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この国の風景Ⅳ第7回

2015年12月19日 | ブログ
天領のごとく

 司馬先生の「この国のかたち」も第2巻に入る。26「天領と藩領」。天領とは幕府の直轄領である。『江戸期、全国の石高はざっと三千万石だった。そのうち天領は、旗本領を含めて800万石。純粋な天領は400万石ほど*5)で、幕府という政府はまかなわれていたのである。それらの天領の管理と行政・司法のためにはわずかな人数の役人がいるだけで、軍事力といえるようなものは持っていなかった。幕府の軍事力としては旗本八万旗(実際には二万旗ぐらい)が江戸に集中して居住しているだけで、税収のあがる地方(天領)は、無防備だったのである』。

 江戸幕府の権勢が全国津々浦々まで行き届いていた時代は、無防備であった天領にあっても安泰であった。『たとえば、大和(奈良県)の大半は天領だった。そのうちの南大和7万石の行政・司法に任じていたのが、五条にあった小さな代官所だった。7万石といえば、大名なら、足軽・小者を含めて1500人以上――つまり歩兵1個連隊――の人数を抱えた軍事力を持っていた。ところが五条代官所では、せいぜい10人くらいの吏員がいるにすぎなかった。

 幕末、この五条代官所が襲われた。・・・打ちこんだのは総勢百数十人で、世にいう「天誅組」である。・・・前年に赴任した温厚で公正な代官を斬殺し、“姦物”として首をさらした』。

 江戸時代は初期を除いて、諸侯の財政は苦しく、農民は酷税に苦しんだ。当初四公六民で米の収穫6割が農民の取り分であったものが、大名領では藩によれば八公二民にまで増税されていたという。しかし、天領においては四公六民が守られた。前述の南大和のごとく7万石を十人で賄っていたことによる。

 そして、大和のよさは古寺にあるけれど、それが白壁・大和棟といった大型農家に囲まれていたからこその景観美にある。『白壁・大和棟は、天領の租税の安さの遺産と考えていい。・・・天領のゆたかな跡を訪ねるとすれば、奈良県のほかでは岡山県の倉敷がよく、また大分県の日田もいい。いずれも農村の風がのんびりしていて、町方は往年の富の蓄積を感じさせる』。

 現代のわが国をめぐる情勢の中で、これだけの広大な排他的経済水域を有しながら、海上保安庁の予算は平成27年度1876億円余り、28年度概算要求でも2042億円程度で賄われている。破綻の前兆はすでに、中国漁船による小笠原海域の宝石サンゴ略奪に見られる。

 尖閣防衛の緊迫感から宮古島や石垣島はじめ離島にも自衛隊を派遣するまたは増強する計画があり、地元では反対運動もあると聞くけれど、日米安保が強固であり、かつ米軍の力が絶大であることを前提とした小規模の計画である。

 国家予算の中でGDPの1%の国防費で賄ってきたことで、その分国民は豊かさを享受した。それは日本人すべてが、江戸時代でいえば天領に過ごしていたことになる。

 『――幕府というのは、いざとなるとシツケ糸一筋抜くことであっさり解体するようになっていたんだよ。そんな意味のことを、明治になって旧幕臣勝海舟がどこかで語っている。・・・実際そうだったし、またそういう結果にもなった。・・・もし明治以前の日本がぜんぶ天領(清や李氏朝鮮のような中央集権制)だったとすれば、19世紀あたり、ヨーロッパ勢力のために植民地にされてしまったにちがいない』。

 16世紀にポルトガルやスペインがこの国に手出しできなかったのも領国大名の統治能力が充実しており、かつ武力が存在していたからだと司馬先生は言う。『また武士人口の多さは、精神面でもいい影響をもたらした。武士という形而上的な価値意識を持つ階層が、実利意識のつよい農民層や商工人の層に対し、いい按配の影響を与えたのである。その点、武士に接する機会がないか、まれだった天領では、百姓文化というものは、格調のある精神性の要素が少なかった』。

 現代のわが国の国体は、日米安保というシツケ糸が抜ければ解体する危ういものであることを知っておく必要があろう。



*5)他に、鉱山や商業地・港湾からの収入はあった。
本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」文庫第2巻、1993年文藝春秋刊を参考に編集
し、『 』部分は直接の引用(編集あり)です。
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