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この国の風景Ⅳ第3回

2015年12月07日 | ブログ

独裁を排す

 「この国のかたち」第1巻の11に飛ぶ。信長について書いている。『信長の思想は、同時代の人間とは違っていた』。と司馬先生は言う。一つは配下の武将の門地を問わなかったこと。このことは、百姓出の藤吉郎を登用したことで現代人にもよく知られているが、門地を問わず登用したのは秀吉だけではない。信長の『生涯の後期、野戦軍を5個師団にわけていたが、5人の長のうち、侍らしい筋目をもっていたのは、最古参の柴田勝家と丹羽長秀だけだった。滝川一益は忍びで甲賀者であり、明智光秀も信長が土のなかから見出した人物で、流浪の浪人であった。光秀は美濃の明智家の出ということになっているが、その痕跡は明瞭ではない』。

 信長の実力主義は、現代の品質経営(TQM)などにいう人間尊重に基づいたものではない。『信長は、結局、人間を道具として見ていた。道具である以上、鋭利なほうがよく、また使いみちが多様であるほどいい。・・・秀吉は早くから信長の本質を見ぬいていた。・・・いつの時期からか、秘かに自分の天下構想を持つようになった。信長は、その死まで秀吉のそういう面に気づかなかったにちがいない。道具が構想をもつはずがないと思いこんでいた』。

 信長が同時代の人間と違っていたその2。『当時は封権の世で、武家が武士をつかって天下をとるとき、この時代、封建制をとるしか考えられない。大将たる者は、配下の武功の多寡を吟味して領地をあたえ、その領地の“王”にしてやる。武士たちはそれによって励む。・・・どの大名のもとでも、家臣たちが陣触れに応じて戦闘序列につくとき、所領の大小に応じて、自前の家人をひきい、自前の米で参加する』。

 信長も当然にそのような方法も用いて武将を鼓舞し、幾多の戦場を駆け抜けていった。しかし、究極として天下を取った時、江戸時代のような大名制はとらなかったのではないかと司馬先生は言う。『かれは――中国の皇帝制のような――中央集権・郡県制に似た体制を夢見ていたのではないかと思えるのである。・・・もし信長が、考えていたとすれば――きっと考えていたろう、それは-諸将にとっておそるべきことになる。天下を分かつのではなく、天下をひとりじめにするということではないか。・・・

 信長の末期、これも確かな資料のないことながら、かれは光秀から(彼がせっせと磨き上げ、百姓本位の政治をし、万が一の飢饉対策をするなど、当時としては理想に近い封建政治を布いた)丹波を召しあげて他に大領を与えることをほのめかしつつ、光秀に毛利攻めの応援を命じたかのようである。信長としては光秀を官僚としてあつかっているのだが、封建主義の光秀にとっては拠って立つべき領国が消滅する。その結果として本能寺の変がある。日本史は、独裁者につよい反撥を持った歴史といっていい』。

 現代はわが国も民主政治である。選挙で国会議員を選び、国会議員が内閣総理大臣を選ぶ。地方の県や市の首長も同様なことで、すべて成人一人一票の選挙で選ばれる。問題は国家レベルで対応する外交・防衛の重要な施策に、地方の県知事が、県民は自分を支持したと国家の方針に真っ向反対し、長年築き上げた計画を抹殺出来るか否かである。どうもある県の県知事は、封建時代の大名にでもなったつもりで、この県は自分が選挙で切り取った領土であると勘違いしているのではないか。国家の好きにはさせないと独立運動でも起こしかねない言動を為す。

 明らかに地方自治の悪用であるけれど、どうもこの国の多くのマスコミや左翼政党は権利に伴う義務は忘却し、国家の根幹を成す安全保障の重大性の認識が欠如している。ゆえに、そんな巨大なマスコミ権力を後ろ盾にすれば、己の架空の権力が誇示できる。それは国民全体からみれば、一首長による国家への独裁権力の行使のようにさえ映る。そはこの国の歴史や美しい風景に沿うものではなかろうと思う。



本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、1990年文藝春秋刊を参考に編集し、『 』部分は直接の引用です。