失われた20年の要因
わが国の戦後の品質管理の歴史を振り返ると、当然ながらこの国の経済史を抜きに考えることはできない。
戦後の品質管理は、1949年米国GHQによる米軍規格(MIL-STDZ1)を学ぶところから始まるとなっているが、これはその前年に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しており、半島はすでにきな臭くなっていたのであろう。半島で戦乱が起これば、米軍は日本を兵站基地にする必要があると考えたのではないか。
1950年6月北朝鮮軍は突如ソウルに侵攻3日で制圧したという。戦乱は3年1カ月続き400万人の人命が失われた。韓国は米軍が支援し、北朝鮮は中共(現、中華人民共和国)が兵を送った。そして韓国のほぼ半分の工業施設が破壊された。朴大統領はわが国に対して1000年の恨みとか言うけれど、朝鮮戦争における中共の厄害の方がはるかに大きく、近い出来事ではないのか。
隣国の不幸な戦争ではあったが、わが国にとっては膨大な特需を得て、国内の消費景気と投資景気が誘発され、その後の高度経済成長につながる。そして、デミング博士やジュラン博士の来日による品質管理セミナーは、製品品質の飛躍的な向上のきっかけとなった。
昭和30年年代(1955年~)から昭和40年代後半(~1973年)にかけて、わが国資本主義史上で空前の高度経済成長が実現した。1960年代にはもの作りにおける工程管理の充実とQCサークル活動の成果などにもよって、日本の製品品質は急速に良いものになっていったと聞く。
しかし、この時代(1960年代後半から1970年代)の米国ではシリコンバレーにおいてシリコンラッシュと言われる起業家を英雄視する独特の文化が醸成されていた。「コンピュータの能力は18カ月ごとに指数関数的に向上する」というムーアの法則が世に出たのは1965年のこと*1)である。情報技術において、米国はわが国のはるか先を行っていた。その後のわが国の失われた20年が始まる1990年代に突然彼らの反攻が始まったわけではないのだ。
また最近、こんな記事をネットで拾った。『松下幸之助さんは聞き覚えがあっても、盛田昭夫や井深大、土光敏夫、石田退三、永野重雄といった偉大な経営者のことを、今の若い人たちはあまり知らないでしょう。こうした優れた経営者は、今はほとんどいなくなってしまいました。
当時の昭和の経営者には、人を追いかけ、国を良くし、国民の生活を良くする、社員を大事にするという考え方や志がありました。ところが、平成に入ってバブルが弾けてデフレ状態が続く中で、かつての日本式経営ではデフレ脱却はできない、企業経営はできないと、欧米式・アメリカ式の経営が導入されました。その代表的な手法がリストラクチャリングや成果主義、能力主義だったのです。
そのアメリカ式経営は、「企業の繁栄」もっと言うならば「経営者の繁栄」が最優先されました。社長は経営者としての任期中にいかに利益を上げるかを追求します。株主中心主義ですから、当然利益を上げなければ株主総会で追及されてしまう。そのため、何が何でも利益を上げることが優先され、社員、すなわち「人」が犠牲になっていったのです。利益を上げるために一番簡単なのは、固定費と人件費の削減。つまり利益を確保するためには、首切りや給料カットが一番早かったのです。
平成の経営者たちは「日本式経営は時代に合わない」ということで、十分考えもせずにこのアメリカ式経営に飛び付きました。その結果、逆に大きな痛手を被ってしまったのです。』これは、PHP研究所前社長の江口克彦氏の弁である。
*1)マイケル・マローン著、土方奈美訳「インテル」(世界で最も重要な会社の産業史)、2015年9月(株)文藝春秋刊から引用
わが国の戦後の品質管理の歴史を振り返ると、当然ながらこの国の経済史を抜きに考えることはできない。
戦後の品質管理は、1949年米国GHQによる米軍規格(MIL-STDZ1)を学ぶところから始まるとなっているが、これはその前年に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しており、半島はすでにきな臭くなっていたのであろう。半島で戦乱が起これば、米軍は日本を兵站基地にする必要があると考えたのではないか。
1950年6月北朝鮮軍は突如ソウルに侵攻3日で制圧したという。戦乱は3年1カ月続き400万人の人命が失われた。韓国は米軍が支援し、北朝鮮は中共(現、中華人民共和国)が兵を送った。そして韓国のほぼ半分の工業施設が破壊された。朴大統領はわが国に対して1000年の恨みとか言うけれど、朝鮮戦争における中共の厄害の方がはるかに大きく、近い出来事ではないのか。
隣国の不幸な戦争ではあったが、わが国にとっては膨大な特需を得て、国内の消費景気と投資景気が誘発され、その後の高度経済成長につながる。そして、デミング博士やジュラン博士の来日による品質管理セミナーは、製品品質の飛躍的な向上のきっかけとなった。
昭和30年年代(1955年~)から昭和40年代後半(~1973年)にかけて、わが国資本主義史上で空前の高度経済成長が実現した。1960年代にはもの作りにおける工程管理の充実とQCサークル活動の成果などにもよって、日本の製品品質は急速に良いものになっていったと聞く。
しかし、この時代(1960年代後半から1970年代)の米国ではシリコンバレーにおいてシリコンラッシュと言われる起業家を英雄視する独特の文化が醸成されていた。「コンピュータの能力は18カ月ごとに指数関数的に向上する」というムーアの法則が世に出たのは1965年のこと*1)である。情報技術において、米国はわが国のはるか先を行っていた。その後のわが国の失われた20年が始まる1990年代に突然彼らの反攻が始まったわけではないのだ。
また最近、こんな記事をネットで拾った。『松下幸之助さんは聞き覚えがあっても、盛田昭夫や井深大、土光敏夫、石田退三、永野重雄といった偉大な経営者のことを、今の若い人たちはあまり知らないでしょう。こうした優れた経営者は、今はほとんどいなくなってしまいました。
当時の昭和の経営者には、人を追いかけ、国を良くし、国民の生活を良くする、社員を大事にするという考え方や志がありました。ところが、平成に入ってバブルが弾けてデフレ状態が続く中で、かつての日本式経営ではデフレ脱却はできない、企業経営はできないと、欧米式・アメリカ式の経営が導入されました。その代表的な手法がリストラクチャリングや成果主義、能力主義だったのです。
そのアメリカ式経営は、「企業の繁栄」もっと言うならば「経営者の繁栄」が最優先されました。社長は経営者としての任期中にいかに利益を上げるかを追求します。株主中心主義ですから、当然利益を上げなければ株主総会で追及されてしまう。そのため、何が何でも利益を上げることが優先され、社員、すなわち「人」が犠牲になっていったのです。利益を上げるために一番簡単なのは、固定費と人件費の削減。つまり利益を確保するためには、首切りや給料カットが一番早かったのです。
平成の経営者たちは「日本式経営は時代に合わない」ということで、十分考えもせずにこのアメリカ式経営に飛び付きました。その結果、逆に大きな痛手を被ってしまったのです。』これは、PHP研究所前社長の江口克彦氏の弁である。
*1)マイケル・マローン著、土方奈美訳「インテル」(世界で最も重要な会社の産業史)、2015年9月(株)文藝春秋刊から引用