裁判
昔、弁護士といえば正義の味方のイメージがあった。テレビドラマでは冤罪を晴らすヒーローとして描かれることが多かった気がする。医術は昔、「仁術」と言われたが、今は「算術」だと揶揄されるように、時代と共に弁護士もイメージを落とし、絶対正義を守ることより、裁判に勝つことが正義となったようだ。
だからテレビドラマなどでも、そのような弁護士を風刺的に描くものが出てきた。もっともドラマは、結局主人公の弁護士が裁判に勝利する結果、社会正義を守っているような設定にはしているのだけれど。
それにしても、高齢者の財産管理のため任意後見人となった弁護士が、不当に高い報酬をその財産から引き落としていた。などという事件が報道されると、弁護士のイメージは大きく毀損することは仕方がない。弁護士といえば昔からエリート職業で、収入も高いというイメージがあり、それは大筋で現在も変わらないと思うけれど、一方で年収100万円未満の弁護士が2割も居るという話もある。最近の弁護士増産のツケが顕在化し、背に腹は代えられず不正に走る弁護士の割合も多くなっているかと寂しくなる。
不正とは見わけが付かないやり方だけれど、殺人犯などを精神異常者に仕立てて、無罪を勝ち取る手法は如何なものかと思う。弁護側は証拠が揃っている場合の逃げ道として、精神鑑定を要求することが多い。しかし鑑定の結果、被告に責任能力ありと認定された殺人事件の裁判で、警察や検察の取り調べでの自供を翻し、被告が裁判で無罪を主張するケースがあった。これなども弁護士の入れ知恵なのかとまで思ってしまう。自供しか決め手がない犯罪なら兎も角、明らかな証拠が揃っているにも関わらず、自供は強要されたと供述したのである。普通には考えにくい行動であるが、その異常性を周囲に印象付けることで再度精神鑑定に持ち込み、鑑定者の意識まで撹乱する魂胆ではないかと思ってしまう。
私は、そもそも精神鑑定で異常と鑑定されれば無罪になることがおかしいと思っている。犯罪者の中で計画的な殺人者にしても、計画までは責任能力ありの精神状態であったにしても、いざ実行段階では異常な精神状態になっているのが普通ではないか。勿論、特殊な機関で殺人訓練を積んだ人物は別だろうが。その意味からすれば殺人者はほとんどが異常者である。
殺人を犯した罪の意識と、予見される罪科の大きさに潰されて、犯罪後精神異常を来す犯人もいるかもしれない。いずれにしても精神鑑定如何に関わらず、罪相応の刑罰を受けるべきである。正常な人間なら更生も可能かもしれないが、通常が精神異常でしかも殺人まで犯す人間は、一定の療養で治癒したと診られて解放すれば、同じことを繰り返す恐れが高いのではないか。
欧州はじめ死刑廃止論も行き渡ってきており、わが国にも死刑廃止論者は政治家の中にもいる。さらに未だ自衛隊の縮小を唱える政党もあるが、世の中それら綺麗事だけでうまくゆくほど甘くはないことは、世界の犯罪や紛争、軍事大国の横暴を見れば分かりそうなものだけれど、現実を無視して綺麗事を並べる人達は、逆に他人に対して薄情で自己中心的な人間や政党ではないかと思えてしまう。自分や家族が犯罪に巻き込まれないなら、犯罪被害者の恐怖やその家族の喪失感に思い至ることはなく、国土が侵略されても自分に危害が及ばなければ、祖国や同胞をみんな(国家)で守り合おうという心も無いのだ。
犯罪者の弁護は重要であるが、細工しても裁判に勝てばいいでは手段が目的化している。一方最近検察側の不祥事も続いた。冤罪事件も現実にある。法律を守る立場の司法関係者が法を犯すようでは、裁判そのものへの信頼が崩れる。三権分立の大きな柱である司法に、血が通いかつ冷徹な法律の番人の心構えを期待したい。
昔、弁護士といえば正義の味方のイメージがあった。テレビドラマでは冤罪を晴らすヒーローとして描かれることが多かった気がする。医術は昔、「仁術」と言われたが、今は「算術」だと揶揄されるように、時代と共に弁護士もイメージを落とし、絶対正義を守ることより、裁判に勝つことが正義となったようだ。
だからテレビドラマなどでも、そのような弁護士を風刺的に描くものが出てきた。もっともドラマは、結局主人公の弁護士が裁判に勝利する結果、社会正義を守っているような設定にはしているのだけれど。
それにしても、高齢者の財産管理のため任意後見人となった弁護士が、不当に高い報酬をその財産から引き落としていた。などという事件が報道されると、弁護士のイメージは大きく毀損することは仕方がない。弁護士といえば昔からエリート職業で、収入も高いというイメージがあり、それは大筋で現在も変わらないと思うけれど、一方で年収100万円未満の弁護士が2割も居るという話もある。最近の弁護士増産のツケが顕在化し、背に腹は代えられず不正に走る弁護士の割合も多くなっているかと寂しくなる。
不正とは見わけが付かないやり方だけれど、殺人犯などを精神異常者に仕立てて、無罪を勝ち取る手法は如何なものかと思う。弁護側は証拠が揃っている場合の逃げ道として、精神鑑定を要求することが多い。しかし鑑定の結果、被告に責任能力ありと認定された殺人事件の裁判で、警察や検察の取り調べでの自供を翻し、被告が裁判で無罪を主張するケースがあった。これなども弁護士の入れ知恵なのかとまで思ってしまう。自供しか決め手がない犯罪なら兎も角、明らかな証拠が揃っているにも関わらず、自供は強要されたと供述したのである。普通には考えにくい行動であるが、その異常性を周囲に印象付けることで再度精神鑑定に持ち込み、鑑定者の意識まで撹乱する魂胆ではないかと思ってしまう。
私は、そもそも精神鑑定で異常と鑑定されれば無罪になることがおかしいと思っている。犯罪者の中で計画的な殺人者にしても、計画までは責任能力ありの精神状態であったにしても、いざ実行段階では異常な精神状態になっているのが普通ではないか。勿論、特殊な機関で殺人訓練を積んだ人物は別だろうが。その意味からすれば殺人者はほとんどが異常者である。
殺人を犯した罪の意識と、予見される罪科の大きさに潰されて、犯罪後精神異常を来す犯人もいるかもしれない。いずれにしても精神鑑定如何に関わらず、罪相応の刑罰を受けるべきである。正常な人間なら更生も可能かもしれないが、通常が精神異常でしかも殺人まで犯す人間は、一定の療養で治癒したと診られて解放すれば、同じことを繰り返す恐れが高いのではないか。
欧州はじめ死刑廃止論も行き渡ってきており、わが国にも死刑廃止論者は政治家の中にもいる。さらに未だ自衛隊の縮小を唱える政党もあるが、世の中それら綺麗事だけでうまくゆくほど甘くはないことは、世界の犯罪や紛争、軍事大国の横暴を見れば分かりそうなものだけれど、現実を無視して綺麗事を並べる人達は、逆に他人に対して薄情で自己中心的な人間や政党ではないかと思えてしまう。自分や家族が犯罪に巻き込まれないなら、犯罪被害者の恐怖やその家族の喪失感に思い至ることはなく、国土が侵略されても自分に危害が及ばなければ、祖国や同胞をみんな(国家)で守り合おうという心も無いのだ。
犯罪者の弁護は重要であるが、細工しても裁判に勝てばいいでは手段が目的化している。一方最近検察側の不祥事も続いた。冤罪事件も現実にある。法律を守る立場の司法関係者が法を犯すようでは、裁判そのものへの信頼が崩れる。三権分立の大きな柱である司法に、血が通いかつ冷徹な法律の番人の心構えを期待したい。