EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

菅原道真 伊予の足跡

2012年01月26日 | 伊予松山歴史散策
今年も受験の時期が遣って来た。
受験と言えば学問の神様「菅原道真公」、京都の「北野天満宮」の神様は、合格祈願のため参拝する受験者の願いを叶えるため大忙しではないでしょうか。

伊予松山にも菅原道真公に纏わる事柄があるので紹介します。
先ず、伊予松山藩第3代城主「松平 定行」に関すること。
松平定行(久松定行)の父親定勝は、徳川家康を出産した母親(伝通院夫人)が久松俊勝と再婚して定勝が誕生した。したがって定勝は家康と異父同母弟であって、その子が伊予松山藩第3代城主定行である。

伝通院夫人が再婚した久松家の祖先は菅原道真公であり家紋も梅鉢である。
文政6年(1823)松山藩主久松定通は伊予松山城東山麓に東雲大明神と称え、久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と伊予松山藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎し、藩崇敬の神社とした。明治13年2月東雲神社と改め県社に列格した。

履脱天満宮は、菅原道真が昌泰4年(901)左大臣藤原時平にざんそされ大宰府の副司令官として左遷され瀬戸内海を航海中、嵐にあい遭難して愛媛県今治市桜井海岸に漂着した。陸路西下し現在地の愛媛県松山市久保田町に滞留し具足を脱いで休息したところとされていて由緒のある神社である。境内に道真が「星占い」をしたと言う、松山七不思議のひとつ「占い池」がある。そして秋山好古揮毫の石碑「履脱天満宮」の石碑が建立されている。

道真はあまりにも居心地がよかったのか長居をしたため、朝廷から勅旨が訪れ早く大宰府に行くよう指示され松山市今出の濱から船で旅たった。
その時見送る人々に「今でるよ」と声をかけたので松山市西垣生の濱を「今出」の濱と呼ぶ。

また松山市北久米町に龍天満宮神社があるが、ここに菅原道真公が座られたと言う石がある。

菅原道真公は、延喜3年(903)2月15日逝去された。


京都の北野天満宮・本殿で、私が参拝に行ったときは受験も終わり一段落した時期であったので参拝者は少なかった。


北野天満宮に掲示されている各種祈祷。


久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と伊予松山藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎し、藩崇敬の神社とした。明治13年2月東雲神社と改め県社に列格した社殿。


久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と伊予松山藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎している本殿。


松山市久保田町にある「履脱天満宮」で大宰府に左遷され瀬戸内海を航行中、暴風に遭遇し今治市桜井海岸に漂着、ここから陸路松山に移動この神社で具足を脱いで休憩した。しかし居心地がよかったのか長居をしたために、朝廷から勅旨が訪れ早く大宰府に行くよう指示された。


天満宮の秋山好古揮毫の社号石碑がある。


松山市北久米町の「天満神社」境内にある道真がこの地に寄って石に腰をおろし休憩したと言い伝えがある「腰掛石」。またこの地は星ノ岡の一角で、元弘3年(1333)北条時直が探題府の兵を率いて宮方軍の土居・得能連合軍と壮烈な戦いがあった古戦場である。この戦いが全国に広がり鎌倉幕府は滅亡した。
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