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三人のおまわりさん

「三人のおまわりさん」(ウィリアム=ペン=デュポア 学習研究社 1965)

訳は渡辺茂男。
スマートな絵は柳原良平。

本書は児童書
1795年、フランス漁船のファーブ船長は、無人島を発見した。
その島は、土地は肥え、魚もたくさん。
船長をはじめとする乗組員たちは大急ぎで移住。
それから、現在にいたるまで、島の暮らしは平和そのもの。

さて、この島には3人のおまわりさんがいた。
島があんまり平和なので、自分たちの制服のデザインを仕事のようにしていたのだけれど、そこに事件が勃発。
漁師が仕掛けていた網が、何者かにより盗まれてしまったのだ。

島の住民は、みんな幸せそのものだし、いまさら魚などほしがる者などだれもいない。
犯人は、島の住民ではなく、ひょっとすると海の怪物かもしれない。
すると、翌日もまた被害が。
おまわりさんの活躍をみてみたい住民たちは、内心喜びながら、怒ったふりをする。
かくして、3人のおまわりさんは調査に乗りだすのだが…。

3人のおまわりさんのところには、ボッツフォードという6才になる黒人の男の子がいる。
ボッツフォードは、おまわりさんの制服のおさがりをもらい、かわりに、おまわりさんたちの自転車の世話をしている。
このボッツフォードはとてもかしこい。
ボッツフォードがなにかいうと、おまわりさんたちはボッツフォードを自転車の世話をさせにいかせたのち、その意見を自分たちの意見のように話す。

3人のおまわりさんたちが、それぞれの性格に応じて意見をならべてから、ボッツフォードが的を得たことをいうというのが毎度のパターン。
このくり返しが楽しい。

物語は、犯人を捕まえるだけでは終わらず、裁判にまで発展。
このあたりが、欧米の児童書らしいところといえるだろうか。
日本の児童書よりも、欧米のそれのほうが、会議や裁判を書くのが好きなような気がする。
ともかく、裁判で、ボッツフォードは弁護人として大活躍する。

じつに、のんきかつ楽しい読み物。
物語の上品さには、柳原良平さんの絵もひと役買っているように思う。
さすがにいまはもう手に入らない本だけれど、手元にある本は1988年の43刷。
こういう本に人気があったのは、喜ばしいことだ。

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時間をまきもどせ!

「時間をまきもどせ!」(ナンシー・エチメンディ 徳間書店 2008)

訳は吉上恭太。
絵は杉田比呂美。

この本は児童書。
中学生の〈ぼく〉、ギブ・フィニーの1人称。
ある日、ギブは森で 不思議な老人に出会う。
老人は、「きみにあるものを渡しにきた」と、ギブに電卓のようなものを手渡す。
それは〈パワー・オブ・アン〉という、時間をもどし、やり直すことができる機械。
ところが、帰り道、転んだ拍子にギブは〈パワー・オブ・アン〉を失くしてしまう。
その後、妹のロキシーと親友のアッシュとでかけた移動遊園地で、思いもかけなかった惨事が。
時間をもどそうと、ギブは森へ〈パワー・オブ・アン〉をさがしにいく。

というわけで、本書はタイム・ファンタジー。
何百年も時間をうごいたりするわけではなく、おなじことを何度もくり返す「くり返し型」だ。

「くり返し型」は、事前にいろいろ説明しなければならない。
そのため、面白くなるまで手間がかかる。
まず、ギブとアッシュが移動遊園地にいっているあいだ、家でロキシーのお守りをしてくれるはずだった、同級生のレイニーとのいさかいについて触れなくてはいけない。
それから、不思議なおじいさんから機械を手渡されなくてはいけないし、6歳のロキシーが大のイヌ好きであることも説明しなければいけない。
問題の惨事が起きるまで、半分近くかかる。

後半の展開はスリリング。
ただ、スリリングにしようとしすぎているきらいがある。
登場人物のだれもが、ギブのすることのジャマをして、話を盛り上げるのだけれど、ジャマをするために登場人物の性格が不安定になってしまっているように感じる。

と、いささか辛めの評価をしたけれど、よくまとまっているし、ラストもみごと。
作者は本書と“Bigger Than Death”でブラム・ストーカー賞児童部門を受賞したそう。
賞をもらっているくらいの作品だから、こちらが細かいことを気にしすぎているだけかも。
それにしても、ブラム・ストーカー賞に児童部門があるなんて知らなかった。
ブラム・ストーカーが聞いたらびっくりするんじゃないだろうか。

あと、この本はさし絵のつかいかたが面白かった。
くり返しが起きる部分で、最初につかわれたものと同じさし絵がつかわれているのだ。
タイム・ファンタジーものの映像作品ではよくある手法だけれど、さし絵でおなじことをやっているものははじめてみた。
これは編集者の手柄かもしれない。

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レムラインさんの超能力

「レムラインさんの超能力」(T・ミヒェルス 岩波書店 1980)

訳は上田真而子。
岩波少年文庫の一冊。

ドイツの児童書。
ドイツらしいというべきか、主人公はひとりもののおじさん。
ある事務所で帳簿係としてはたらいているレムラインさん。
出勤途中、乗っていた市電がトラックとぶつかるという事故に遭遇。
さほどのけがではなかったのだけれど、この事故以来、壁を通り抜けられるように。

というわけで、これは「壁抜け男」の話。
マルセル・エーメの短篇「壁抜け男」にヒントを得て書かれたそうで、訳者あとがきによれば、原書にはエーメへの献辞があるとのこと。

「壁抜け男」(マルセル・エイメ 角川文庫 2000)は読んだことがある。
でも、「レムラインさん」を読んだあとまた読んでみたくなり、書棚から引っぱりだして読んでみた。
けっきょく面白くて、一冊ぜんぶ読み直してしまった。

さて、エーメの短篇では、主人公の壁抜け男は、壁を抜けて人妻のところに忍んでいったりするのだけれど、児童書の主人公であるレムラインさんはそんなことはしない。
超能力を得たものの、レムラインさんはいつもと変わらない暮らしを続ける。

ところが、ある日、玄関のまえに捨て子が。
夜中、具合が悪くなった赤ちゃんのために、レムラインさんは壁を抜けて薬局に侵入。
その後、捨て子は自分で育てることに。
テオと名づけたその子をあやすために、壁抜けの術を披露してよろこばせたりする。

テオは大きくなり学校へ。
そこで友人たちにうっかり父親の超能力を自慢してしまう。
ここから、テオの友人たちとレムラインさんの交流がはじまる。
それからまあいろいろあって、レムラインさんはエーメの主人公同様、銀行に侵入。
お金を無断で拝借し、用事がすんでまた返しにいったところ、警備員にみつかり牢屋に。

レムラインさんは牢屋からもすぐ抜け出せる。
が、レムラインさんは自分の超能力にうんざりしていた。
たまたま、おなじ部屋の囚人モーントシャインが超能力を消す薬のつくりかたを知っていたので、それを教わる。
テオと仲間たちは薬をつくるために奔走する。

薬で超能力がつかえなくなるところも、エーメと一緒。
ただ、大きくちがうのが、男の子たちとの交流があるところと、レムラインさんの実直な性格。
レムラインさんは牢屋から逃げ出さず、真面目に裁判にかけられるのだ。

それから、すぐれた児童書すべてにいえることだけれど、ストーリーが停滞することがまったくない。
傑作というわけではないけれど、愛すべき佳品といえる作品。

おなじアイデアでも、書きようによっては子どもむけになったり、大人むけになったりする。
エーメの短篇とくらべるとそれがよくわかるところも面白かった。


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百まいのドレス

「百まいのドレス」(エレナー・エスティス 岩波書店 2006)

絵はルイス・スロボドキン。
訳は石井桃子。

児童書。
絵と物語がじつによくあっている。
もとは、「百まいのきもの」というタイトルで1954年に出版された本。
それを、改題改訳したのが本書。

よく思うのだけれど、なにか面白い本を読みたいと思ったら、児童文学の古典を読むのがいちばん確実だと思う。
児童書の世界には、傑作か駄作か2種類しかない。
そして、駄作は淘汰されるから、傑作しか残らない。
自分とは趣味があわないなと思う本はあるかもしれないけれど、読んで失望することはまずない。
この本も児童文学の古典。
やはりとても面白かった。

さて、ストーリー。
話は、ワンダ・ペトロンスキーが教室にいないということからはじまる。
ワンダはとてもおとなしく、めったに口もきかない女の子。

ワンダはクラスの女の子から、からかいの対象にされている。
きっかけは、ワンダが「ドレスを百まいもってる」といったため。
いつもおなじ服を着ているワンダが、ドレスを百まいもっているはずがない。
女の子たちは、毎日ワンダに「ドレスを何まいもっているの?」と訊き、ワンダはかたくなに「百まい」といいはる。

ワンダをからかうのに参加しているマデラインは、ほんとうはそんなことをしたくない。
でも、このドレスごっこを考えだした、いちばんの仲良しのペギーにつきあっている。

クライマックスは中盤に用意されている。
とても鮮やか。

後半は、ワンダをからかっていたマデラインの心情に焦点があてられる。
自責にかられるマデラインの心情を、子どもらしさを失わずに書く作者の筆はじつにみごと。
マデラインはいままでこれほど一生懸命に考えたことはないというほど考える。

そして、ラストにもうひとつ、小さなクライマックスが。
この本は、地味なクリスマスストーリーでもあるから、いまの季節にあっているかも。

巻末には訳者あとがき。
岩波少年文庫が創刊されたのは1950年。
1953年、それよりもっと年少むけの、「岩波の子どもの本」シリーズをスタートさせることに。
ところが戦後のことなので、訳すにしても本がない。
しかし、写真やバレエの評論家、光吉夏弥さんは、ヨーロッパやアメリカ人の家族が日本を引き上げていくときに残していった子どもの本を見逃さずに収集していた。
「百まいのきもの」も、光吉夏弥さんの蔵書にあった本のひとつだという。

この美しい訳者あとがきは、こんなふうにしめくくられている。
「新しく生まれ変わった『百まいのドレス』を、もうじき百歳の私から、若いみなさんに手渡すことができることを心からうれしく思っています」

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だれも寝てはならぬ

「だれも寝てはならぬ」(ダイヤモンド社 2006)

短編集。
収録作は以下。

「スター」 マリアン・カーリー 安次嶺佳子訳
「ぽた、ぽた、ぽた」 マロリー・ブラックマン 内藤文子訳
「アンダー・ザ・スキン」 セリア・リーズ  内藤文子訳
「珍品の館」 フィリップ・アーダー 橋本恵訳
「空の船」 ジェラルディン・マコーリアン 西本かおる訳
「動物園のふしぎな家具」 デボラ・ライト 内藤文子訳
「シーッ!」 ブライアン・パッテン 内藤文子訳
「ウサギのチャーリー」 ガース・ニクス 西本かおる訳
「ポッサムの真実」 ジェームズ・モロニー 安次嶺佳子訳
「影泥棒」 マーガレット・マーヒー 西本かおる訳
「はみだし者」 エヴァ・イボットソン 安次嶺佳子訳
「海をわたったカエルの話」 ディック・キング=スミス 西本かおる訳
「自伝のためのメモ」 モーリス・グライツマン 内藤文子訳
「チェリー・パイ」 ロス・アスキス 内藤文子訳
「カルロスへ」 マイケル・モーパーゴ 安次嶺佳子訳
「バブル・トラブル」 ロジャー・マクゴー 内藤文子訳
「モルモット・レース」 ジョージア・ビング 内藤文子訳

「シーッ!」、「チェリー・パイ」、「バブル・トラブル」は詩。
「モルモット・レース」はモルモットをつかったゲームの遊びかたを書いたもの。

この本、序文もあとがきもない。
なので、編集意図がよくわからない。
巻末に、チャリティに協賛している旨が記されていて、それで作品をあつめたのだとはわかるけれど、タイトルから怖い話をあつめたアンソロジーかと思うと、ぢがう。
中身はてんでんばらばら。

とはいえ、書き手たちは、皆そうそうたるひとたちばかり。
英語圏の作家の層の厚さを感じさせる。

さて、印象に残ったものは以下。

「スター」 マリアン・カーリー 安次嶺佳子訳
霊媒の能力をもった〈ぼく〉、ルークの1人称。
学校でエリンという女の子に声をかけられる。
エリンの家族は、グレイヘヴンの西にひろがる森で行方不明になってしまった。
とくに弟はまだ6歳。
遭難して一週間たつ、あなたの力を貸してほしい。

ルークはこの能力のため孤独を強いられている。
「君はぼくがこんな能力をもっていることを楽しんでいるとでも思ってるの?」
と、ルークはいうけれど、けっきょくはほだされて、ふたりは森へ。

巻末の著者紹介によれば、代表作は「ガーディアン・オブ・タイム」3部作(未訳)とのこと。
これは、ゴーストストーリー。
正直、ストーリーに新味があるわけではない。
しかし、それはもう抜群にうまい。
感動的なまでの、こなれっぷり。

オリジナリティというのは、不親切なところがあって、じつはそれは単に不親切なだけだったり、技術力がないだけだったりすることが多いのではないかと怪しまれる。
不親切な本を読むほど子どもはつきあいがよくないから、子どもむけの本はできるだけこなれていたほうがいいだろう。
作者はよくそれを果たしている。

「ウサギのチャーリー」 ガース・ニクス 西本かおる訳
空爆を受けている町が舞台。
11歳のアッバスと、その弟で6歳のヨシュア。
アッバスはベッドのヨシュアを起こす。
町の南側に巡航ミサイルが撃ちこまれている。
母さんは、きのうの空襲で大けがをして、どこかにはこばれていった。
父さんは1年半前に招集された。
だれも助けてはくれない。
ふたりは地下室にあるシェルターに逃げこむが、ミサイルが家のそばで爆発。
家がくずれ、生き埋めになってしまう。

ガース・ニクスは「ガブリエル」「ライラエル」「アブホーセン」の3部作の作者。
これもまた新味があるわけではないけれど、迫真力のある描写が素晴らしい。
それにしても、いろんな作品がおさめられている本だなあ。

「ポッサムの真実」 ジェームズ・モロニー 安次嶺佳子訳
〈ぼく〉の1人称で書かれた、ユーモラスな家族小説。
毎朝4時ごろ、屋根の上をポッサムが横切るようになり、パパはそれがいまいましくてならない。
ポッサムは、木から屋根にとびうつり、屋根を横切って、べつの木にとびうつっているらしい。
パパは、ポッサムが屋根にとびうつれないように、〈ぼく〉に手伝わせゴムの大木の枝を切る。
が、翌朝、家中にトッカーンと大きな音が。
ポッサムは、もっと高い枝から飛び降りたのだ。
そこで、こんどは、屋根を横切ったポッサムがとびうつっていると思われるモクレンを切る。
翌朝、〈ぼく〉はポッサムの落下音を耳にする。
だが、それからポッサムが天井裏に住み着きはじめ…。

ジェームズ・モロニーの作品は日本語に訳されていないよう。
オーストラリアの作家は紹介されていないひとが多いのだろうか。
とにかく、ポッサムが屋根を横切るというアイデアが秀逸。
身勝手なパパに、権威のあるママ、無邪気な弟というキャラクターも定番ながらも魅力的。
それに、この作品は語り口が楽しい。
〈ぼく〉はポッサムの落下音を聞いてこう思う。

「たぶん、年をとったらポッサムは、仲間とまあるく輪になってすわり、一生で墜落した経験について、だれがいちばんみっともない落ち方をしたか自慢しあうんじゃないか」

「影泥棒」 マーガレット・マーヒー 西本かおる訳
オリバーは母さんとふたり暮らし。
母さんは、バグパイプを吹くのが趣味だが、おそろしく下手。
ふたりは町はずれにある家に引越しをする。
いくらバグパイプを吹いても文句がこないし、となりは幽霊屋敷だから家賃も安い。
しかし、引っ越した当日、オリバーの前に幽霊があらわれる。

マーガレット・マーヒーはニュージーランドの作家。
カーネギー賞をとったためか(著者紹介によれば、外国人作家ではじめて)、日本でもたくさん訳出されている。
この作品は、ユーモラスなゴーストストーリー。
今回、はじめてマーガレット・マーヒーの作品を読んだけれど、猛烈にうまい。
勢いがあり、最後まで読ませ、オチは気が利いている。
ほかの作品も読んでみなくてはいけないか。

あとは駆け足で。
「はみだし者」 エヴァ・イボットソン 安次嶺佳子訳
取替え子の話。
会話でではなく、地の文でストーリーを進行させる、本書中ではめずらしい作品で印象に残った。

「海をわたったカエルの話」 ディック・キング=スミス 西本かおる訳
イギリス生まれのカエルが、フランス人はカエル好きだと聞き、ドーヴァー海峡を渡るが、フランス人はカエルを食べるのが好きだと知り、イギリスに舞いもどるというホラ話。

「自伝のためのメモ」 モーリス・グライツマン 内藤文子訳
作家をしている〈わたし〉の日々をナンセンスにえがいた作品。

バカバカしい話が好きなので、好きな作品をえらぶとそういうものばかりになってしまう。

編集意図のわからないものは評価しにくい。
でも、ある水準以上の作品がこれだけあつまっているのはすごいことだ。


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伴走者たち

「伴走者たち」(星野恭子 大日本図書 2008)

副題は「障害のあるランナーをささえる」。
「ドキュメント・ユニバーサル・デザイン」というシリーズの一冊。
児童書のノンフィクション。

「伴走者」とは伴(とも)に走るひとのこと。
副題どおり、障害のあるランナーとともに走るひとたちが紹介されている。

まず紹介されるのは、視覚障害者のかたとともに走るひとたち。
伴走するためには、それなりの知識や技術がないといけない。
そのため、全国各地で伴走教室が開かれているのだそう。

そこでは、アイマスクをして視覚障害者とおなじ体験をしたり、視覚障害者にも、「全盲」のひとや「視野狭窄」のひとなど、いろんなひとがいることを学んだりする。
また、基本的な介助の方法も。
「話しかけるときは、かならず相手の名前をよんでから。自分に話しかけられたんだなと、気づいてもらえるように」
「階段や段差は、直前で一時停止して、「上り階段」「下り階段」などと声をかけてから歩きだす」
などなど。

で、本題の伴走。
ランナーと伴走者は伴走ロープを握りあって走る。
「選手と伴走者は50センチメートル以上離れてはならない」というルールがあるので、1メートルほどのロープを輪っかにして、ふたりがそれぞれの端をにぎるのが一般的。

走るときは、二人三脚のかたちで。
こうすると、おたがい走りやすくなる。

腕は走るとき、からだの中心を通るから、ただ走るとたがいにロープを引っ張りあうことになってしまう。
そこで、伴走者は腕を外側に振り、ランナーを走りやすくさせる。
こうやって走りながら、コースの状況を言葉でガイド。
フルマラソンであれば、そのあいだずっとこれをする。
なんだか途方もない。

よく「相手の身になって考える」ということがいわれたりするけれど、ここでは相手の身になるということが、非常に具体的に扱われている。
いや、そもそも、相手の身になるということは具体的なことなのだ。

ランナーも伴走者も人間だから、やはりトラブルは起こる。
仕事帰り一緒に走ろうということになり、ランナーがいってみると、相手は仕事の都合でこられなくなった、なんてことが起こる。
そのランナーは、会社の同僚に送ってもらったので、知らない場所で立ち往生するはめになってしまった。

また、レース中体調が悪く、「リタイアします」といったら、伴走者が怒って帰ってしまった、なども。
健常者にとってはわずかな迷惑だけれど、視覚障害者にとっては一大事だ。

それから、これは人情だろうけれど、自分が走れるひとは、伴走者というよりコーチになってしまいがちだという。
だから、この本で紹介されている、《伴走の神様》鈴木さんはこういっている。

「わたしはあまり走れません、という人ほど、いい伴奏者になることが多いんです」

上記で紹介した伴走の教えは、みなこの鈴木さんのことば。
鈴木さんによれば、理想の伴走は、ランナーがロープの存在を忘れることだという。
さらに、伴走者のいちばんの喜びは、相手にランニング・ハイの状態を感じてもらうことだそう。
目が見えなければ歩くのだって大変だろうに、そんなことまで起こる。
ただただ驚くばかりだ。

さて、ランナーにもいろんなひとがいる。
ウォーキングをしたいひとから、レースにでたいひと、パラリンピックをめざすひとまでさまざま。
だから、伴走者にもいろいろいていい。
そして、ランナーのいろいろについても、この本ではちゃんと紹介されている。

「伴走者がいないから練習ができない、というなら、スポーツはやめるべきだ。くふうすれば、一人でもできる練習はいくらでもある」

と、いうランナーもいる。
また、はじめて伴走クラブに参加し、ウォーキングした喜びをこう語るひとも。

「失明してから、こんなふうに自由に歩くなんて無理だと思っていた。ロープを使って伴走者と歩くことができるなんて、新発見だった」

…少し詳しく紹介しすぎたかもしれない。
でも、じつはまだ、この本の魅力を半分もつたえていない。

伴走は、視覚障害者だけにおこなわれるものではない。
知的障害者との伴走もある(この本で紹介されていたひとはホノルルマラソンを完走したという。すごい!)。
さらに、練習会で、伴走者とランナーがちゃんと組み合わさるように手配をするひとや、スポーツ用の義足をつくるひとも。
みな、広い意味での伴走者。

バラエティに富んだランナーと伴走者の声が、バラエティに富んだまま一冊にまとめられている。
これは、自身も伴走者である著者の心づかいが、よくでているところかもしれない。
そこがこの本の、もっとも好ましいところだ。

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ブルーノってだれ?

「ブルーノってだれ?」(アーヒム・ブレーガー 佑学社 1982)

訳は大島かおり。
ドイツの児童書。

子どもの本だからといって、子どもが主人公とはかぎらない。
本書の主人公、ブルーノはひとり者のおじさん。
厳密にしらべたわけではないけれど、おじさんが主人公の子どもの本は、外国に多いような気がする。
とくに、ドイツから北にかけて。
余談だけれど、主人公の性別や年齢などを気にかけて本を読んでみるのも、また面白いものだ。

さて、本書はブルーノを主人公にした短編集。
17編がおさめられている。

「ブルーノ、いいわけ考案係になる」
「ブルーノと電話」
「ブルーノ、有名人をこころざす」
「ブーノ、芸人をこころざす」
「ブルーノと夜間警備員」
「ブルーノとこびと」
「ブルーノと鏡」
「ブルーノとディノ」
「ブルーノ、皿洗いになる」
「ブルーノと銅像」
「ブルーノの頭」
「ブルーノ、旅をする」
「ブルーノ、強盗をこころざす」
「ブルーノと時間」
「ブルーノと雪だるま」
「ブルーノ、かかしになる」
「ブルーノとわらい」

おじさんが主人公の子どもの本で、さっそうとしたおじさんがでてくることはまあない。
ブルーノもその例にもれず。
空想癖があり、奇妙な職業につぎつぎとチャレンジする。

例をあげよう。
まず空想癖のほうから。
「ブルーノと電話」という話。

ひとりでうちにいるブルーノ。
テレビをみる気にも、本を読む気にもなれない。
なにをしたらいいか教えてくれるかもしれないと、電話案内所に電話をかけ、係の女性と話を。
女性は気さくなひとで、ブルーノの質問につきあってくれる。
そこで、ブルーノはからだを小さくして、電話線にもぐりこみ、彼女、電話案内係25番をたずねることに。
途中、混線していて道をまちがえたりするものの、無事到着。
勤務の終わった電話案内係25番と町へワインを飲みにいく。

…話はここで終わらない。
ラストはこんな風。

「けれど、ほんとうのことをいうと、こうじゃなかったのです。ブルーノは電話の中にもぐりこみはしませんでした。居間にじっとすわっていたのです。ざんねんだな、とブルーノは思いました。こんなことはただの空想で、じっさいにはできっこないんだ。そして、ブルーノはベッドに横になって、ねむりました」

奇妙な職業の例は、「ブルーノ、かかしになる」から。

いつもひろびろしたところに立っているかかしをうらやましく思ったブルーノ。
かかしになろうと思い、職業案内所をたずねる。
そんな募集があるのかというと、はたしてある。
112号室で採用の面接をしているという。
いってみると、面接官はかかし。
にこやかに応じてくれる。

「ここに来てくださるかたがあって、とてもうれしいですよ。職業紹介所かかし業面接室に来てくださって」

じつにシュールな展開だけれど、こういうとき、ひとり者のおじさんは驚いたりふしぎに思ったりはしない。
かかしから仕事のやりかたについて拝聴する。

「かかしは、時と場所にあった服装をすることもだいじです」

「そしてなによりも、かかしの仕事というのは、おだやかな方法しか使わないものでしてね。けっして暴力にうったえてはいけない。ほかの人ならとっくに鉄砲をもちだすようなばあいでも、かかしは立ってるだけで敵を追っぱらうんですからね」

翌日は畑で実地試験。
しかし、運悪くカラスの襲来をうける。
ブルーノは実力行使でこれを排除。

とにかく仕事への熱意を認められたブルーノは、かかしから、スズメ用のかかしになることをすすめられる。
スズメ用かかしとなったブルーノはめきめき腕をあげ、いまではあらゆる技に通じるように。
ラストはこう。

「来年は、南ドイツのすずめ大災害対策かかし主任に、任命されることになっています。ブルーノは、いまからそれをたのしみにしています」


本書を読んでいてしきりに思い出したのはチムニクの「レクトロ物語(福音館書店 2006)だった。
この本も、ひとり者のおじさん(もっと若い?)が、さまざまな職業にチャレンジする話。
その幻想味とせちがらさ、あるいはさびしげな感じには相通じるものがあるように思う。

ほかにも、子どもの本ではないけれど、「壜の中の世界」(クルト・クーゼンベルク 国書刊行会 1991)とか。
これはスイスの作品だけれど、「テーブルはテーブル(ペーター・ビクセル 未知谷 2003)とか。
どれも似た感じがする。

逆にいうと、チムニクはなにもないところから突然あらわれたのではなかった。
共通の感受性がある世界からあらわれたのだ。

これは、あまりにも個人的な興味にかたよった読みかた。
でも、このことがわかっただけでも、この本を読んでよかったと思った。


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フーさん

「フーさん」(ハンヌ・マケラ 国書刊行会 2007)

訳は上山美保子。
装丁、森デザイン室。
挿絵は、作者だろうか?
なんとも愛らしい。

フィンランドの児童文学。
フーさんを主人公にした短篇が15編おさめられている。

イラストをみると困った顔をしたおじさんという感じのフーさんは、どうもオバケらしい。
お母さんはフーさんが小さいころに亡くなり、お父さんはおじいさんと仲たがいをして出奔。
フーさんはおじいさんと一緒に暮らしいていたらしいのだけれど、いまはひとり暮らし。

顔だけでなく、じっさいフーさんはしょっちゅう困っている。
フーさんは仕事がきらいで、いもつ眠りたいだけ眠っているのだけれど、たまに仕事(ひとを驚かすこと)にいくと、こんなことを考える。

「フーさんは勤務時間もきまっていません。労災保険もなければからだをあたためる場所もなく、楽しくもなんともない残業をしても手当てもなくて、きまった収入もありません」

「おまけに、年をとってからの年金さえもらえません。フーさんが年をとったときにのこるものといえば、街のなかの石でできた家々のあいだにうもれて忘れさられてしまう木造の家だけだ、とどんよりと考えていました」

おまけに仕事もうまくいかない。
驚かそうとした女の子に、逆に笑われる始末。

というわけで、この本は、かなりしょぼくれた、世間知らずのオバケであるフーさんが、おかしなことをしたり、困った目にあったりするさまを描かいたもの。

たとえば、冬、木から黄色くなった葉が落ちるのをみたフーさんは、この木は病気になったにちがいないと思いこむ。
ばんそうこうと糸と針と薬をもちだし、木にはしごをかけ、落ちた葉っぱを縫いつける。
翌日、また葉っぱが落ちていたので、くり返す。
ついに冬のあいだ中、葉っぱは落ちなくなり、最後の文章はこう。

「フーさんは、病気の木をなおすことができない人たちに同情しました。みんなは、ぼくから学ぶべきことが、たくさんあるはずなのに」

全編この調子。
たまたま町にでてしまい、どうやったら帰れるだろうと目に涙を浮かべたり、ビーバーにからかわれたり、巨大なネコにおどかされたりする。
たまに、女の子をおどかすのに成功すると、怒ったその子に叩かれ、「とてもきれいな放物線をえがくように」庭に放りだされる。

作者がうまいのは、フーさんがやるトンチンカンなことを、作中でそう指摘せず、読者にほのめかすように書いていることだ。
つまり、読者に花をもたせるように書かれている。
読者である子どもたちは、トンチンカンなフーさんに親愛の情をもつだろう。
ただ、ほのめかされていることを察して喜ぶには、あるていど年齢が高くないとダメかもしれない。

フィンランド産の児童文学だからといって、フィンランド風味を無理にさがすことはない。
ないけれど、無理にさがしてみると、密度の高い孤独感とでもいえるものにいきあたる気がした。


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先生と老犬とぼく

「先生と老犬とぼく」(ルイス・サッカー 文研出版 2008)

訳は、はらるい。
絵は、むかいながまさ。

ルイス・サッカーの本はほとんど読んでいる。
ほとんど読んだのは、要するに面白いからだ。
いままで読んだものはヤングアダルト向きが多かったけれど、今回は対象年齢がぐっと下がって、小学生の中級から。
対象年齢が変わっても、その面白さは変わらない。

訳者あとがきによれば、この本は「マーヴィン・レッドポスト」シリーズの4作目を訳出したものだとのこと。

さて、ストーリー。
主人公は3年生のマーヴィン・レッドポスト。
1週間の休みをとる担任のノース先生から、休みのあいだうちの犬の世話をしてくれないかという話をもちかけられる。

犬の名前はウォルドー。
もう17歳の老犬だから、ペットホテルにあずけたくない。
1日に3ドル、それを7日ぶん。
加えて、なにもなかったら4ドル足して、25ドル払う、と先生。

ノース先生はマーヴィンを自宅につれていき、ウォルドーと対面させ、ドッグフードやリードのある場所を教える。
「なにかききたいことある?」といわれたとき、マーヴィンはいう。
「先生はどうして、ぼくをえらんだんですか?」
「あなたには、分別と責任感があると思ったからよ」と、先生。

というわけで、マーヴィンは1週間ウォルドーの世話をすることに。
まず、読んでいて、先生が生徒にこんなことを頼むかなという疑問が浮かぶ。
しかも、お駄賃まであげて。
でも、ここでつまづくと先が読めないので、これがアメリカ流なんだろうと思うことにして先へ。

マーヴィンが先生の犬の世話をすることになったのは、クラスメイトの周知の事実。
おかげでマーヴィンはずいぶんからかわれる。
またノース先生の代わりにきた先生には、間が悪いことがかさなり、目をつけられてしまう。

さらには、ウォルドーをめぐってとんでもないことが起こる。
どうとんでもないかというと、「誰でもない男の裁判」(A・H・Z・カー 晶文社 2004)所収の、「黒い小猫」をほうふつとさせるといえば、わかるひとにはわかるだろう。

マーヴィンはたいへんな苦境に立たされるのだけれど、作者はそこを緻密に書いたりしない。
いままでどおり、さらっと書く。
このあたり、じつにうまい。

本書はイラストと文章のバランスもよかった。
電話をかけるマーヴィンの後ろ姿のイラストなど忘れがたいものだ。


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聖ヨーランの伝説

聖ヨーランの伝説(ウルフ・スタルク あすなろ書房 2005)

児童書。
訳は菱木晃子。
絵はアンナ・ヘグルンド。

ストックホルムはとてもきれいな町だった。
とくにガムラ・スタンとよばれる旧市街は、どこを撮っても絵になる。
もうきりがないやと、途中で写真を撮るのをやめてしまったほど(帰国して後悔)。

そのガムラ・スタンに大聖堂があって、そこに竜とたたかう聖ジョージ像がおかれれていた。
繊細かつ臨場感にあふれた、素晴らしい木造彫刻。

お話変わって。
旅行にいくと、その土地産の小説が読みたくなる。
スウェーデンの児童書といえば、なんといってもリンドグレーンだけれど、ウルフ・スタルクも名高い。
図書館で棚をながめていたら、スタルクが上記の彫刻を題材にして書いた、この本をみつけた。

聖ヨーランとは、英語でいう聖ジョージのこと。
スウェーデン語ではヨーランというらしい。
フランスでは聖ジョルジュ、ドイツでは聖ゲオルグ、とこれは訳者あとがきから。
このあとがきは、聖ヨーランにかかわる伝説や歴史がとてもわかりやすくまとめられていて感嘆する。

さらに受け売りを続けると、聖ヨーランは3世紀末、現在のトルコ東部にあたるカッパドキアで生まれた。
ローマ軍の武人として活躍したのち、キリスト教弾圧によりパレスチナで殉教したのだそう。

聖ヨーランを有名にしているのは、なんといっても竜退治の伝説。
リビアのシレナという町で、竜を退治したものの、王からのほうびはいっさい受けとらず、貧しい民に分けあたえることを申し出て、そのまま馬で立ち去った、という。

どうしてストックホルムに聖ヨーランの彫刻がつくられたのかというと、それにはスウェーデンの歴史が関係している。
1471年、デンマークの圧制に抵抗したスウェーデン農民軍は〈ブルンケベルイの戦い〉で勝利をおさめた。
そのさい、士気を鼓舞するためにうたっていたのが「聖ヨーランの歌」。
総統ステン・ステューレは勝利を記念して、ドイツのリューベック出身の彫刻家ベルント・ノトケに聖ヨーラン像の制作を依頼した。
それが大聖堂の聖ヨーラン像。

さて。
では、スタルクは聖ヨーランの伝説をどんなふうに作品化したのか。
まず、「むかし、ある国に…」として、特定の国の話ではなくしてしまった。

そのある国には、年老いた父親と3人の息子がいた。
ヨーランは3男坊。
3人のなかで、一番足が速く、力も強く、剣の扱いもうまかったが、ぼーっとしたたちで、なにをしても負けてばかり。

ある日、父親に「世の中に旅立つときがきた」といわれ、息子たちは旅立つことに。
兄ふたりは、それぞれ南と北へ。
ヨーランは東にいくというが、東の海には悪い王様と竜がいる。
父親が片目を失ったのも、この王様と竜のせい。
西にいきなさいと、ヨーランはさとされる。

出発にさいしても、ヨーランはひとりぐずくずする。
ためになることばをいってほしいというヨーランに、父親は「心の声のひびくがままに」ということばをさずけてやる。

で、出発。
ヨーランは、旅で出会った困っているひとたちに、「心の声のひびくがままに」ほどこしをしていく。
ところが、そのうち方角をまちがえてしまい、東の海へ。
そこでは残忍な王様が、月に一度、若い娘をいけにえとして竜に食わせていて…。

このあと、物語に彫刻家というのがでてくる。
彫刻家はお姫さまと恋仲で、そして父親の悪行にこころを痛めるお姫さまは、自ら竜のいけにえになろうとする。

いままで語られた聖ジョージの伝説で、彫刻家がでてくるのはこれがはじめてじゃないだろうか。
つまり、この話は聖ジョージ伝説ではなく、まさにストックホルムの大聖堂にある〈聖ヨーラン像〉のために書かれた縁起譚。

聖人を書いてもユーモラスなスタルクの筆致に、ヘグルンドの素朴で柔らかい絵がよくあっている。
竜と王様との関係にもひと工夫あり、自分が旅行にいったことを差し引いてもよくできていると思った。

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