露戦争で戦病死された氏名が記載されていて、合祀及び対象者:三津浜地区・264柱である。

この石碑は、平成20年10月3日、NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介された。                    52基の石碑の中一番大きな碑である。

NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」の中に出てくる映像で、伊予松山城で松山城の直ぐ北側に北豫中学校(現 愛媛県立松山北高等学校)がある。

伊予松山城の北側にある、秋山好古が地元の強い要請を受け赴任した北豫中学校。(現 愛媛県立松山北高等学校)

秋山好古は、大正14年4月から昭和5年3月迄北豫中学校を務めた。
好古は、日清・日露戦争で従軍し亡くなった部下の事を思い陸軍大将になっても極力華美な生活は控え元帥に推薦されるも断わると大元帥(大正天皇)は驚き、特旨として官位従二位を与えた。
郷里の強い要望に応え、北豫中学の校長を引き受け青少年の育成に尽くした。

現在の愛媛県立松山北高等学校で、秋山好古校長資料館の前で秋山好古校長を偲ぶ在校生。

NHK松山放送局制作の「碑文に残された好古の思い」の終わりの画像。

そしてスペシャルドラマ坂の上の雲、第3部のPR画面が流れた。

平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いたロケ画像。
場所は、松山市神田町1番7号、厳島神社でカメラさんは雨合羽を着用し、スタッフに傘をさしてもらっての撮影。

 

平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いたロケ画像。
場所は、今治市大西町山之内、薬師堂でカメラさんは雨合羽を着用し、スタッフに傘をさしてもらっての撮影。

 
平成31年2月1日、現在秋山好古揮毫石碑所在地。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする