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新潟市の神田氏萬翠荘を見聞

2013年03月27日 | 伊予松山歴史散策
3月6日、松山市興居島由良町に建立された土木技師宮本武之輔さんの顕彰碑を見聞し、翌日7日、萬翠荘を見学した。
萬翠荘は、松山市一番町三丁目にあり、旧伊予松山藩主であった「久松定謨伯爵」が松山で住む別邸として大正11年、フランス・ルネッサンス風の洋館で、設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家木子七郎である。

この建物は、松山市で一番古い鉄筋コンクリート造りの建物で「萬翠荘」と命名した。命名は、定謨の子で次代当主となった久松定武氏である。建築面積428.78平方メートル(129,7坪)、地下1階、地上2階建て、屋根は寄棟造、宮城県石巻市雄勝石のスレート瓦葺と銅板葺き仕上げである。

一階東側は、表がサロン(謁見の間)、裏手が食堂(晩餐の間)となり、西側には執事室、配膳室など内向きの部屋を配する。2階は居間、寝室などの居住スペースとする。玄関ホールの柱は岡山産の万成石(通称紅桜)、正面階段の手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一本木、各部屋には色の異なる大理石で造られたマントルピース(暖炉)、水晶のシャンデリア、大きなステンドグラス等、非常に質の高い第一級品造りとなっている。

特筆事項は、建築中大正11年11月15日に松山の高浜沖で日本陸軍の大演習が行われ、皇太子摂政宮(昭和天皇)が総監として行啓された。その時松山での宿舎として工事中であった萬翠荘を突貫工事で造り上げた。その後先の大戦終結後米軍に接収、昭和22年からは松山商工会議所としても使用され、平成9年から愛媛県立美術館分館郷土美術館となったが、平成21年閉館となり、平成23年11月29日国指定の重要文化財に指定され、以降各種展示会場として愛媛県の文化向上に貢献現在に至っている。

参考:建築設計家、木子七郎は全国に多くの設計した建造物があるが愛媛県庁舎と新潟県庁舎も設計している。新潟県庁舎は、愛媛県庁舎のドームを除くとよく似ている。
新潟県庁舎は、木子七郎の設計で、昭和7年建設されたが、昭和57年に老朽化に伴い解体、新光町に現新潟県庁舎は建設された。また木子七郎氏夫人は、新田長次郎氏の娘であった縁で愛媛県では愛媛県庁、鍵谷カナ頌功堂、石崎汽船本社など数多くの建物が残されています。


大正11年に完成した旧伊予松山藩主・久松定謨伯爵の松山での別宅として建築された萬翠荘。


地元高校生が造った萬翠荘の模型。


萬翠荘の屋根で、今まで知られてなかったスレート瓦は、宮城県石巻市特産の「雄勝石」で葺かれている。奥は銅版葺。


屋の裏を新潟市北方博物館理事神田氏の見聞との事で特別に見学させて頂いた。


同行した秋山兄弟生誕地研究委員各氏も始めて見る構造。


大正11年当時の鉄骨も何の老朽化もなく重い屋根を支えている。
板張りには、各名木店が納めた店名が書かれてあった。


昭和20年10月進駐してきた米軍に接収された時代の表示版が残してあった。


屋根には避雷針が7本設置されているが、一番大きな避雷針でなんと木造で造り外側を銅版で覆い避雷針としていた。


二階東側にある、久松定謨伯爵が使用していた寝室。


装飾など全てを第一級品で設えたその一つで、二階にあるステンドグラス。


オール水晶の大型シャンデリア。


新潟市北方博物館理事神田氏を囲んで、二階バルコニーで見学記念。


大正11年11月15日、昭和天皇が摂政宮の時、陸軍の大演習が松山市高浜沖で行われ荒神山から観閲された。その時の様子を報じた、大正11年11月17日付の海南新聞(現 愛媛新聞)。


この画像は萬翠荘が建築される前までにあった伊予松山藩家老屋敷の和風建築で平屋建てに接して2階建の建物があった。
夏目漱石は、明治28年4月英語教師として松山中学校に赴任、この建物に下宿した。
後年小説「坊ちゃん」の題材となった「愛松亭」がこれである。
その後取壊され大正11に萬翠荘が出来る。
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