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代表的日本人「柴五郎」 第8回

2023年10月22日 | ブログ
清国の凋落

 『明治十七年、陸軍士官学校を卒業後、中尉にまで昇進した五郎は「渡清を準備せよ」との内示を受け、福建省の福州へ派遣されることになった。山川大蔵や野田裕通など恩人が送別の宴を開いてくれた。

 この頃、ハーバード大学に留学していた四兄の四朗が帰国し、その経済学に関する知識が谷千城農商務大臣の目に留まりその秘書官に採用されていた。・・・

 山紫水明の福州で二年半ほど、北京語に慣れ英語を学び、諜報活動を隠すための写真館を開いていた五郎は、北京に移り、将来、清国と戦争になった場合に必要な、北京及び周辺の精密な地図を作った。

 帰国して陸軍士官学校で兵器学の教官をしていた五郎は、明治二十四年旧土佐藩士の娘くまえと結婚した。五郎三十歳、くまえ十八歳だった。優しいくまえとの新婚生活に五郎は何十年も忘れていた心の安らぎを覚えた。翌明治二十五年には支那の専門家として参謀本部第二部支那課に戻るなど順風満帆だった。ところがその後、長女みつを産んだくまえは産後の肥立ちが悪く、急逝してしまった。

 悲嘆にくれている暇はなかった。陸軍一の切れ者川上操六参謀次長に随行して清国と韓国の視察に行くことになったのである。川上操六中将は、明治二十年に乃木希典少将や福島安正大尉とともにドイツへ留学し、欧州一のドイツ兵制を学んだ後、参謀次長として日本陸軍の近代化に取り組み、陸軍参謀本部育ての親とも言われる大物だった。

 当時、清国は1840~42年のアヘン戦争と1856~60年のアロー戦争で香港と九龍半島南部をイギリスに奪われ、1884~85年の清仏戦争ではベトナムをフランスに奪われ、ロシアには満州の北から沿海州までの膨大な地域を掠め取られていた。貪欲あこぎなヨーロッパ列強に次々に戦争を仕掛けられ、すべてに惨敗し領土を蚕食されてきた弱兵しかない清国が、かつての属領朝鮮に目をつけ、欧米勢が興味を示さないのをいいことに再び属領にしようと親清政権を作った。日本は、いずれやってくるロシアの南下から本土を守る砦として、朝鮮を支配下に置くことが不可欠と考え、清国の動きに神経を尖らせた。日本の思惑に感づいた清国は明治十九年、丁汝昌提督率いる自慢の北洋艦隊に、友好という名のもと、恫喝する目的で日本各地を訪問させた。長崎では日本の許可なく五百人の水兵たちが略奪、婦女暴行などの乱暴狼藉を働いたが、我が国は北洋艦隊の主力艦「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦闘艦を保有していなかったため、抗議すらできなかった。

 明治二十六年、五郎が川上参謀次長と行った三か月にわたる清韓視察の結果、「日本軍は清国に規模でははるかに下回るものの、鍛錬度や愛国心ではるかに上回り圧勝できる」という結論に達した。翌年からの日清戦争はその通りとなった。

 帰国した五郎は参謀本部第二部(情報)に戻り、中佐に昇進した。情報マンとは世界中を歩くのが仕事だが五郎も例外ではなく、日本で寛ろぐ間もなく半年後の1900年(明治三十三年)には清国公使館附けとして北京に赴任した。「柴中佐」が世界にとどろくことになる大事件が起こるとは夢想だにせず、懐かしい北京へ向かった。』

本稿『 』は引き続き、文藝春秋10月号「私の代表的日本人」藤原正彦先生の著作からの引用です。





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