ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

研修旅行

2006年03月19日 | 手打ち蕎麦打ち
    
    常陸秋そば試食中
                          
                          益子焼、濱田三代展示室
昨日、福島手打そば研究会と青葉手打そば教室福島支部(社会保険センター)合同で恒例の研修旅行、今回は「常陸秋そば」の名産地茨城県金砂郷「西金砂そばの里そば工房」を訪ねた。
矢祭町に隣接する山間地で今でこそ蕎麦そばと珍重されるが、昔は重要な救荒作物だった事が周辺の地形からも伺えた。ここでは8月末種まき10月末収穫、色・味・香りともに通人の間では評判のそば、現在約300軒の農家で栽培されているそうだ。
途中休憩も兼て益子焼の益子に43年ぶりに立ち寄った。
少々時間もあったので陶芸美術館と考えたがそれまでの余裕はなく、一人で生活雑器を扱う店を避けてチョッピリ高級品を扱う店に入った。
偶然にもその一角に“濱田庄司三代”の展示コーナーがあり、取材で訪れた(当時は中継車・電源車・VTR車、スタッフ総勢15~6人)初めての窯元、先生は既に世界の濱田で、当時の二代目と三代目も現在の写真で拝顔する事が出来た。
三代目の作品は現代風ばかりで以外だったが、当時は5年生、先生の専属絵付け師、近所のお婆さん(とても芸術家には見えなかった)のもとで幼少の頃から修行していた様で、インタビューの中で「俺の跡継ぎは孫だナ」と話していたが、二代目の作品も想像以上の高額、親の意に反し努力された結果かなーと勝手に解釈した。二人ともインサートカットで紹介、お逢い出来る筈もないが何とか直接拝顔して見たいともとも思った。
幸い店主が親切に対話に応じてくれて、気が付けば約20分も相手をさせてしまった。
昔話、時効により許してもらおう。
お茶をご馳走になり饅頭に手を差延べた時、向い側の先輩が「饅頭ではなく茶碗をポケットに入れろ」と手招きで合図をしていた。何処にでもある茶碗、興味も無かったし手招きの合図もイマイチ判らなかった。
結局その先輩のポケットにも入っていなかったが「オマエ馬鹿だなー、饅頭は何処でも食える、あそこの茶碗はお宝だぞ」と。そんな事を思い出して聞いてみた。「先生の物らしいの(その時役場からお土産にもらったが全くの土産品)持ってんだけど、二代目さんは鑑定はしてくれるんですかね」『タダの桐箱ではダメだよ、二代目先生指定の職人の箱で、鑑定料一万円、書代二万円が最低相場かな』だった。
その後15~6年してハンデーカメラが出現して窯元の取材も多くなり、何時しか陶器にも魅かれて理屈抜きの鑑賞も実は道楽の一つになってしまった。
素人百姓の土遊び同様に陶器も眺めているだけで頭の中が真っ白、手軽な所では民報新聞社のロビーへ偶に足を運ぶ。福島県の第一人者本郷焼の宗像亮一さんや以前若手のNo1と言われた佐藤幹さんの作品などにふれることが出来る。
昔を思い出させた素晴らしい一日の旅だった。