振りかざす
昔、自民党の有力代議士が、同じく同党の有力政治家が陰で自分の出自を理由に総理総裁の資格なしとケチを付けられたことに立腹して、仲間の面前で当該代議士をそのことをもって痛罵したという話を何かで読んだ。真偽のほどは知らない。マスコミを通じて知る両氏のイメージからして在り得そうな話ではある。
最近女性の社会進出に関して議論が多い。まさか現代において「あの方は女性だからトップの資格がない」などと言う人は居ないと思うけれど、あれば論外で、逆に被害妄想で自分が女であるから出世の道が閉ざされているとか思っている人は居るかも知れない。自身の野心を遂げるために「女性」を武器に不当な扱いを主張する向きがあるように感じ、それを「振りかざす」と表現する。
一方、いろんな所で女性枠があったりするが、民間組織がその発展の営業上そうすることは勝手だけれど、兎に角数値目標で代議士数、大臣数に始まり、企業の管理職や重役の椅子まで割り振る考え方はおかしな話だ。女性のセンスが企業戦略上必要だと思う企業はとっくに女性を登用している。女性割合の少ない政党が遅れているなどの論もナンセンスである。オリンピックに男女別があるから女性も金メダルが獲れる。但し、男性の新体操やシンクロは見たくもないので、ここの金メダルは女性枠。囲碁・将棋でも未だ同じ土俵で女性がトップになったことはない。近い将来あったとしてもごく少数に留まるであろう。しかしそれらのことは、体力と頭脳構造や趣向の男女差によるもので、絶対的な優劣を論じるものでは当然にない。女性には男性には出来ないこと、優れることも一杯ある。すべてのところで男女が競い合う必要などないと言いたいだけだ。
職業には向き不向きがある。向き不向きは当然個人差が大きいが、やはり男女差もある。病院に入院した時に、男女を問わず患者にとって看護師さんは女性の方が良いに決まっている。旅館の女将も男では勤まらない。保育園の保母さんや幼稚園の教諭は女性が圧倒的に多いけれど、確かにそれらは女性向きの職業である。男女差による向き不向きは多くの職業にあるのではないか。かといって絶対的なものでないことは、看護婦を看護師と言い換えた如くである。向き不向きと言って、0対100の世界では当然にないし、単にイメージからくる思い込みもあるからも知れない。昔からの習慣的にそうなっていて、悪習の類だと考える人も居るかもしれないが、逆に長年に亘って落ち着くところに落ち着いているとも言える。
例えば政治家は女性が比較的少ないが、女性の中にも政治家として優れた人は当然に居る。ただ、その割合が男性のそれより遥かに少ないのは、何も社会的な制約のためだけではないと思われる。職業として向き不向きの問題だと思う。一般に感情量が論理性を覆い尽くす人は、国家の命運を左右するための冷徹な決断が必要な職業には向かない。
一般企業の経営者として活躍する女性も多いことだけれど、管理職や重役の割合を男女同程度にしなくては、これからの世の中やっていけないという論理には、女性の弱い者を装った「振りかざし」が透けて見える。
統計の世界では確率を重視する。男女の数はほとんど同じだけれど、それでは女性の中で大企業などでの総合職のキャリアとして活躍したいと思う人がどの程度数あり、その能力を兼ね備えた人が幾人いるのか。その中で実際に企業の幹部がどれほど居るかの割合で議論する必要がある。ここで能力とは、ペーパーテストで判定し得る知識量だけでは当然にない。
女性が溌剌と活躍できる社会は確かに優れた社会であり、そのための環境整備は今後とも行政の責務だと思う。しかし、それは自身の適性の上に成り立つ話で、一部の声高な女性に引きずられて、多くの女性が心ならずも男性と同じような人生を送る必要はない。
昔、自民党の有力代議士が、同じく同党の有力政治家が陰で自分の出自を理由に総理総裁の資格なしとケチを付けられたことに立腹して、仲間の面前で当該代議士をそのことをもって痛罵したという話を何かで読んだ。真偽のほどは知らない。マスコミを通じて知る両氏のイメージからして在り得そうな話ではある。
最近女性の社会進出に関して議論が多い。まさか現代において「あの方は女性だからトップの資格がない」などと言う人は居ないと思うけれど、あれば論外で、逆に被害妄想で自分が女であるから出世の道が閉ざされているとか思っている人は居るかも知れない。自身の野心を遂げるために「女性」を武器に不当な扱いを主張する向きがあるように感じ、それを「振りかざす」と表現する。
一方、いろんな所で女性枠があったりするが、民間組織がその発展の営業上そうすることは勝手だけれど、兎に角数値目標で代議士数、大臣数に始まり、企業の管理職や重役の椅子まで割り振る考え方はおかしな話だ。女性のセンスが企業戦略上必要だと思う企業はとっくに女性を登用している。女性割合の少ない政党が遅れているなどの論もナンセンスである。オリンピックに男女別があるから女性も金メダルが獲れる。但し、男性の新体操やシンクロは見たくもないので、ここの金メダルは女性枠。囲碁・将棋でも未だ同じ土俵で女性がトップになったことはない。近い将来あったとしてもごく少数に留まるであろう。しかしそれらのことは、体力と頭脳構造や趣向の男女差によるもので、絶対的な優劣を論じるものでは当然にない。女性には男性には出来ないこと、優れることも一杯ある。すべてのところで男女が競い合う必要などないと言いたいだけだ。
職業には向き不向きがある。向き不向きは当然個人差が大きいが、やはり男女差もある。病院に入院した時に、男女を問わず患者にとって看護師さんは女性の方が良いに決まっている。旅館の女将も男では勤まらない。保育園の保母さんや幼稚園の教諭は女性が圧倒的に多いけれど、確かにそれらは女性向きの職業である。男女差による向き不向きは多くの職業にあるのではないか。かといって絶対的なものでないことは、看護婦を看護師と言い換えた如くである。向き不向きと言って、0対100の世界では当然にないし、単にイメージからくる思い込みもあるからも知れない。昔からの習慣的にそうなっていて、悪習の類だと考える人も居るかもしれないが、逆に長年に亘って落ち着くところに落ち着いているとも言える。
例えば政治家は女性が比較的少ないが、女性の中にも政治家として優れた人は当然に居る。ただ、その割合が男性のそれより遥かに少ないのは、何も社会的な制約のためだけではないと思われる。職業として向き不向きの問題だと思う。一般に感情量が論理性を覆い尽くす人は、国家の命運を左右するための冷徹な決断が必要な職業には向かない。
一般企業の経営者として活躍する女性も多いことだけれど、管理職や重役の割合を男女同程度にしなくては、これからの世の中やっていけないという論理には、女性の弱い者を装った「振りかざし」が透けて見える。
統計の世界では確率を重視する。男女の数はほとんど同じだけれど、それでは女性の中で大企業などでの総合職のキャリアとして活躍したいと思う人がどの程度数あり、その能力を兼ね備えた人が幾人いるのか。その中で実際に企業の幹部がどれほど居るかの割合で議論する必要がある。ここで能力とは、ペーパーテストで判定し得る知識量だけでは当然にない。
女性が溌剌と活躍できる社会は確かに優れた社会であり、そのための環境整備は今後とも行政の責務だと思う。しかし、それは自身の適性の上に成り立つ話で、一部の声高な女性に引きずられて、多くの女性が心ならずも男性と同じような人生を送る必要はない。