憲法論議
「この国の風景」は、司馬先生の著作である「この国のかたち」*1)をモチーフにして、
それに沿った形で話を進める予定であったが、「続、この国の風景」(2011年12月~2012年1月)で、第6回「機密の中の国家」までを引いたところで停止していた。「この国の風景Ⅲ」(2013年10月)では触れていない。
この第6回の小題の「機密」とは、『統帥綱領・統帥参考』の中に書かれている内容である。それぞれ昭和3年と昭和7年に参謀本部が本にしたものとのことで、最高機密として特定の将校にしか閲覧が許されないものであったという。当時の帝国憲法下においても、天皇の国務については、国務大臣が最終責任を負う(輔弼する)ことになっていた(憲法には明記されていなかった)。しかし、統帥綱領等では、統帥権(軍隊に対する統治)は別であると断定した内容になっていたのだ。天皇の統帥権は、平時・戦時を問わず三権(立法・行政・司法)から独立し続けている存在だとしたのである。
当時の帝国憲法解釈では、美濃部達吉東大教授の「天皇機関説」が支持とされており、学校教育現場においても美濃部博士の立憲主義的憲法学に拠っていた。しかるに昭和10年、美濃部学説(天皇機関説)は当時の内閣から葬られ、軍部の独裁的横暴によって大戦への道を突き進むことになる。天皇の統帥権は戦後、帝国憲法の欠陥であったという主張が主流のように聞こえているが、その解釈においては、当時の天皇の権限にさえ立場による違いがあったのである。
先の安保法制論議で、マスコミ、野党や憲法学者の多くは、憲法違反の法律であるとの主張を繰り返した。一方与党自由民主党は、1957年の砂川事件*2)における最高裁判決を論拠として、『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然』とした。平和憲法の下においても、自衛のための戦力の保持や同盟国軍隊の駐留、相互依存などは国家固有の権利であるとの見解である。
現代に美濃部博士が健在であれば、果たしてどちらを是とするかは空論に過ぎないが、今回の安保法制の論議を聞いていると、戦前とは全く逆のことが現代に行われているように見えて仕方がなかった。多くのマスコミや憲法学者の憲法違反論者こそが戦前の軍部であり、憲法を字面解釈で「違憲」と言っているに過ぎないと思える。それは帝国憲法の天皇主権の拡大解釈と同根である。与党の論は、憲法9条といえど、(明記はされていないが)主権国家が持つ自衛権は否定していないとするもので、まさに高度な政治判断に拠る解釈であろう。
司馬先生は『昭和10年から同20年までのきわめて非日本的な歴史を光源として日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるように思えてならない』と「この国のかたち」第1巻の6に記しているが、その「世間」こそ現代の多くのマスコミ等に巣くう「自慮史観」一派ではなかろうか。
*1)「この国のかたち」1990年第1巻~1996年第6巻、司馬遼太郎著、文藝春秋刊
*2)砂川事件:1957年7月8日、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件。東京地方裁判所は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した。
しかし、最高裁判所は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定して
おらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し地裁に差し戻した。byウキペディア
「この国の風景」は、司馬先生の著作である「この国のかたち」*1)をモチーフにして、
それに沿った形で話を進める予定であったが、「続、この国の風景」(2011年12月~2012年1月)で、第6回「機密の中の国家」までを引いたところで停止していた。「この国の風景Ⅲ」(2013年10月)では触れていない。
この第6回の小題の「機密」とは、『統帥綱領・統帥参考』の中に書かれている内容である。それぞれ昭和3年と昭和7年に参謀本部が本にしたものとのことで、最高機密として特定の将校にしか閲覧が許されないものであったという。当時の帝国憲法下においても、天皇の国務については、国務大臣が最終責任を負う(輔弼する)ことになっていた(憲法には明記されていなかった)。しかし、統帥綱領等では、統帥権(軍隊に対する統治)は別であると断定した内容になっていたのだ。天皇の統帥権は、平時・戦時を問わず三権(立法・行政・司法)から独立し続けている存在だとしたのである。
当時の帝国憲法解釈では、美濃部達吉東大教授の「天皇機関説」が支持とされており、学校教育現場においても美濃部博士の立憲主義的憲法学に拠っていた。しかるに昭和10年、美濃部学説(天皇機関説)は当時の内閣から葬られ、軍部の独裁的横暴によって大戦への道を突き進むことになる。天皇の統帥権は戦後、帝国憲法の欠陥であったという主張が主流のように聞こえているが、その解釈においては、当時の天皇の権限にさえ立場による違いがあったのである。
先の安保法制論議で、マスコミ、野党や憲法学者の多くは、憲法違反の法律であるとの主張を繰り返した。一方与党自由民主党は、1957年の砂川事件*2)における最高裁判決を論拠として、『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然』とした。平和憲法の下においても、自衛のための戦力の保持や同盟国軍隊の駐留、相互依存などは国家固有の権利であるとの見解である。
現代に美濃部博士が健在であれば、果たしてどちらを是とするかは空論に過ぎないが、今回の安保法制の論議を聞いていると、戦前とは全く逆のことが現代に行われているように見えて仕方がなかった。多くのマスコミや憲法学者の憲法違反論者こそが戦前の軍部であり、憲法を字面解釈で「違憲」と言っているに過ぎないと思える。それは帝国憲法の天皇主権の拡大解釈と同根である。与党の論は、憲法9条といえど、(明記はされていないが)主権国家が持つ自衛権は否定していないとするもので、まさに高度な政治判断に拠る解釈であろう。
司馬先生は『昭和10年から同20年までのきわめて非日本的な歴史を光源として日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるように思えてならない』と「この国のかたち」第1巻の6に記しているが、その「世間」こそ現代の多くのマスコミ等に巣くう「自慮史観」一派ではなかろうか。
*1)「この国のかたち」1990年第1巻~1996年第6巻、司馬遼太郎著、文藝春秋刊
*2)砂川事件:1957年7月8日、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件。東京地方裁判所は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した。
しかし、最高裁判所は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定して
おらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し地裁に差し戻した。byウキペディア