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満州 その3終わり(終戦前後・私の追憶)

2019年10月10日 | 伊予松山歴史散策

関東軍精鋭部隊が満州を後に米軍の海兵隊に相当する部隊、海上機動兵団が編成され出征した。
残された家族たちは、昭和18年暮れに内地に引き上げた。私にとっては未知の地である。

私たち家族は、ハルピンから特急アジア号で大連に移動、大連港から門司港に客船で、前方と後方に駆逐艦が護衛して途中訓練があったそうですが門司港に入港し故郷に帰った。
私は4歳であったので何も覚てはいない。

上陸した家族たち、熊本県の稲葉さん、宮崎県の濱田さんとは門司港で別れ、私と母は母の実家である愛媛県温泉郡川上村北方(現、東温市北方)に帰り私が小学校に入学するまで暮らした。
その間記憶に残っている事を箇条書きに書いてみた。

1、      東温市北方の大宮神社境内で国防婦人会の皆さんが松山歩兵連隊から派遣されて来た兵士の指導で竹槍の防衛訓練が行われていた。(竹槍で戦うのかと思った。)

2、      米海軍艦上戦闘機、F6Fグラマンの飛来、海軍松山航空隊の源田実隊長率いる紫電改が飛び立ちこれを迎え撃ち一級河川重信川上空での空中戦を見た。

3、      昭和20年7月26日、松山大空襲、愛大医学あたりが燃えていた感じで非常に近くに感じた。

4、      母の実家である名越座で被災した松山市民の炊き出しをし、トラックで搬出していた。

5、      米軍機が飛来しチラシの投下(終戦の知らせか?)

6、      米軍兵士がジープでやって来て、ガムやチョコレートを子供たちに配っていた。

7、      父の戦死通知。

8、      小学校(温泉郡久米村立久米小学校、現、松山市立久米小学校)入学のため父の実家(温泉郡久米村大字福音寺)に転居。内地に引き上げた以降の写真は何もない・・撮影するカメラがないため。

靖国神社にて:平成7年4月5日。

斥侯隊員のお一人東京都西多摩郡在住であった野村元軍曹さんである。

野村元軍曹から親父の最期を詳しく話を聴き、父の親指の爪を切り取ったのは赤松伍長であったことも知らされた。

私が父親の遺骨収集に行くから案内して欲しいと頼まれても大密林の中で現場まで辿り着く事は出来ませんし地理的に不明です。
お父さんを置き去りにして申し訳なかったと誤りの言葉が返って来た。

紹介する観音菩薩は、下記によるものである。

観音菩薩は、海上機動兵団の隊員として西部ニューギニアで戦死された方々の英霊のご冥福をお祈りし、世界恒久平和と人類の幸福を祈念して昭和62年6月に西部ニューギニア(インドネシア)のソロン市バナナ台慰霊碑苑に建立したソロン観音菩薩像である。
平成15年8月、心無き現地民により、光背・両腕・両衣・を破壊され盗難の大被害の惨事にあい、以後ソロンに安置する事が出来ないと判断され、日本に持ち帰り修復し再入魂(地元住職により)、平成16年4月25日に愛媛県西宇和郡伊方町田部越に再建立されたソロン観音菩薩立像である。
眼下に宇和海を望み英霊が眠る西部ニューギニアを遠視し英霊を見守っている。

ソロン観音菩薩立像再建立された所在地は:
愛媛県西宇和郡瀬戸町田部、国道197号線沿い・伊予鉄バス田部越バス停横に建立されている。

 

平成15年8月、異教徒の暴挙により大損害を受けたため、在ソロン水産会社邦人の協力を得て、富山県高岡市に帰還修復後、洋上遥か南溟の地、ソロンに続く宇和海の景勝を望む佐田岬の高台に再建立、開眼法要前の観音菩薩像と開眼法要準備をする関係者。

観音菩薩像の台座に埋め込まれた説明版。

ソロン聖観音菩薩像の由来の説明石碑。

 

観音菩薩台座に刻印されている関係部隊名が揮毫されている。
建立場所は、国道197号線の直ぐ傍に建立されている(伊予鉄バス田部バス停の直ぐ近く)・・当初の建立は、瀬戸町にある「道の駅瀬戸農業公園」に建立をお願いした。しかし瀬戸町の許可が下りず困っていたところ、地元の有志家が建立地の提供申し出がありこの地に建立出来た・・御国の為に尽くし、命を捧げた方々の英霊をお祀りの意味を篭めて造り上げた観音菩薩、何故瀬戸町議会は反対したのでしょう??軍人を祀る事に抵抗があるの??心が無い!!

 

 

米軍の海兵隊に当たる部隊として、わが国で初めての4個の海上機動旅団が昭和19年3月31日に陸軍の作戦命令で、主力関東軍で編成された。

第二旅団は当初はシンガポール作戦に参戦するはずであったが命令変更により西部ニューギニア戦線に変更されソロンに上陸し3000名の兵士が戦死した。生存者は昭和21年5月25日に帰還復員された。
海上機動旅団第三大隊第一中隊(エフマン島で活動)で無事帰還復員された皆さん方はエフマン朋友会(代表 物江啓止氏)を結成し一昨年まで全国各地で戦死した戦友の慰霊を兼ねた会合をされていたが高齢のため中止された。

私も遺族として13年前から参加していた。私の父親は海上機動第三大隊第一中隊第一小隊長で昭和20年4月28日将校斥候途中米軍と遭遇し戦闘状態となり密林の中で戦死現在も西部ニューギニアの密林で眠っている。親父以外の斥候隊員は全員無事司令部に帰還され復員された。親父の戦死状況は、エフマン朋友会の斥候隊員の方から聞き始めて詳細が分かった。今から僅か13年前の事である。

海上機動旅団第2旅団機動第3大隊の活動した地図と記述の一部。

平成18年5月18日、エフマン朋友会(代表 物江啓止氏)開催を松山市で開催したいので私に幹事をして下さいと連絡を受け開催した。
松山開催の理由は、私の父の慰霊と墓参りが目的であった。

その時の慰霊の言葉である。

我が家で父の慰霊をして頂きその時に歌われた「南海よさらば」の歌詞である。

父親の位牌がある仏壇に向かって礼拝し般若心経を捧げる、東原 保氏。

若き日の、東原 保さんで、満州関東軍第225部隊、当時22歳の時。

旧関東軍部隊の方々・・親父の墓参をして頂きました・・皆さん当時は20過ぎの若者大事な青春をお国の為に捧げた・・お元気で長生きをして下さい、写真右二人は二世です。
親父の墓の右側に、秋山好古と陸軍大学校一期生同期の仙波太郎の墓所がある(陸軍の三太郎:宇都宮太郎・桂太郎のち内閣総理大臣・仙波太郎)

終戦は昭和20年8月15日だが西部ニューギニアから内地に復員出来た兵士の方々は、昭和21年5月6日であった。帰りの船はオランダの船で名古屋港に上陸した。この間は連合軍が準備した仮設の収容所で生活した。仮設収容所建設は連合軍の指示で日本兵が造り、あまりにも早く上手に造り上げたため驚いていたそうだ。

 

親父の墓参の後、皆さんを秋山兄弟生誕地にご案内、秋山好古騎馬像前で記念写真、秋山兄弟生誕地事務局が元関東軍の皆さんがご来館と言う事で日章旗を用意して頂きました。

エフマン朋友会代表の物江啓止氏は、ニューギニアから復員後、出身地である福島県耶麻郡高郷村の教育長をされた方で、秋山兄弟生誕地を見学後立派なご挨拶をされました。

 

親父の墓参の後、皆さんを秋山兄弟生誕地にご案内、秋山眞之胸像前で記念写真、秋山兄弟生誕地事務局が日章旗を用意して頂きました。

 

愛媛県西宇和郡瀬戸町田部、国道197号線沿い・伊予鉄バス田部越バス停横に建立されているソロン観音菩薩立像をお参りした。

 

 

 平成8年5月31日、斥侯隊員のお一人東京都西多摩郡在住であった野村元軍曹が慰霊に行かれた西部ニューギニアのソロン島。

 

 

平成8年5月31日、斥侯隊員のお一人東京都西多摩郡在住であった野村元軍曹が西部ニューギニアのソロン島に慰霊の旅に行かれた時の姿。

  

 

ソロン島にたてられた卒塔婆。

 

  

昭和20年7月26日、午後11時過ぎからB29約120機が飛来焼夷弾、爆弾を投下、一夜にして松山の街は焼け野原となった。左上に見えるのは松山城天守。山麓には愛媛県庁本庁舎がみえる。

松山城は攻撃から外されていたようだがそれでも間違って投下され城門櫓が焼失、天守下にも焼夷弾が落ちたが監守一人で防火用水で火を消し止め天守は残った。

昭和20年7月26日、午後11時過ぎからB29約120機が飛来焼夷弾、爆弾を投下、一夜にして松山の街は焼け野原となった。松山城山麓に愛媛県庁本庁舎がみえる。

画像は、立花橋から撮影とある。

松山に飛来して来た空飛ぶ要塞と言われたB29である。

B29は超低空で焼夷弾を投下、パイロットの顔が見えるくらいの低空であったそうです。

空飛ぶ要塞と言われたB29の大きさ比較。

米海軍艦載機のグラマンで私が見たグラマンは真っ黒であった。

私は母の郷である東温市北方から見た。外に出たとたんに機銃操作を受けた。

日本海軍の精鋭機、紫電改。

海軍松山航空隊の源田実隊長率いる紫電改が飛び立ち、グラマンを迎え撃った。

ブルーインパルス:武蔵村山市、小島郁生氏撮影

ブルーインパルスの育ての親は、源田 実で、源田さんと松山は縁の深い所である。
源田実司令が着任するのは、昭和19年12月、神奈川県横須賀海軍航空隊基地で第343海軍航空隊が新しく編成され、基地は、源田実のお気に入りの松山海軍航空基地となり、同年12月28日、第343海軍航空隊(剣部隊)源田司令が着任、終戦まで置かれた。

戦後、源田実は、防衛庁に入庁、初代航空総隊司令、昭和34年に第3代目の航空幕僚長就任、同年12月、米空軍サンダーバースの日本公演を見た源田、航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出し結成した。
源田は、東京オリンピック開会式にブルーインパルスでカラー五輪フライトを提案し実現した。

昭和37年7月、自衛官を退官し参議院議員4期24年務めた。
現役当時操縦技術は非常に腕がよく、操縦もとてもうまかったが、荒いのでついて行くのが大変であったとある資料に記述がある。

晩年は、厚木市の自宅で過ごしたが体調を崩し、思いで深い松山の病院(南高井病院)で治療をしていたが、85歳の誕生日を迎える前日、第44回目の終戦記念日の平成元年8月15日松山市の病院で逝去された。

享年84歳。お生まれは、明治37年8月16日、広島県安芸太田町のご出身。なぜ松山が好きだったのか不明である。

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