EEKの紀行 春夏秋冬

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新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」2

2011年06月14日 | 新潟市の旅「秋山好古と新潟の人びと 2
新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」2

6月9日、昨晩北方文化博物館宿泊施設「大呂庵」に泊り早朝博物館周辺を散策した。

先ず秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」を参拝、三度目の拝観、そして江戸時代から伊予松山と縁がある沢海藩主四代目の墓参をし、沢海藩城址を見学「現在は阿賀野川河川敷」公園となっている。

沢海(現在、新潟市江南区沢海)と伊予松山とは江戸時代伊予松山藩初代藩主、加藤嘉明との繋がりから、大正2年には、秋山好古が高田の第13師団長として赴任、同じ時期に愛媛県知事の伊澤知事が、新潟県知事に転任赴任現在は、松山市の歌「この街で」の作曲家、新井満氏、長い繋がりがある。

註1:沢海藩は慶長15年(1610年)新発田藩二代藩主溝口宣勝の弟、溝口善勝(沢海藩初代藩主)が新発田藩から1万2千石を分知され成立。

溝口政勝没後嗣子、政良が三代藩主となるが、嫡男政武が早世した為養子政親を四代藩主に迎える。
しかし政親の不行跡により貞享4年(1687年)沢海藩は廃絶となり領地は幕府直轄天領となる。
四代藩主溝口政親は承応(じょうおう)2年生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)水口(みなくち)藩主加藤明友の次男で加藤 明友(かとう あきとも)は、石見吉永藩主。後に近江水口藩の初代藩主となる。加藤嘉明の孫にあたる。

註2:加藤 嘉明(かとう よしあき)は、伊予松山20万石の初代藩主である。

註3:政親の不行跡とは・無能で、百姓に対しては過酷な重税、おまけに酒に溺れては狂乱に陥る振舞いがあったため、貞享4年(1687年)8月、所領を没収されて兄の加藤明英の江戸藩邸にて謹慎を命じられた。こうして、沢海藩は廃藩となったのである。

新井満さん作詞・作曲「松山市の歌「この街で」
「この街で」
作詞:新井満 作曲:新井満&三宮麻由子 編曲:井口拓磨 
この街で生まれ この街で育ち  
この街で 出会いました あなたと この街で
この街で恋し この街で 結ばれ  
この街で お母さんに なりました この街で
あなたの すぐそばに いつもわたし
わたしの すぐそばに いつも あなた
この街でいつか おばあちゃんになりたい 
おじいちゃんに なったあなたと 歩いてゆきたい  
坂の上に広がる 青い空 
白い雲が ひとつ 浮かんでる  
あの雲を 追いかけ 夢を追いかけて よろこびも 
かなしみも あなたと この街で  
この街でいつか おばあちゃんになりたい
おじいちゃんに なったあなたと 歩いてゆきたい  
この街でいつか おじいちゃんになりたい
おばあちゃんに なったあなたと 歩いてゆきたい    
いつまでも 好きなあなたと 歩いて ゆきたい

新井さんが自費でレコーディングし、原盤を松山市に寄贈、市がまちづくりイベントのBGM等に活用し、色々なところで使われています。愛媛銀行本店支店全店でBGMとして流している。やはりはじめて出会った感動はずっと残っています。
またJR松山駅では列車が着くたびに「この街で」が流れます。

私も今回越後の旅をし出会った皆様の事は末永く脳裏に刻まれ忘れる事はないでしょう。


越後の「豪農の館」空撮で作成したポスター、現在は上部の土地を野外ステージ、駐車場、レストランが増設されている。
生前、司馬遼太郎は、私ども戦後日本人は、不便は便利に抗しがたい。それに歯止めをかけるのは、陸羯南と北方文化博物館の伊藤文吉で、戦後日本で初めて私立博物館として開設した。・・先日新潟に伺った時に伊藤文吉館長にもっと骨格のある日本を構築する必要ありと貴重なお話を伺った。

ポスター:北方文化博物館提供・・昭和58年頃の写真で、その後関越自動車道、北陸自動車道などが開通し、集落にバスが渋滞し、農耕車が出入りできなくなり、大問題となり伊藤家の裏の田 んぼを大駐車場にした経緯があり現在は少し様子が変わっている。




北方文化博物館正面、詳細は北方文化博物館のHPご覧下さい。


北方文化博物館に隣接する日枝神社境内に建立されている好古揮毫石碑「忠魂碑」毎年石碑前で慰霊祭が開催されている・・石碑撮影は難しくこの日は石碑に木漏れ日が降り注ぎ綺麗な石碑は撮れなかった。


北方文化博物館外側渡り塀・・伊予松山城二之丸御殿の敷地よりも広大さにビックリ


北方文化博物館の駐車場で、ヘリポートも完備してある。


北方文化博物館の宿泊施設「大呂庵」お風呂も桧造りの立派


北方文化博物館の宿泊施設「大呂庵」のサンルーム


北方文化博物館の米蔵で現在は美術館として活用されて、いま良寛展が開催中であった


沢海城跡:慶長15年(1610年)から貞享4年(1687年)8月溝口四代続いた沢海藩城址・・現在は阿賀野川河川敷公園となっている


沢海城の古図:北方博物館提供

沢海藩は慶長15年(1610年)新発田藩二代藩主溝口宣勝の弟、溝口善勝(沢海藩初代藩主)が新発田藩から12、000石を分知され成立し、貞享4年(1687年)沢海藩当時の沢海城の古図。現在は阿賀野川河川敷公園となっている。
※沢海藩第四代藩主、溝口政親は承応2年生まれ。近江(滋賀県)水口藩主加藤明友の次男で加藤 明友(かとう あきとも)は、後に近江水口藩の初代藩主となる。加藤嘉明(伊予松山藩初代藩主)の孫にあたる。・・この時代から伊予松山と沢海のご縁があった。


秋山好古と新潟の人びとを刊行した神田勝郎氏邸宅で神田氏と

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新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」1

2011年06月14日 | 新潟市の旅「秋山好古と新潟の人びと 1
3月26日に三度目の新潟市訪問をいたし、秋山好古を介して新潟市横越の皆さんと秋山兄弟生誕地と今後の親交を深めて行くための準備会開催であったが、東北大地震のため延期にしていた。
先日6月8日付で神田氏が書籍「秋山好古と新潟の人びと」を刊行されそのお祝いをと、そして新たに魚沼市に発見された好古揮毫石碑「戦役記念」の取材を兼ねて新潟を訪れた。

6月8日、松山市は濃霧が発生、私が搭乗する飛行機は羽田発第一便が折り返し便で、しかし羽田発の機は、条件付飛行「松山空港の条件が悪い場合は、大阪伊丹空港、または羽田に引き返す」でした。
9時過ぎに何とか着陸出来る気象条件に回復、機は松山に到着、なんとか羽田に行く事が出来た。
東京駅でも異変あり、13時12分発のMAXとき当初の発車番線が変更、慌てて一度階下に降りて変更番線に上り無事乗車出来た。

高崎を過ぎると直ぐに大清水トンネル、1番目のトンネル通過時間4分、2番目トンネル5分、3番目トンネル10分、4番目のトンネル7分、5番目トンネル3分、6番目トンネル4分、高速走行をしての時間、長いトンネルである。トンネルを出るとそこは広大な越後平野が視野に・・殆ど田植えは終えていた。

昨年3月17日に伺った時は、川端康成の世界、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった……でした」・・が今回はすっかり初夏の季節であった。

15時14分無事新潟駅到着、神田氏が車で出迎えて頂き北方文化博物館に向かい、伊藤館長、伊藤副館長、佐藤統括室長、横越コミュニティ協議会会長、新潟市江南区横越支所長、新潟市歴史研究家、18時から北方文化博物館「大呂庵」で神田氏刊行のお祝い会と交流会が始まり、その中で「新潟好古会」の設立が決まった。
伊藤館長さんの言葉に秋山好古の生き様を現代日本を背負っている人々に好古哲学を勉強してほしいと言われた。

9日は新潟市の文化施設「北方文化博物館新潟分館」「会津八一記念館」「旧斉藤家」「護国神社」「横田めぐみさん」が拉致されて海岸・・天候が悪く佐渡島は見えなかった。

10日魚沼市の好古揮毫石碑取材、11日は千葉県鎌ヶ谷市道野辺八幡宮神社
12日大阪府富田林市の鐘馗さんを撮って来ましたので画像で紹介します。


無事羽田から松山空港に着陸、予定時間10時35分発が10分遅れで離陸、雨雲を突きぬけ上空は画像の様な快晴であった。


羽田には定刻通り11時55分に着陸、羽田上空も雲が立ち込め、かなり低空になってから東京国際空港が有視界に入り無事着陸出来た。


東京モノレールの窓越しに撮った東京タワーで、東北大地震で曲がったアンテナ、修復したそうだが未だ曲がっていた。・・これ以上修復困難との由


上越新幹線、MAXときの2階車両部分


上越新幹線、MAXときの2階座席に上る階段


上越新幹線、MAXときの1階車両部分


無事予定の旅程で目的地に到着、新潟市江南区沢海にある北方文化博物館に・・
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書籍「秋山好古と新潟の人びと」

2011年06月06日 | 書籍「秋山好古と新潟の人びと」
私は、平成17年5月5日に秋山兄弟生誕地で起きたある出来事を機会で秋山好古揮毫石碑の調査をする事になった。
それから6年の歳月がながれた。
平成21年1月7日が「秋山好古生誕150年記念」になり記念に好古揮毫石碑写真集を発行した。
その後、5基新たに石碑が発見された。

その内の一つが、昨年3月新潟市江南区沢海にある日枝神社「北方文化博物館に隣接」境内に発見、碑文は「忠魂碑」日本海唯一の石碑でしかも現在も毎年忠魂碑の前で慰霊祭を開催し故国のために戦死された御霊を祀っている。
好古揮毫石碑の中で忠魂碑が12基、表忠碑が1基、招魂碑が1基あるが、忠魂碑の前で慰霊祭が開催されているのは新潟市の沢海だけである。
昨年9月6日開催された慰霊祭に参列させていただいた。

この忠魂碑建立の経緯を詳細に調査された新潟市江南区横越在住の神田勝郎さんが書籍を発行された。
標題は「秋山好古と新潟の人びと」-坂の上の雲-とその時代-である。
内容は、写真をふんだんに取り入れられ読みやすい書籍である。
なお、非売品なので図書館等々で閲覧下さい。
松山市管内では、昨日愛媛県立図書館・松山市立中央図書館、秋山兄弟生誕地に納本され、新潟県でも県立図書館、市立図書館に納本される予定であり、国立国会図書館にも納本されます。・・是非閲覧下さい。


平成22年3月17日石碑の取材に北方文化博物館に伺い、秋山好古揮毫石碑を介して松山市と新潟市の交流が始まった。撮影:平成22年3月17日
現在好古揮毫石碑は全国に48基発見されているが、新潟市沢海の石碑の造りが一番立派で、刻印も深く好古の揮毫もどっしりとした重厚な揮毫をしている。そして石工さんの技が素晴らしいく・・いい仕事をしておられる。


昨年9月5日、神田勝郎氏が講師で秋山好古と新潟の人びと・・と題した講演会が北方文化博物館開催され私も松山から車で参加しその時に撮りました好古揮毫石碑で、慰霊祭開催の為献花がしてありました。
撮影:平成22年9月5日


平成22年9月6日北方文化博物館に隣接する日枝神社で開催されました慰霊祭・・好古揮毫石碑前で遺族会・地区自治会関係者の皆様と撮影・・平成22年9月6日


神田勝郎氏が平成23年6月8日付で刊行される書籍の標題紙
書籍は、我が家に6月4日に届き、5日に愛媛県立図書館と松山市立中央図書館に納本し、6日に秋山兄弟生誕地と愛媛県立松山北高等学校秋山好古資料館に納本した。


神田勝郎氏が平成23年6月8日付刊行される書籍に対して北方文化博物館伊藤館長さんのお祝いのことば


書籍目次-1


書籍目次-2


書籍奥付


平成23年5月5日、新潟県柏崎市在住の柴野氏から写真添付の秋山好古揮毫石碑「戦役記念碑」が在りと書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。
柴野さんが確認したのは中越地震前で現在は未確認、中越地震で倒壊していると思うので秋山兄弟生誕地で確認を・・とあった。早速北方博物館と神田氏に建立確認を依頼した。5月7日神田氏は魚沼市の現場に急行調査の結果、中越地震で倒壊したが3年前に再建立され立派に現存する事が判明し、6月10日に写真取材に行って来る事にした。
コメント (2)
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