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この国の風景Ⅳ第2回

2015年12月04日 | ブログ
革命の果て

 司馬先生の「この国のかたち」第1巻の6に基づく話を前回したので、次に7話を視て見る。小題は「明治の平等主義」。明治維新が四民(士農工商)にとって根こそぎの社会を変えた徹底した革命だった一面を述べている。但しそれは、『ブルジョワジーのためのフランス革命や農奴のためのロシア革命とは同日に論じられない』という。『封建制が一挙に否定されたために“階級”として‘とく’をしたものはなく、社会全体が手傷を負いつつ成立したのである』。

 『明治維新は、国民国家を成立させて日本を植民地化の危険からすくいだすというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命だった』。中心となった雄藩がたまたま300年近く前の関ケ原の戦いに敗れた薩長であり、薩長の殿さま筋から見れば、関ケ原の報復戦とも捉えていた気配もある。事実、島津久光など維新後の大久保や西郷のやり方に憤懣やるかたなかく、『西郷や大久保を心底憎んだと言う。大久保、西郷の二大巨頭が、革命の成立後、笑顔を忘れたかのようであったのは、主筋から人格もろとも否定され続けたことによる』。

 明治の平等主義について、司馬先生は例えば、藤堂明保さんという東大紛争の折に東大教授の職を捨てた中国音韻学の大家をあげる。『藤堂家は伊賀上野の城代の家柄であり、松尾芭蕉は藤堂家のご先祖の下っ端の家来だった。それでも先の大戦では中国戦線に駆り出され、終戦時の階級は軍曹。また旧久留米藩主で伯爵、農林大臣を父に持ち、皇族である北白川家から出た母を持つ作家の有馬頼義氏は、関東軍の古参上等兵だった。そういう家柄の子があっけらかんと一兵卒として徴兵されるなど、同時代のヨーロッパでは考えられないことで、明治国家が作った平等主義が苛烈なほどに継承されていた』。と司馬先生は書いている。

 その平等主義が、国民すべての力を富国強兵政策に向かわせる大きな力となり、日清・日露戦争に勝利することもできた。しかしその勝利が、帝国憲法の字面解釈の果てに戦略を誤り、国家存亡の危機に追いやったのである。

 再び、戦後の混乱を経て、経済大国として復興出来たことは、多くの幸運が味方してくれたこともあろうが、世界を敵にまわしても戦うという民族の誇りがあったればこその底力ではなかったか。

 しかるに、平成維新を謳って一時政権さえ奪った政党が、安保法制を戦争法案だと揶揄し、無責任な文化人や学者、多くのマスコミ、一部の経済人まで擁して、この国の分断を狙う勢力に媚びるなど、維新の歴史さえ知らぬ無知蒙昧の所業としか映らない。この国の哀しい風景である。




本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、1990年文藝春秋刊を参考に編集しています。
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