EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

十六日桜「イザヨイサクラ」・ロシア兵墓地・足立重信の墓参り

2019年03月07日 | 伊予松山歴史散策

1、十六日桜「別命:イザヨイサクラ」

今年の冬期は温暖で全国各地の染井吉野桜の開花予想は例年よりも早く開花するそうで、福岡が3月19日、高知・名古屋が3月20日・東京は3月22日、大阪は3月25日と開花予想が出された。
さて、5年振りに(3月5日)吉平屋敷跡にある松山市の天然記念物に指定されている十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の鑑賞に行ってきた。


イザヨイザクラは、小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。
桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、寒中1月にもかかわらず、十六日に花が咲いたと言う伝説の桜である。

行ってみると桜はかなり老朽化が激しく、半分くらい枯れ、花も半分しか咲いてなかった。隣の方曰く、3年前から木が枯れ始めたと言っていた。

枯れ始め樹勢が衰え元気がなくなっていた。

 部分的に観ると画像の様に元気そうに観える。
品種は「ヤマザクラ」。

 

5年前の十六日桜「別命:イザヨイサクラ」でこの頃は樹勢も強く綺麗な元気な花を咲かせていた。

5年前の十六日桜「別命:イザヨイサクラ」がある、吉平屋敷跡の記念石碑。

松山市教育委員会が設置している十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の説明板。

2、ロシア兵墓地

十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の直ぐ近くにあるロシア兵墓地にも行ってきた。

画像は、ロシア兵墓地で平成28年3月25日開催された松山市主催で慰霊祭で毎年開催されている。

日露戦争の戦いで捕虜となり松山に収容され亡くなった98人のロシア兵の墓地が松山市御幸町にあり毎年松山市主催で慰霊祭が行われ、在大阪ロシア連邦総領事官も参列している。ここで素晴らしい奉仕活動が行われている。昭和61年に始まった松山市立勝山中学校生徒会は毎月第2土曜日にロシア兵墓地の清掃活動を行っており、今やロシアと日本の友好の懸け橋となっておりロシア大使もこの行為を称え感謝している。

清掃に参加する生徒は、家から持ってきたスポンジを使って墓石を磨いたり、草を引いたりして、綺麗にする。時にはPTA会長さんも参加するそうで清掃後は、一つ一つのお墓に花・線香を供え、黙祷を捧げ活動を終える。墓石は全て母国ロシアに向けて建っている。

画像は、平成28年3月25日開催された慰霊祭の様子で画像の様に墓所は草一つなく何時も綺麗に清掃されている。
それは地元、市立勝山中学校の生徒会が毎月第2土曜日に清掃をしているからだ。

この画像は、先日3月5日の撮影で、画像の様に98人のロシア兵の墓石には献花されており、草一つ、落ち葉も落ちてなく整然と清掃されていた。
昭和61年に始まった松山市立勝山中学校生徒会は毎月第2土曜日にロシア兵墓地の清掃活動を行い、今やロシアと日本の友好の懸け橋となっておりロシア大使もこの行為を称え感謝している。

捕虜となり松山に収容されたロシアの将校と日本人の看護婦の悲恋の実話に基づき、映画化される。映画「ソローキンの見た桜」である。舞台が松山市なので先行して松山で放映され、その後全国各地で放映される。

3、足立重信の墓参り

  

ロシア兵の墓地と隣接して足立重信の墓所がある。
足立重信(出生年不明~寛永2年・1625年)は松山城主加藤嘉明の家老で、美濃国に生まれ、若年で嘉明に仕え、文禄の役(1592年)にも従軍した。
嘉明がその功労によって正木(松前)城主6万石に封ぜられると、重信も伊予国に来住した。

その後慶長の役(1597年)が起ると、重信は嘉明らとともに出征し、水軍として活動した。加藤清正らが、蔚山城で苦戦しているのを救援した戦功により、嘉明は10万石に加増された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに嘉明は出征し、留守をあずかる重信は、石田三成側に応じた毛利勢および旧伊予守護河野氏の兵が正木城に来襲し、領地奪回を撃退した。
(地元では伊予の関ヶ原の戦いと言っている)もしもこの戦いに敗れていれば関ヶ原の戦いで東軍に与し武勲を挙げた加藤嘉明が帰る地が無かったのである。正木城を護った足立重信功績は凄いものであった。

戦い後、20万石の大名となった嘉明は、徳川家康の許可を得て、勝山に築城移転して、城下町を松山と改めた。重信は普請奉行の要職に就き、湯山川(後の石手川)を南方に移して大改修し、広い用地と城下町の建築地を築いた。重信は、松山城の築城、城下町の建設に20数年間尽力したが、その完成をみないで寛永2年(1625年)に逝去した。本人の遺言によって、松山城を見る事ができる城北の来迎寺境内に墓がつくられた。墓碑は高さ224cmあまり、花崗岩の五輪塔である。大正8年(1919年)、正五位を追贈された。

 追記:伊豫川の改修

加藤嘉明が松山城築城以前(正木城主時代)度々洪水に見舞われていた「伊豫川」を改修し氾濫を防ぐため河川を改修した。その時河川名を改修者の足立重信の名をとり、伊豫川を重信川に改名、1級河川の名称に個人名が付けられるのは、日本では大変珍しい事であった。

 松山市教育委員会が設置している足立重信の墓所の説明板。

  

 生前、足立重信は逝去した時は松山城を見る事ができる所に埋蔵してほしいとの遺言により城北の来迎寺境内に墓がつくられた。現在は墓所の前の木々が大きくなり画像のような松山城を見る事が出来ない。
画像は、墓所から20m程東に松山城を見る事が出来る場所がありそこから撮影 
で、天守左の囲い物は、天神櫓の修復工事の足場と防御ネットである。

 墓所、2基の灯篭が献燈してあり画像は、右側の献燈で足立重信の300年忌記念に温泉郡三内村が大正14年4月に寄贈建立した。
右側の献燈の足に、内藤鳴雪の句「功や三百年の水も春」が刻まれている。

画像は、左側の献燈でその足に村上齊月が詠んだ「寶川伊豫川の秋の出水哉」とあり石は重信川の石で造ったと言われている。
この石も重信川から取り出された石で造ったと言われている。
足立重信の300年忌記念に温泉郡三内村が大正14年4月に寄贈建立した。


 足立重信の墓所には2基の灯篭が設置してあり、二人の俳人の句が揮毫してある。
その説明板。

墓所の右側献燈の足に「功や三百年の水も春」内藤鳴雪の句が刻まれていて
   左側の献燈の足に村上齊月が詠んだ「寶川伊豫川の秋の出水哉」の句が刻まれている。

 足立重信の墓所玉垣は、350回忌記念に足立重信顕彰会・松山市長、宇都宮孝平建立とある。

 加藤義明は、築城には多額の費用を必要とし年貢の取り立てが厳しかった。篤志家からも支援を受けた。現在の伊予鉄道古町駅一帯の大地主、野原家から支援を受け城郭した櫓、野原櫓があるが、その野原家の墓所が、普請奉行であった足立重信の墓所の直ぐ後ろにある。

 野原家先祖代々の墓石が現在の墓石の裏側に置かれている。

 そして野原家の墓所に隣接して伊予松山藩医の青地林宗の墓所がある。林宗は、江戸の杉田玄白の門下生として蘭学を修め、晩年は水戸藩主に招かれ、洋学の啓蒙にも努めた名医。

 松山市教育委員会が設置している青地林宗の墓所の説明板。

 青地林宗の墓所の一角に立派な顕彰碑が建立されている。
建立者は、伊豫鐡道電氣株式會社が昭和5年5月建立している。

 足立重信の墓所から見た十六日桜「別命:イザヨイサクラ」。
この地に来ると伊予松山の歴史が凝縮された場所に感じた。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 15、NHK松山放送局制作放映された「碑文に残された好古の思い」

2019年03月01日 | 伊予松山歴史散策

番組「NHK松山放送局制作・碑文に残された好古の思い」はこの画面から始った。

 NHK松山放送局 放送部編成専任部長・阿部さんは、秋山好古についてはいろんな資料が残っているが好古が揮毫し全国に存在する石碑調査をこれだけ綿密に調査していることに驚き、そして揮毫から建立に至る経緯が貴重なものだと評価して頂き、番組を編成企画し制作立案しますと言って頂いた。

そして遂に番組制作が決定しロケが行われることになった。
ロケの前に48基の石碑静止画像をNHK松山放送局放送編成部に送り、NHKがその中から選択して放映に使った。

これからの画像は、TV映像を切り取ったものです。

ナレーションは、NHK松山放送局の女性アナウンサー・田中紀英さんが語ってくれました。

 秋山好古が揮毫した石碑調査を始めてから今年で14年の年月が経つ、平成17年5月5日、大阪市からお越しになったある男性からの暴言がきっかけで石碑調査の事始めとなり、現在全国に52基の石碑が発見され全て取材を終えている。
52基目の石碑は、平成28年5月30日、長野県安曇野市豊科にある、内田与作騎兵隊員の墓石であった。まさか墓石に好古が揮毫していたとはビックリでした!

 そして、この石碑(墓石)が最後で以後発見されていない。
取材ロケは、石碑調査を始めて48基目が発見された平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いた。

番組制作を企画してくださったのは、NHK松山放送局 放送部編成専任部長、阿部 真人さんでした。
そしてナレーションは、NHK松山放送局の女性アナウンサー・田中紀英さんが語ってくれました。

ロケ地は、NHK松山放送局が選定した、松山市神田町の厳島神社境内にある「表忠碑」と今治市大西町にある「衆心和暢化乃成」で午後2時から雨天の中でのロケでした。
私は、阿部放送部編成専任部長に、「天候の良い日であれば綺麗な画像が撮れるのに残念ですね」・・と伺うと、この番組には雨天の方が情緒ありいいですよと言われた。

放映は、NHK四国管内限定で、平成23年12月16日から数回放映があり、スペシャルドラマ坂の上の雲、第3部が始まる時であった。
この後、NHK松山放送局は新潟市にある秋山好古揮毫石碑の取材ロケに行った。

NHK松山放送局制作「碑文に残された好古の思い」の番組映像を石碑調査でお世話になった愛媛県外の新潟市・東京都・千葉県習志野市の方々に映像をダビングして送りました。

揮毫嫌いであった秋山好古は、大正14年元内閣総理大臣・清浦圭吾氏が来松、清浦圭吾氏が早朝から宿舎の旅館で揮毫する姿をみて新田長次郎氏の強い勧めで好古は揮毫するようになった。
現在(平成31年3月1日)52基の石碑が発見されているが、大正13年以前の石碑は少なく、大正14年以降に揮毫された石碑が多い。
大正13年以前の揮毫は、よほどの方からの依頼でないと揮毫しなかった。

平成17年5月5日、大阪市からお越しになったある男性からの暴言がきっかけとなった社号額で石碑の調査の事始めとなったのである。

 

伊豫十二景は、大正15年6月海南新聞社主催で読者投票によって選定された本県の名所名勝である。
2ヶ月の投票期間に120余の候補地があがり総投票数70万5315票の中から伊予史談会幹事6名の立会いのもと開票され結果第一位に鹿島・二位以下は、白猪の滝・極山の薬師・歌仙の滝・砥部銚子の滝・麻生金毘羅権現・久万の台・宮内天満宮・仙波ヶ嶽・重信川口・重信橋・和気浜の順である。

13位から24位までは「裏伊豫十二景」として発表された。
裏伊豫十二景:樽滝・面河・祇園公園・湧ヶ渕・松山城・八幡浜八幡・臥龍・法ヶ津峠・生石八幡・石手川長堤・志々満ヶ原・波止浜公園である。

旧愛媛県周桑郡三芳村(現西条市)在住のスエ女は、渡辺小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟する身となった。
スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。

官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となった。そして明治36年に亡くなった。
スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。三芳村では後生にスエ女の徳をたたえるため、昭和3年表彰碑を建立した。
石碑裏面に、文部大臣 勝田主計(秋山眞之の後輩)の渡邊スエ女を称える献上文が書かれている。

昭和3年松山市立清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して20数名の先生方が醵金して校庭に建立した。
昭和20年10月米英を主とする連合軍が松山に進駐し「連合軍最高司令官マッカーサー元帥の命令で撤去せよ」と、松山進駐軍第24師団司令官・トーマスD、ドレーク陸軍大佐から撤去指示が出され撤去した。

撤去した石碑は、平成7年9月まで清水小学校の用具室に眠っていたのを、同年10月渡部校長の許可を得て愛媛県護国神社、波爾荘(はに) 識(さかえ)宮司の努力で境内に再建立した。
碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。撤去指示が出されたのは、義務教育の施設である小学校の校庭に陸軍大将揮毫の石碑それも「天壌無窮」の碑文も原因であったのではないかと思う。

 新潟県新潟市江南区沢海(北方文化博物館の隣接)にある忠魂碑で、NHK松山放送局が取材に行った石碑である。

 大正13年以前の揮毫は、よほどの方からの依頼でないと好古は揮毫しなかった。
画像の新潟県新潟市江南区沢海(北方文化博物館の隣接)にある忠魂碑の揮毫は、新潟県中蒲原郡横越村・神田又一村長が、伊澤多喜男・新潟県知事に忠魂碑を秋山好古に揮毫してもらいたくお願いした。

伊澤多喜男知事の前任地は愛媛県であり、秋山好古も愛媛県の生まれで旧知の中であった。
愛媛県知事から新潟県知事に転任して来た伊澤知事は、大正2年2月1日、新潟県高田に居た第13師団長秋山好古中将を表敬訪問しその時に忠魂碑の揮毫をお願いし画像の石碑が建立されたのである。

 伊澤多喜男新潟県知事はその後、警視総監、東京市長に就任した。
第13師団はその後満州に移転し秋山好古も満州に行くこととなる。
新潟県高田在任僅か2か月であった秋山師団長は、新潟県魚沼市堀之内竜光にある、天満神社境内に「戦役記念」の記念碑がありこれも揮毫している。

この揮毫経緯については不明であるが村の代表者が伊澤知事にお願いし渡満直前の師団長・秋山好古中将に揮毫を願い出たのではないか?です。
新潟県中蒲原郡横越村・神田又一村長が、何故忠魂碑を秋山好古に揮毫依頼したかは、秋山好古が騎兵第1旅団長時代、好古が最も信頼する副官が3名いた。
その3名とも新潟県出身者であった。

 1人は、豊邉新作(長岡藩筆頭家老・河井継之助の従弟の子)
2人目は、建川美次で「敵中横断三百里」の主人公として有名で、大東亜戦争開戦時ソ連大使として「日ソ中立条約」に松岡洋右外務大臣とともに調印している。
3人目の副官は、山内保次で、騎兵第14連隊の小隊長として秋山旅団長から斥侯隊長を命じられ適地深く偵察し重要な情報をもたらし奉天開戦に寄与した。

また、秋山好古騎馬像制作にあたり、山内保次がモデルとなり、彫刻家の横江嘉純が作り上げた。
このような事案があり、神田又一村長は秋山好古師団長に揮毫をしてほしかった。村民上げての願いであったのではないか。

新潟県新潟市江南区沢海(北方文化博物館の隣接)にある忠魂碑は平成26年3月13日付で新潟市民文化遺産に認定された。
現在も忠魂碑の前で戦没者慰霊祭が行われている。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑で、秋山好古石碑の中で一番古い石碑である。
画像に大きな石碑の右側の小さな石碑が明治29年6月30日に建立された一番古い石碑である。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑で、秋山好古石碑の中で一番古い石碑である。
日清戦争の時に秋山好古率いる騎兵第1連隊の隊員15名が戦死したその哀悼碑で、裏面には戦死した隊員の氏名・戦死場所・戦死年月日が刻まれている。
石碑の石の調達、碑文、建立者全て秋山好古である。

愛媛県今治市大西町にある「衆心和暢化乃成」の記念碑で雨天の中でのロケであった。
この石碑は、現在52基の石碑が発見されているが、漢詩で揮毫された石碑はこの石碑のみである。
「衆心和暢化乃成」の意味は、みんなの心が、穏やかで、伸びやかであれば、教育は間違いなく、実ってゆく。・・でこれは、秋山好古の原作で出典なしである。

今治市大西町は元、愛媛県越智郡小西村で当時の村長・近藤氏も校長をしていた人物で、秋山好古を尊敬していた。
好古は元大阪師範学校(現大阪教育大学)を卒業し、名古屋師範学校付属小学校の教師であった。
軍服という甲冑を身に着けた教育者であった好古に、これからの小西村発展の基盤となる事を願って揮毫を頼んだ。

 

平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いたロケ画像。
場所は、松山市神田町1番7号、厳島神社で雨天であった。
石碑裏面に日清・日露戦争で戦病死された氏名が記載されていて、合祀及び対象者:三津浜地区・264柱である。

この石碑は、平成20年10月3日、NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介された。                    52基の石碑の中一番大きな碑である。

NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」の中に出てくる映像で、伊予松山城で松山城の直ぐ北側に北豫中学校(現 愛媛県立松山北高等学校)がある。

伊予松山城の北側にある、秋山好古が地元の強い要請を受け赴任した北豫中学校。(現 愛媛県立松山北高等学校)

秋山好古は、大正14年4月から昭和5年3月迄北豫中学校を務めた。
好古は、日清・日露戦争で従軍し亡くなった部下の事を思い陸軍大将になっても極力華美な生活は控え元帥に推薦されるも断わると大元帥(大正天皇)は驚き、特旨として官位従二位を与えた。
郷里の強い要望に応え、北豫中学の校長を引き受け青少年の育成に尽くした。

現在の愛媛県立松山北高等学校で、秋山好古校長資料館の前で秋山好古校長を偲ぶ在校生。

NHK松山放送局制作の「碑文に残された好古の思い」の終わりの画像。

そしてスペシャルドラマ坂の上の雲、第3部のPR画面が流れた。

平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いたロケ画像。
場所は、松山市神田町1番7号、厳島神社でカメラさんは雨合羽を着用し、スタッフに傘をさしてもらっての撮影。

 

平成23年9月20日、NHK松山放送局が「碑文に残された好古の思い」と題した番組を制作して頂いたロケ画像。
場所は、今治市大西町山之内、薬師堂でカメラさんは雨合羽を着用し、スタッフに傘をさしてもらっての撮影。

 
平成31年2月1日、現在秋山好古揮毫石碑所在地。

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天山・崖崩れ防災対策工事完成

2019年02月22日 | 伊予松山歴史散策

愛媛県松山市は、平成31年2月1日現在人口は、510,516人で、松山市天山町は伊予松山城から南方向約、5kmの地点に位置する松山市の中心にある街である。 

天山崖崩れ防災対策工事完成
平成30年7月に発生した「平成の大水害・西日本豪雨」で被災されました方々の再建は未だ復興されていません。皆様の一日も早いご再建をお祈りいたしますとともに、今もボランティアとして活動されている皆様ご苦労様です。
広島県・岡山県・愛媛県地区では特に甚大な災害が発生し、尊い命が失われました。

全国各地の県警・消防・企業局・医師団・自衛隊・それ以外で派遣されている皆さん方の救助活動が毎日のようにTVで報道されました。
また、TVで報道されていない地区でも被害が出ました。
私の住まいのすぐ近くに奈良県の天香具山と姉妹の山「天山」があり、西日本豪雨の時、松山市石井地区の天山町に避難勧告が発令されました。

 その後松山市天山町に避難勧告が出た場所を見に行ってみると、天山神社の参道(石段115段)両側の崖崩れの兆候があり土砂崩れ避難勧告が発令されたのです。
昨年暮れから崖崩れ防災対策工事が行われ昨日完了しました。
幸い松山市天山町の天山には崖崩れは発生せず難を逃れました。

この山は、天から降り下りて来る時、途中で二つに分かれ、一つが奈良県橿原市の天香具山、もう一つが松山市天山町の天山です。
天山香具山(152,4m)・天山(50,4m)ともに、神ノ山として崇められる山で、平成の大水害・西日本豪雨の際、天山町の住民は神様のご加護があったのではないでしょうか!!
画像は、崖崩れ防災対策工事が行われた箇所です。

崖崩れ防災対策工事が行われる以前の画像。
参道入口にある社号碑は、明治時代の書家、三輪田米山の揮毫である。

崖崩れ防災対策工事が行われ完成した画像。

崖崩れ防災対策工事、右側の崖崩れ防災対策工事現場。

崖崩れ防災対策工事、左側の崖崩れ防災対策工事現場。

長い115段の石段。

天山神社参道には長い115段の石段があり上がると参道は続く。

参道から境内にかけて塵一つ落ちてなく地域の人々が毎日清掃をしている。神ノ山の神社である。

山頂にある社殿右には、大和国(奈良県橿原市)天香久山と伊予国(松山市天山町)との姉妹交流記念20周年を記念して立派な石碑が建立してある。

天香具山・天山の歌碑。

「お山の縁で歴史姉妹」の大きな見出しで新聞記事となった。

天山は、加藤嘉明が松山城築城に際して徳川家康に築城の位置について、3ヶ所の候補地を上申した1番目の場所が「天山」であった。
2番候補地が現在の松山城(勝山)で、3番候補地が御幸寺山であった。
画像上部に小高い山が伊予松山城。

慶長7年(1602年)1月15日の吉日をもって、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により徳川家康から20万石を拝領し、松山城築城第2番候補地、勝山に築城許可が下り普請が始まった。慶長8年(1603年)10月に、嘉明は家臣及び正木の住民とともに居を新城下に移し、この地を松山という名称が公にされた。
しかし城郭は短時間に完成したわけでなく、完成までに26年の歳月が掛かりその当時の関係者の努力で現在の松山城がある。
完成間際の1年前、嘉明は幕府の命で会津若松藩40万石で転封となった。

標高50,4mの天山山頂から見た伊予松山城で、松山城は天山から見るのが一番綺麗と言われている。
画像撮影レンズは、35mm判換算にすると1,365mm相当のレンズで撮影。

奈良県橿原市南浦町にある「大和国(奈良県橿原市)天香久山152,4m」である。
撮影は、日本100名城巡り時、第48番松坂城(三重県松阪市)から、第61番高取城(奈良県高取町)に移動中、橿原市南浦町にある天香久山を撮影した。

 

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伊予路に春を呼ぶ 椿神社祭り・2月11日から13日迄開祭された

2019年02月16日 | 伊予松山歴史散策

今年もやって来た、伊予路に春を呼ぶと言われている「椿祭り」が2月11日から13日まで、松山市居相町二丁目にある伊予豆比古命神社で始まった。

中日の12日カメラ持参で参拝に行って来た。
「家内安全と今年一年元気に過ごせますように、西日本豪雨被害早期復興、北朝鮮拉致問題早期解決、元気のある日本復活を祈願しました。」 

椿祭りは毎年旧暦の1月7日~9日に開催される。
初日は雨天&曇天、二日目は快晴、最終日も好天に恵まれ大勢の家族ずれが参道を埋め尽くしていた。
本殿参拝は、愛媛県県警の警察官が参拝者の安全を確保し、事故の無いお参りが出来る様配慮され、市民のパトロール隊を編成し安全を保っていた。

境内には新しい児守神社が出来ていました。(平成24年12月23日竣工)拝殿とお札・お守りを初穂料と引換え受け渡しとして臨時の巫女さんが大忙しであった。
同神社では例年通り参拝者は45万人の人出があると見込んでいるそうで、愛媛県最大の神社大祭である。

参道は約600mあり、両サイドに露天商が並び境内には縁起物の熊手や「名物の・おたやんあめ」を参拝の帰りに買い求めていた。
参考に、伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は愛媛県松山市居相町にある神社で、式内社・旧社格は県社で神紋は十六弁八重表菊である。
地元では椿神社、椿さんとも呼ばれて、開運縁起・商売繁昌の御利益がある神社として崇拝されている。

「伊豫豆比古」の読み方については、神社では「いよずひこ」としているが、「いよづひこ」と読んでいる例も多い。本来の意味からいえば「いよ-づ-ひこ」であり、「豆」は格助詞「つ(づ)」であるが、ここでは同神社の表記に従う。
江戸時代には松山藩主・松平(久松)氏の篤い崇敬を受け、現在では縁起開運の神として、崇敬者は全国に広がるという。

【正式名称】
 伊豫豆比古命神社は、御鎮座(御創建)二千余年の古くより、尊称・敬称も親しく「椿神社」「お椿さん」とも慕われ、縁起開運・商売繁昌の神様として、四国四県はもとより、広く全国から崇敬を寄せられている神社である。

【通称号】
 「椿神社」「お椿さん」は、松山市内・四国四県で特に敬称を込めて呼ばれているが、この由来は、『往古、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が舟山に御舟を寄させ給い、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』との伝説が示すように、神社周辺は一面の海原であり、『津(海の意)の脇の神社、すなわち「つわき神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛った。』との学説の一方、民間伝承では、現在も境内一帯に藪椿を主に、各種の椿が自生しているが、「椿の神社」つまり「椿神社」と呼ばれるとの説話がある。

大政奉還が行なわれて幕政が閉じられ、廃藩置県の実施を見て明治を迎えたとき、伊予の国8藩も例外に漏れず、現在の愛媛県が誕生した。
県名策定に際し、古事記・日本書紀にも記されている当神社の御祭神の一柱、愛比売命から県名とされたが、都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県のみのようだ。
(伊豫豆比古命神社由緒から引用)

 なお境内には例年8月に開催される全国高校俳句甲子園大会で最優秀句に選定された句が記念の玉垣句碑として永久に建立されている。
今日行ってみると昨年開催の第20回俳句甲子園個人最優秀句の句碑が建立されていた。

好天に恵まれた中日の2月12日、600mの長い参道を歩いてきた多くの参拝者は最後の大鳥居を潜り拝殿・本殿に向かう。

伊豫豆比古命神社の楼門からの参道(600m)大勢の参拝者で一杯であった。

楼門を潜ると今年も拉致被害者救出運動をされる方々が署名活動をされていた。私も署名をした。早く解決するようにと願いながら。

数段の石段を上がり拝殿に向かう。

「家内安全と今年一年元気に過ごせますように、西日本豪雨被害早期復興、北朝鮮拉致問題早期解決、元気のある日本復活を祈願しました。」
特に今年は、岡山県倉敷市に居住する、次男の家庭に、第二子が誕生しますので母子ともに元気な子供の出産をする事を祈願した。

参拝した人々は本殿の回廊を巡り神の祈りを終える。

参拝した人々はお札・お守りを受ける。沢山のお札お守りがあり選ぶのが大変である。

4年前に新築された「児守神社」でお札・お守りを受け渡す臨時の巫女サン達。

参拝者の要望を聞き取りテキパキとお札お守りを渡す巫女さん。

縁起物の熊手も売っている。・・売れると三本締めで締める。

境内には、毎年8月松山市で開催される、全国高校俳句大会(俳句甲子園)で個人最優秀句に選定されると句、学校名、個人名が石碑に刻印しその誉れを讃え永久に句碑玉垣として建立保存されている。

一昨年開催された第20回全国高校俳句甲子園大会で個人最優秀句に選定された句、学校名、個人名が句碑として石碑が建立されていた。
第20回までの句碑が玉垣として建立されている。・・昨年開催の第21回大会の最優秀句碑が未だ建立されていない。・・早く建立してあげて下さい。

なお、第21回、個人最優秀句(文部科学大臣賞)に選定された句は、
学校法人興南学園・興南高校(沖縄)桃原(とうばる)康平君(2年)の句「滴りや 方舟に似て あなたの手」です。

椿神社境内には沢山の椿が植栽されていて、中でも藪椿が多く見られる。
松山市の市花も藪椿である。

安全な参拝が出来るよう市民パトロール隊を編成し警護に当たる。

参拝もお守りも授かり最後におみくじを引き内容を確認し、神社が特設したおみくじ掲載場所に結び帰路に就く参拝者。

 

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第57回愛媛マラソン 好天の中開催 された

2019年02月12日 | 伊予松山歴史散策

平成最後となる第57回愛媛マラソンが平成31年2月10日、愛媛県庁前をスタート、伊予松山城三之丸公園をゴールとするコースで行われた。
スタートは午前10時、42,195kmの間に10ヶ所の関門があり指定された時間内に通過しないと失格となり、6時間内にゴールしないと完走資格がない。

愛媛マラソンは、日本陸連公認のマラソン大会で、第1回は昭和38年1月15日の成人の日に行われ参加選手、30名で開催、昭和58年にやっと100名の参加となり、参加資格は日本陸上競技連盟に登録されている事が条件で男子のみのであった。

第44回、平成10年開催から女子の部が開催され、この時から以前は見る・応援する愛媛マラソン大会でしたが、市民が楽しくランニングできる、現在の市街地発着の市民マラソンとして変更した。
それ以来参加し楽しむマラソンが急増し大変身、今や日本でも屈指の有名なマラソン大会となった。

シドニーオリンピック金メダリスト、高橋尚子さん曰く、全国に数あるマラソン大会に参加して来ましたが、愛媛マラソン大会は市民の応援、支援が素晴らしい大会と誉められました。大会関係者もこの言葉を聞き感激した。
今年も高橋尚子さんゲストランナーとして来て頂きました。
愛媛マラソンは全国で開催されているベスト3に入る素晴らしい大会ですと誉めて頂きました。 

平成29年・第55回愛媛マラソン節目の大会に、川内優輝選手(埼玉県職員)が参加し、2時間9分54秒の52年ぶりの大会新記録を樹立した。川内優輝選手(埼玉県職員)のお母さん、僕も愛媛で走るからお母さんも走りましょうと優輝選手が申し込みをされ、自己記録の3時間50分台で完走された。

川内美加さんは、今年第57回大会にも参加、今年は次男の川内鮮輝さんもエントリーしていたが、直近体調を崩し参加出来ず川内美加さん(川内3兄弟の母親)の支援にまわった。
またイギリス人の、マーラ・ヤマウチ(イギリス・オックスフォード出身)も完走された。
今年も大きな事故も無く無事終了お疲れ様でした。選手の皆さん&関係者の皆様。

 愛媛マラソン実況放送は、ラジオ放送が第20回大会から、TV放送は第26回から始まり今年が32回目となる。
特にTV放送は、スタート直前の午前9時55分からマラソン終了の午後4時05分まで6時間放送で全国でも唯一の長時間放送である。
放送局は日本TV系列の南海放送(RNB)です。
愛媛マラソン制限時間6時間で閉鎖されるが全てを放映する。今年は中継するアナ、技術スタッフも機器を背負ってランニングしながらの放映画像を流した。
実況カメラは33台、ドローンも使用し150名のスタッフが従事して放送した。 

参加者は、1万318人(男子:8169人 女子:2149人)
完走者は、 9530人(男子:7669人 女子:1861人)

優勝は、男子は中村佳樹(愛媛銀行)が2時間19分44秒、女子が大城優衣(愛媛銀行)が2時間49分24秒それぞれ初優勝した。

なお、今大会から代理走行防止のため、身分証明を提示し本人確認の上リストバンドを発行し行われた。

これからの画像は、午後1時44分から午後4時2分までに撮った画像です。

ゴールの伊予松山城三之丸公園に行ってみると川内親子がTVのインタビューを受けていた。
川内三兄弟の次男の鮮輝さんと母親の川内美加さんがTVのインタビューを受けていた。
川内鮮輝さんもエントリーしていたが、直近体調を崩し参加出来ず川内美加さん(川内3兄弟の母親)は自己記録更新した。
川内一家は、お父さんとお母さんも、元アスリートで、お父さんの川内葦生さん、高校時代にボクシングで国体にも出場したことがあるアマチュアボクサーで、お母さんの川内美加さんは、中高は陸上部で長距離走の800m1500mをやっていたそうです。
川内美加さんの記録は:3時間40分23秒で自己新だそうです。

今回一番遠くから参加したイギリス人の、マーラ・ヤマウチオックス(イギリス・オックスフォード出身)
マーラ・ヤマウチさんは、イギリスの陸上競技選手、マラソンのイギリス女子マラソン歴代2位の記録保持者。
記録は、2時間59分21秒でした。

 

会場では完走タイムが記載できる掲示板を持って記念写真を撮っていた。

このランナーは自己記録更新のプラカードを持って記念写真。

こちらの伊予路のマドンナ達は、友達が完走して帰るのを待っている。

足がパンパン!!あるけないわ・・と友人が介護。

会場は伊予松山城天守を仰ぎ見ることが出来る三之丸公園で完走したランナー達が家族・友人達を探していた。

報道機関のカマラマン、一人が3台のカメラを操つり大忙し。

こちらは、ゴールしてくるランナーを正面から捉えるTV中継の固定カメラ。

家族・友人が脚立持参でスマホ撮影。

完走し食糧補給をする・・美味しそうに!!

会場には毎年道後温泉の源泉で足湯コーナーが設営され、疲れた足をほぐしていた所にTV中継カメラがやってきた。

3時間56分49秒・・この時間帯になると続々とゴールしてくる。

ゴールするランナーに取り付けてあるICチップを係の若い女性(女子高生)が取り外す。

記念の写真を・・お疲れ様です。

ゴール付近は両サイドにランナーを迎える関係者でいっぱい。

ゴール前では高橋尚子さんがハイタッチでお出迎え。

完走者全員とハイタッチをして労を労うと大活躍。

こんな風景で高橋尚子さんはランナーをゴールに導く。

高橋尚子さんゴールは直ぐそこ頑張れと元気づける!!

高橋尚子さん、愛媛マラソン大会実行員会会長の野志松山市長を激励しながら並走。

愛媛マラソンタイムリミット6時間を53秒オーバし完走は出来なかった女性ランナーを優しくゴールに導く高橋尚子さん・・優しさが伺えるいい光景で大きな拍手が起こった。
観衆から、高橋尚子ありがとう!!来年もまた来てくださいと声援が起きた。

平成29年・第55回愛媛マラソン節目の大会に、川内優輝選手(埼玉県職員)が参加し、2時間9分54秒の52年ぶりの大会新記録を樹立した川内優輝選手(埼玉県職員)の35km地点の力走。
ダントツの時間で35km地点を走り抜けた。この時も母川内美加さんも走り、自身の記録を更新した。

第57回 愛媛マラソン平成最後となった大会も、規定時間6時間が過ぎゴールが閉鎖された。
係員は各ランナーの時間を計測した電子機器等の撤収を行い、原状回復にする作業が始まり大会は無事終了した。
ランナーの皆さん・大会に従事した関係者、声援を送った応援の皆さんご苦労様。
札幌市から参加したランナーの方は、関係者の配慮、沿線の応援ランナーにとっては走りやすく、ランナーの気持ちになっての配慮が素晴らしいとお褒めの言葉を頂いた。

地元紙愛媛新聞の記事。

第57回愛媛マラソン結果

男子総合

  1.  2:19:44 中村佳樹 愛媛銀行
  2.  2:21:15 井上直紀 東京陸協
  3.  2:22:26 清水歓太 早稲田大学
  4.  2:22:50 井上正之 愛媛銀行
  5.  2:27:17 岡山春紀 コモディイイダ
  6.  2:28:24 田村友希 津島体協
  7.  2:28:54 山下克尚 明浜体協
  8.  2:29:14 古泉辰男 松山陸協

 女子総合

  1.  2:49:24 大城優衣 愛媛銀行
  2.  2:51:38 下村紫織 コモディイイダ
  3.  2:52:50 細川江梨子 愛媛県総合保健協会
  4.  2:54:05 筒本恭実 広島県庁ランニンググラブ
  5.  2:54:12 村上史恵 今治アスリートクラブ
  6.  2:57:43 合田睦美 松山ランナーズ
  7.  2:59:07 許玉芳  台湾
  8.  2:59:09 吉光和恵 倉敷福田走友会

 

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