秋山兄弟生誕地で来館者に観光案内を行っている「秋山兄弟生誕地研究員・18名
」の館外研修会を毎年各地を選定して研鑽し知識の習得に努めております。
今年は、今治市波止浜港沖の小島にある「芸豫要塞跡」を見学しました。
案内は、私の知人で今治市史談会「菅 正憲氏」にお願いし時間の制約の適切な説明をして頂き、明治時代には標記されなかった小島の生い立ち、203高地攻略に威力を発揮した28cm砲台跡をはじめ、発電所跡、南部砲台跡、弾薬庫跡、砲座跡、地下兵舎跡、最後に指令塔跡をみて小島研修会は終わった。
時間は、秋山生誕地を午前8時30分に出発し、マイクロバスで、国道196号線を走行し大西町から県道15号線経由で波止浜港に9時55分に着いた。ここで今治市史談会、菅 正憲氏と待ち合わせ、午前10時10分発の渡船で来島を経由して小島に午前10時20分に上陸した。
帰りは午後0時20分の渡船で波止浜港に帰りお食事処「伊予水軍」で昼食を取り、次の見学地今治城、大西町の秋山好古揮毫「衆心和暢化乃成」の石碑を見聞し午後5時30分無事秋山兄弟生誕地に帰り解散した。
明日からの秋山邸での案内が一つお話出来る知識が増えた。
芸豫要塞跡「小島・南部砲台跡・中部砲台跡周辺の詳細は画像で掲載します。
波止浜港から見た「小島」波止浜港から来島経由して10分。
小島港に設置されている小島観光案内版。
ガイドなしで個人が案内板を読みながらの観光所用時間は約1時間。但しガイドさんにお願いして案内してもらうと最低2時間を要する。また北部砲台跡を見るには3時間を要する。
港から要塞跡登上に画像の「瀬戸内海国立公園 小島」が設置されている。
発電所跡前に設置してある「小島砲台の歴史」説明板。この中程に記載してある、城塞学の権威者(日本工兵の父)、陸軍工兵中佐上原勇作(秋山好古と陸軍士官学校同期)・・とあるが、この人は、瀧岡から上原家に養子となるが、加山雄三のお父さん上原謙との血縁関係があるとか?
小島要塞を守った発電所跡、レンガ造りの立派な建築物。100年以上経過した建造には見えなかった。
南部砲台跡の説明を聞く秋山生誕地研究員。
南部砲台跡から少し登ると弾薬庫跡がある。立派なレンガ造りで、基礎から少し上げて建築されているのは、弾薬庫だから湿気を遮るための構造だそうです。
弾薬庫内部で、屋根が無くなっているのは、弾薬が不発した時に屋根を吹き飛ばし上部に爆風が抜けるよう軽量な造りをしていたため腐食して無くなった。先の大戦で家屋敷を失った人の為に一時期疎開者の仮住まいとして使用されたそうだ。
これが中部砲台跡で、28cm榴弾砲があった砲台跡。日露日本海海戦で、帝国ロシア海軍太平洋第二・第三艦隊(通称バルチック艦隊)が日本に進行して来る前に是非とも撃沈しておかねばならなかったロシア海軍太平第一艦隊(通称旅順艦隊)を撃つのには是非とも203高地が必要であると日本海軍連合艦隊専任作戦参謀であった秋山眞之が児玉源太郎に直訴した。乃木第三軍司令長官が攻め倦んでいた様を見て取った満州軍総参謀長児玉源太郎は、この小島に設置してあった南部砲28cm榴弾砲6門の内2門を旅順に移設、203高地を1時間20分で攻略し、この地を司令塔としてロシア海軍太平第一艦隊位置の目標を定める事が出来、日本艦隊から砲撃を行いロシア海軍太平第一艦隊(通称旅順艦隊)を撃滅出来た。やって来た第二・第三艦隊(通称バルチック艦隊)を撃滅する事が出来たのである。
芸予要塞(小島)将校の地下兵舎跡で、好評は将校以下200名が駐留していたと報じられていたが、実際は常駐兵50名だったといわれている。ここもレンガ造りで綺麗に保存されている。使用されているレンガは、埼玉県深谷にあった、日本煉瓦製造株式会社の製品でなないかといわれている。東京駅や東宮御所にも使われている。
28cm榴弾砲に指示を送る司令塔に上る急勾配の石造りの階段。
急勾配の上ると、28cm榴弾砲に指示を送る司令塔跡で、360度見通しが聞く一等地。
司令塔跡から見た来島海峡と西瀬戸自動車道(通称・しまなみ街道)日本の高速道路に掛かる橋を徒歩と自転車で渡れる橋は、西瀬戸自動車道だけであり、2年後には、台湾の自転車製造会社と広島県・愛媛県が協賛して世界規模のサイクリング大会を開催する計画がある。
小島港に設置された、28cm榴弾砲で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の北海道で203高地砲撃ロケに使われた榴弾砲で撮影終了後NHKは松山市に寄贈したが、今治市の関係者は、もともと小島にあった28cm榴弾砲だから是非とも今治市小島に設置したいのでお譲りをお願いしたいと申し込まれた松山市は協議検討した結果今治市に譲ったのである。当初はもと有った砲台跡地に設置するのが本当の意味があるが、心無いものにより悪戯されてはならないとの思いで小島港に3月下旬に設置工事が終了したそうで、未だ正式な一般公開はされてないとの由。近い内に一般公開式典が開催されるそうです。
28cm榴弾砲の素材は、殆ど強化プラッチク製で一部砲台後方実際にロケ時に工兵が上る場所は鋼鉄製で、製作は映画ロケに使う道具等々を製作する京都市の会社が製作したそうである。
」の館外研修会を毎年各地を選定して研鑽し知識の習得に努めております。
今年は、今治市波止浜港沖の小島にある「芸豫要塞跡」を見学しました。
案内は、私の知人で今治市史談会「菅 正憲氏」にお願いし時間の制約の適切な説明をして頂き、明治時代には標記されなかった小島の生い立ち、203高地攻略に威力を発揮した28cm砲台跡をはじめ、発電所跡、南部砲台跡、弾薬庫跡、砲座跡、地下兵舎跡、最後に指令塔跡をみて小島研修会は終わった。
時間は、秋山生誕地を午前8時30分に出発し、マイクロバスで、国道196号線を走行し大西町から県道15号線経由で波止浜港に9時55分に着いた。ここで今治市史談会、菅 正憲氏と待ち合わせ、午前10時10分発の渡船で来島を経由して小島に午前10時20分に上陸した。
帰りは午後0時20分の渡船で波止浜港に帰りお食事処「伊予水軍」で昼食を取り、次の見学地今治城、大西町の秋山好古揮毫「衆心和暢化乃成」の石碑を見聞し午後5時30分無事秋山兄弟生誕地に帰り解散した。
明日からの秋山邸での案内が一つお話出来る知識が増えた。
芸豫要塞跡「小島・南部砲台跡・中部砲台跡周辺の詳細は画像で掲載します。
波止浜港から見た「小島」波止浜港から来島経由して10分。
小島港に設置されている小島観光案内版。
ガイドなしで個人が案内板を読みながらの観光所用時間は約1時間。但しガイドさんにお願いして案内してもらうと最低2時間を要する。また北部砲台跡を見るには3時間を要する。
港から要塞跡登上に画像の「瀬戸内海国立公園 小島」が設置されている。
発電所跡前に設置してある「小島砲台の歴史」説明板。この中程に記載してある、城塞学の権威者(日本工兵の父)、陸軍工兵中佐上原勇作(秋山好古と陸軍士官学校同期)・・とあるが、この人は、瀧岡から上原家に養子となるが、加山雄三のお父さん上原謙との血縁関係があるとか?
小島要塞を守った発電所跡、レンガ造りの立派な建築物。100年以上経過した建造には見えなかった。
南部砲台跡の説明を聞く秋山生誕地研究員。
南部砲台跡から少し登ると弾薬庫跡がある。立派なレンガ造りで、基礎から少し上げて建築されているのは、弾薬庫だから湿気を遮るための構造だそうです。
弾薬庫内部で、屋根が無くなっているのは、弾薬が不発した時に屋根を吹き飛ばし上部に爆風が抜けるよう軽量な造りをしていたため腐食して無くなった。先の大戦で家屋敷を失った人の為に一時期疎開者の仮住まいとして使用されたそうだ。
これが中部砲台跡で、28cm榴弾砲があった砲台跡。日露日本海海戦で、帝国ロシア海軍太平洋第二・第三艦隊(通称バルチック艦隊)が日本に進行して来る前に是非とも撃沈しておかねばならなかったロシア海軍太平第一艦隊(通称旅順艦隊)を撃つのには是非とも203高地が必要であると日本海軍連合艦隊専任作戦参謀であった秋山眞之が児玉源太郎に直訴した。乃木第三軍司令長官が攻め倦んでいた様を見て取った満州軍総参謀長児玉源太郎は、この小島に設置してあった南部砲28cm榴弾砲6門の内2門を旅順に移設、203高地を1時間20分で攻略し、この地を司令塔としてロシア海軍太平第一艦隊位置の目標を定める事が出来、日本艦隊から砲撃を行いロシア海軍太平第一艦隊(通称旅順艦隊)を撃滅出来た。やって来た第二・第三艦隊(通称バルチック艦隊)を撃滅する事が出来たのである。
芸予要塞(小島)将校の地下兵舎跡で、好評は将校以下200名が駐留していたと報じられていたが、実際は常駐兵50名だったといわれている。ここもレンガ造りで綺麗に保存されている。使用されているレンガは、埼玉県深谷にあった、日本煉瓦製造株式会社の製品でなないかといわれている。東京駅や東宮御所にも使われている。
28cm榴弾砲に指示を送る司令塔に上る急勾配の石造りの階段。
急勾配の上ると、28cm榴弾砲に指示を送る司令塔跡で、360度見通しが聞く一等地。
司令塔跡から見た来島海峡と西瀬戸自動車道(通称・しまなみ街道)日本の高速道路に掛かる橋を徒歩と自転車で渡れる橋は、西瀬戸自動車道だけであり、2年後には、台湾の自転車製造会社と広島県・愛媛県が協賛して世界規模のサイクリング大会を開催する計画がある。
小島港に設置された、28cm榴弾砲で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の北海道で203高地砲撃ロケに使われた榴弾砲で撮影終了後NHKは松山市に寄贈したが、今治市の関係者は、もともと小島にあった28cm榴弾砲だから是非とも今治市小島に設置したいのでお譲りをお願いしたいと申し込まれた松山市は協議検討した結果今治市に譲ったのである。当初はもと有った砲台跡地に設置するのが本当の意味があるが、心無いものにより悪戯されてはならないとの思いで小島港に3月下旬に設置工事が終了したそうで、未だ正式な一般公開はされてないとの由。近い内に一般公開式典が開催されるそうです。
28cm榴弾砲の素材は、殆ど強化プラッチク製で一部砲台後方実際にロケ時に工兵が上る場所は鋼鉄製で、製作は映画ロケに使う道具等々を製作する京都市の会社が製作したそうである。