タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
きみのためのバラ
「きみのためのバラ」(池澤夏樹 新潮社 2007)
短編集。
収録作は以下。
「都市生活」
「レギャンの花嫁」
「連夜」
「レシタションのはじまり」
「ヘルシンキ」
「人生の広場」
「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」
「きみのためのバラ」
「レギャンの花嫁」は「花を運ぶ妹」(文春文庫 2003)の番外編的作品。
作品の舞台がバラエティに富んでいる。
東京、バリ、沖縄、ブラジル、ヘルシンキ、ミュンヘン、パリ、カナダ、メキシコ…。
だれかがだれかに語るという形式の話が多い。
1人称の語り口調だったり、ほとんど会話で話が進んだり。
3人称でも、重要なことは、やはり会話で語られたり。
とても対話的。
そのためか、登場人物たちは自分たちのおかれた状況をよく理解し、的確に話すことができる。
全員が、広角レンズでものを見ているよう。
そして全員が、起こったことに対し折り目正しく応じようとする。
この姿勢が好ましい。
どの作品もディティールの押さえが効いている。
「都市生活」の冒頭、空港を右往左往するさまや、「連夜」での病院内のトラフィックという仕事、「人生の広場」における、自動午砲の再現実験。
固有名詞を生かし、プロセスを手際よく書く。
印象的な描写も多々。
「ヘルシンキ」で、ホテルのロビーでけんけんぱっをして遊んでいる少女の描写はこんなふうだ。
「人の少ないロビーで少女は一人でその遊びに没頭していた。その姿には外の者が立ち入る隙がなかった。彼女を包んで世界は閉じていた。彼女は完璧だった。」
「レシタションのはじまり」だけが、3人称による説話形式の話。
「レシタション」とは、スペイン語やポルトガル語で「お唱え」という意味だそう。
ブラジルの奥地アマゾナスの小さな町に端を発したできごとが、やがて世界を覆いつくす。
綺譚に倫理をふりかけると寓話になるのだとしたら、寓話といえる作品だろう。
全体をつらぬくテーマはなんだろうと考えていたら、「ハワーズ・エンド」(E・M・フォスター 集英社 1992)の冒頭に掲げられた、「ただ結びつけることさえできれば…」を思い出した。
この本の作品は、読んでいるときはどれも楽しく読めるけれど、たわいないといえばたわいない。
品がいいといえるし、、ダイナミックさに欠けているともいえる。
そう感じるのは、物語の最初と最後で、登場人物の感情が大きく変化しているということがないからだ。
でも、読み終わると、身のまわりの空気がきれいになったような感じがする。
この読後感は得がたい。
追記。
「ハワーズ・エンド」を引っぱりだして、エピグラフをたしかめてみた。
じっさいは、「ただ結びつけることさえすれば……」、というもの。
まちがえておぼえていたなあ。
このエピグラフ、原文はたった2語、”ONLY CONNECT……”だと解説にある。
この解説を書いているのが、池澤夏樹さん。
すっかり忘れていたけれど、それで「ハワーズ・エンド」のことを思い出したのかもしれない。
短編集。
収録作は以下。
「都市生活」
「レギャンの花嫁」
「連夜」
「レシタションのはじまり」
「ヘルシンキ」
「人生の広場」
「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」
「きみのためのバラ」
「レギャンの花嫁」は「花を運ぶ妹」(文春文庫 2003)の番外編的作品。
作品の舞台がバラエティに富んでいる。
東京、バリ、沖縄、ブラジル、ヘルシンキ、ミュンヘン、パリ、カナダ、メキシコ…。
だれかがだれかに語るという形式の話が多い。
1人称の語り口調だったり、ほとんど会話で話が進んだり。
3人称でも、重要なことは、やはり会話で語られたり。
とても対話的。
そのためか、登場人物たちは自分たちのおかれた状況をよく理解し、的確に話すことができる。
全員が、広角レンズでものを見ているよう。
そして全員が、起こったことに対し折り目正しく応じようとする。
この姿勢が好ましい。
どの作品もディティールの押さえが効いている。
「都市生活」の冒頭、空港を右往左往するさまや、「連夜」での病院内のトラフィックという仕事、「人生の広場」における、自動午砲の再現実験。
固有名詞を生かし、プロセスを手際よく書く。
印象的な描写も多々。
「ヘルシンキ」で、ホテルのロビーでけんけんぱっをして遊んでいる少女の描写はこんなふうだ。
「人の少ないロビーで少女は一人でその遊びに没頭していた。その姿には外の者が立ち入る隙がなかった。彼女を包んで世界は閉じていた。彼女は完璧だった。」
「レシタションのはじまり」だけが、3人称による説話形式の話。
「レシタション」とは、スペイン語やポルトガル語で「お唱え」という意味だそう。
ブラジルの奥地アマゾナスの小さな町に端を発したできごとが、やがて世界を覆いつくす。
綺譚に倫理をふりかけると寓話になるのだとしたら、寓話といえる作品だろう。
全体をつらぬくテーマはなんだろうと考えていたら、「ハワーズ・エンド」(E・M・フォスター 集英社 1992)の冒頭に掲げられた、「ただ結びつけることさえできれば…」を思い出した。
この本の作品は、読んでいるときはどれも楽しく読めるけれど、たわいないといえばたわいない。
品がいいといえるし、、ダイナミックさに欠けているともいえる。
そう感じるのは、物語の最初と最後で、登場人物の感情が大きく変化しているということがないからだ。
でも、読み終わると、身のまわりの空気がきれいになったような感じがする。
この読後感は得がたい。
追記。
「ハワーズ・エンド」を引っぱりだして、エピグラフをたしかめてみた。
じっさいは、「ただ結びつけることさえすれば……」、というもの。
まちがえておぼえていたなあ。
このエピグラフ、原文はたった2語、”ONLY CONNECT……”だと解説にある。
この解説を書いているのが、池澤夏樹さん。
すっかり忘れていたけれど、それで「ハワーズ・エンド」のことを思い出したのかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )