明治初期松山城は取り壊しの危機にあった。存続の一番の功労者は、当時愛媛県吏員であった伊佐庭如矢で、存続の英断を下した、維新の三傑大蔵卿・大久保利通と、内務卿・木戸孝允(桂小五郎)であった。
廃城を免れた明治時25年頃の松山城本壇で、天守並びに小天守・南隅櫓である。
写真の裏に「松山や 秋より高く 天主閣」明治25年秋に子規と書かれている。
愛媛県参議・江木 康直名で、伊佐庭如矢が起案し大蔵卿・大久保利通に上申した「松山城公園永久維持之儀申上候書」。
公園永久維持之儀 申上候書の起案をしたのが当時愛媛県吏員であった伊佐庭如矢であった。
王政復古・明治維新の時点で日本に存在していた城持ち大名は135家、城持ちではない大名、陣屋等18家、それ以外の大名が141家・合計276の藩があったと言われ、135基の天守があった。
しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始め、廃藩置県によって大名所有の土地は、そして城も明治政府のものとなったが、城は巨大であるがゆえに老朽化が激しく、旧藩主は知藩事となり、明治4年その職がなくなった。そして東京移住を命じられ、主がいなくなった城はさらに荒廃していった。
明治6年政府は廃城令を発布した。
全国から存続を願う上申書が政府に上程されその取り扱いに苦慮した。
そんな中、明治6年10月27日付で、愛媛県参議・江木 康直から松山城を市民の憩いの場(公園化)に認定してほしいと上申書が提出された。
その起案をしたのが、当時愛媛県吏員であった「伊佐庭如矢」であった。
伊佐庭如矢が起案し、愛媛県参議・江木 康直名で大蔵卿・大久保利通に申上候書を上申したその内容書である。(愛媛県立図書館所蔵)
内務卿・木戸孝允の指令書で、国が松山城の公園化について無償で払い下げ、城の保存=公園化が決定した。
内務的な事務扱いを愛媛県参議・江木 康直の命を受け起案した伊佐庭如矢の功績は多大であった。これが手本となり135基の天守があったと言われているが明治政府は20基の天守存続を認めた。そして戦災で焼失また不審火で焼失した天守が8基の天守(松前城・水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城)で現存するのが12天守で(弘前城・松本城・犬山城・丸岡城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城)である。
参考事項
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩で幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。幕末長州討伐に伊予松山藩は長州に二度進攻した。長州の出身、木戸孝允はよく聞き入れてくれたものだ。
伊佐庭如矢の功績をみてみよう。
何と言っても松山城の存続に尽力したことである。松山は何の資源もなく松山城を核として観光資源として絶対必用であった。
明治27年県職員を退職し、道後町長に就任、道後町の発展の核となる何処にもない三階建の建物を町議会の猛反対を押切改築した。(現在の道後温泉本館、国指定重要文化財)
明治28年松山中学の教師として夏目漱石が赴任、道後温泉の素晴らしさを小説坊っちゃんで取り上げ紹介した。
伊佐庭如矢町長は、中世の城跡「湯築城跡を道後公園」として整備して、道後温泉湯上がりの観光者の一時の憩いの場として整備、公園の売店に「湯ざらし団子」を考案、漱石も美味しく食べた。これが後の「坊っちゃん団子」である。その他に道後温泉の入浴客の増加を目的に道後鉄道建設を実現した。
伊佐庭如矢町長は、中世の城跡「湯築城跡を道後公園」として整備して、道後温泉湯上がりの観光者の一時の憩いの場として整備、公園の売店に「湯ざらし団子」を考案、漱石も美味しく食べた。これが後の「坊っちゃん団子」である。
少し伊佐庭如矢を辿ってみよう。
伊佐庭如矢は、現・松山市の町医者・成川国雄の三男として生まれた。成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩の医療に携わる医家で、成川國雄の子として一家を創立し、名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に迎えられ道後温泉の改造などを行った。現在の道後温泉本館は、伊佐庭如矢が建築したものである。
胸像は、
平成7年5月、道後温泉本館建設100周年を記念して伊佐庭如矢の胸像が建立された。
伊佐庭如矢の胸像は道後温泉本館を眺めるように建立されている。
伊佐庭如矢胸像は道後温泉本館を眺めるように建立されている。
伊佐庭如矢の生誕地跡に、平成30年12月、生誕190年を記念して建立された「伊佐庭如矢翁生誕碑」で場所は、道後温泉一の老舗旅館「ふなや」の東隣りにある。
「伊佐庭如矢翁生誕碑」の裏面。
昭和21年1月13日、伊佐庭如矢の功績を讃えて、自身が整備した道後公園(国指定史跡・湯築城跡)に顕彰碑が建立された。
揮毫者は、安部能成である。
能成は、昭和21年1月、幣原内閣の第62代文部大臣に就任。
そして第18代学習院院長を昭和21年~同41年逝去されるまで在任された。
次に松山城存続に尽力された「旧松山藩主・久松家第16代、久松定謨」である。
大正12年(1923年)7月、国から松山城の払下げを受け、維持金4万円を添えて松山市に寄付した。遺憾なのは昭和8年(1933年)7月9日放火により小天守及び廻廊が焼失し、連立式城郭の一部を失ったことである。しかし国宝天守は残った。その後昭和20年7月26日、B29100機による松山爆撃には松山城城門・櫓・続塀が焼失したが、この時も天守は残った。強運の天守である。
仏蘭西のサンシール陸軍士官学校、留学時代の「久松定謨(21歳)と定謨の補導役として同行した秋山好古(29歳)、山縣有朋が欧州視察の時、好古を訪ねて来られた。その時騎兵の用兵は仏蘭西式が日本人の体型にあっている事を力説、その後騎兵の用兵だけが仏蘭西式となった。その他の用兵はドイツ式であった。
久松定謨は、陸軍士官学校を卒業してないが、陸軍総務局は、士官学校卒業扱いとした。
松山城本丸艮門の上、本壇天神櫓の下にある「伯爵 久松定謨頌徳碑」がある。
揮毫者は、徳川家正で、徳川宗家第17代当主である。
昭和30年10月に建立された。
久松定謨は15万石の大名の嗣子本来ならば侯爵の爵位が授与されるが、伊予松山藩は朝敵にされたが故に伯爵となった。10万石以上の外様大名また戊辰戦争で政府軍として参戦した旧大名たちは、侯爵扱いである。
左から「秋山好古・近衛師団長」「久松定謨・近衛第1連隊長」「仙波太郎・第1師団長」この三名が大正4年時、陸軍の重要の職に任命された。
大正4年2月15日。
秋山好古が第13代近衛師団長として、天皇と宮城(皇居)を警備する師団長になった。一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。
大正4年2月15日。
仙波太郎が第11代第一師団長として、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。
大正4年5月11日。
久松定謨は、第19代の近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。
秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者、久松定謨はその元藩主、故に身分の昇進が遅れていた。
大正4年、東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
※ この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上できたと喜んだそうだ。
陸軍人事当局は、秋山好古・仙波太郎・久松定謨は朝敵藩の出身者を承知の上で要職の指揮官として任命抜擢した。余程優秀であったのだろう!!
次に命がけの消火活動で国宝松山城天守を守った「住田 晋監視長」について。
昭和42年6月24日、松山市長・宇都宮孝平からの感謝状である。
昭和8年7月9日、放火により天守を除く連立式城郭の建造物が焼失した。
その後、昭和20年7月26日、午後11時08分からB29爆撃機100機あまりが松山上空に飛来し攻撃された。翌7月27日未明に攻撃は終わり一瞬にして城下町は焼け野原になった。
B29が飛び去ったあと天守から煙が立ち上るのを見て取った住田 晋監視長は、本壇に駆け上がり天守米蔵前にあった防火用水をバケツに汲み取り懸命に命の危険をかえりみず消火に徹し天守は残った。
昭和43年復元完了した松山城本壇、連立式城郭。
昭和8年7月9日、放火により天守を除く連立式城郭の建造物が焼失した。
終戦後、昭和43年から松山市は年次計画的に文化庁の指導の元松山城本丸復元工事に着手した。先ずは本壇の連立式城郭の復元で小天守の復元から始まり、昭和46年に画像のように3年の歳月を掛けて往時の姿に復興した。
なお、本丸の復元は平成2年太鼓門西塀の復元をもって完了した。実に22年の歳月を要した。
加藤嘉明が松山城完成に26年を掛け築城したが、それに匹敵する年月が掛かった。
文部大臣・田中耕太郎から、住田 晋監守長に贈られてきた感謝状。
昭和20年7月27日、未明に焼夷弾投下(完全爆発しなかった)による火災が発生、その消火活動に対して
昭和20年9月9日、文部大臣・田中耕太郎から、住田 晋監守長に贈られてきた感謝状で、その一文に「国宝松山城天守を貴殿の命がけの消火活動により守られた」とある。
文部大臣・田中耕太郎から、住田 晋監守長に贈られてきた感謝状。
昭和43年8月3日付の愛媛新聞夕刊の記事である。
見出しに「守り抜いた天守・濠」として松久 敬記者の記事である。
昭和43年8月3日付の愛媛新聞夕刊の記事である。
今回の最後に。
昭和20年10月22日、米軍第24歩兵団1万2千人が松山市に進駐してきた。その時の司令官が退官し母国に帰る時、住田監守長に天守に展示してあった甲冑をお土産に持って帰りたいで欲しいと願い出た。住田監守長は、この展示物は松山市の物件ではなく、市民の篤志家から寄託展示しているので幾ら司令官とはいえ差し上げることは出来ないと断った。しかしどうしても差し出せと言われ、代々住田家は元松山藩士の家系で、家宝としてきた住田家の甲冑を差し上げた。
画像書面は、トーマス陸軍大佐から住田監守に対してのお礼状である。
参考まで
新潟市に進駐してきた軍司令組織の中に教育の6・3・3制推進司令官がいた。越後の豪農伊藤家を、新潟司令本部として接収する計画だったが、その司令官は、マッカーサー元帥極東軍最高司令長官に働きかけて博物館として残した司令官もいた。現在の新潟市江南区の「北方文化博物館」である。土産に甲冑を持ち帰った司令官と博物館として残した司令官は「月とスッポン」である。
空飛ぶ要塞・B29(スーパー・フォートレス・長距離爆撃機)。
松山市は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29・(スーパー・フォートレス・長距離爆撃機)350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が四編隊に区分され、投下高度1万1千フィート、から攻撃が始まった。開始時刻は、23時08分に松山を攻撃したと記述がある。
松山は爆撃を受け一瞬にして焼け野原となった。
慶長5年(1600年)加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで武勲を上げ徳川家康から伊予国20万石を拝領し慶長8年(1603年)10月この地を「松山」とすると言ってから長い年月を掛けて築き挙げてきた松山の街は、342年後の
昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下、次いで後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。投下した焼夷弾は896トンと米軍の資料にある。
これで江戸時代から構築してきた松山の街は、一夜にして焼け野原と化した。
「松山爆撃に参加したカリフォルニア出身のスミス中尉の談話、松山の火災は此れまでに私が見たベストのものだった。全市が燃えた。煙はゆうに上空1万8千フィート(6000m)に達していた。」と記述がある。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下され貴重な国宝建造物が焼失した。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。
しかし天守は残ったのである。これは久松家の元祖菅原道真のご加護であったのか?
空飛ぶ要塞、B-29(スーパー・フォートレス・長距離爆撃機)の大きさ比較。