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お金もうけは悪いこと?

「お金もうけは悪いこと?」(アンドリュー・クレメンツ 講談社 2007)

訳は田中奈津子。
装画、山本直孝。
装丁、高橋雅之。

いつのまにか、アンドリュー・クレメンツの本をぜんぶ読んでいた。
アンドリュー・クレメンツは、おもに児童書で活躍している作家。
作品に社会性を盛りこむのが抜群にうまい。

総括してしまうと、主人公がなにかしようとしたさいにあらわれる障害や、そのクリアのしかたが、ていねいに書かれているのが、クレメンツ作品の魅力だ。

たとえば、「ナタリーはひみつの作家」(講談社 2003)。
主人公ナタリーが書いた小説を出版するまでの物語。

まず、出版社にかけあうにはエージェントが必要。
これは、親友で口の達者なゾーイが担当してくれる。

ゾーイの案で、原稿用紙や封筒、便箋を印刷会社に発注。
先生を計画に巻きこみ、簡易オフィススペースを借りる。
うまく出版契約へ。

じつはナタリーの担当編集者というのは、ナタリーのお母さん。
ナタリーは本名をふせて、原稿をお母さんに送ったのだ。
そして、ここがうまいなあと感心したのだけれど、出版契約をしたからといって、すぐ本が出版されるわけではない。
原稿は膨大な付箋をつけられてナタリーのもとに返ってくる。
付箋は、書き直したほうがいいと思われる部分。

ナタリーはうんざりするが、「それはあなたの仕事よ」と、ゾーイにいわれ、頑張って書き直す。
その過程で、ナタリーとお母さんの関係は深みをましていく。
ぐっとくるプロットだ。

前置きが長くなってしまった。
「お金もうけは悪いこと」の話。

タイトルどおり、今回のテーマはお金もうけ。
主人公は、ニック・ケントン。
小さいころから、マニアックなまでにお金が大好き。
25セント硬貨をもてあそびながら、「この感触が好きなんだよなあ」、なんて思う小学6年生だ。

ある日ニックは、学校が豊かな市場であることに気づく。
マニアックなだけでなく、商才にも長けたニックは、さっそく校内で生徒相手にキャラメルとガムを売りはじめる。
よく売れたが、お菓子は校則違反なので危険。

そこでおもちゃに鞍替え。
インターネットで安く仕入れ、売りさばく。
でも、案の定というか、ダベンポート校長先生から、校内でのおもちゃの販売は禁止とお目玉をくらってしまう。

しかし、不屈のニックはあきらめない。
つぎのアイデアは、自分で続きもののマンガを描き、印刷して売るというもの。
なかなか快調な売れゆきだったが、ほどなく類似品があらわれる。
5歳のころからの宿命のライバル、モーラのしわざ。
ニックは、モーラに食ってかかるが…。

このモーラがでてきたあたりから、物語はぐんと面白味を増す。

クレメンツ作品にはいつも、子どもたちをサポートしつつ、自分たちも変化する大人の姿がえがかれていて、それがまた読んでいて気持ちがよいのだけれど、今回その役目は、算数のゼノ先生。
ユーモラスに書かれているゼノ先生は、マンガの是非をめぐる教育委員会の定例会でこんな発言をする。

「グレッグとモーラが今夜出席できたのはよかった。学校のことがどれほど真剣に考えられているかわかったでしょう」

さらにこんなことも。

「(子どもたちには)今回のことは、自分たち校長先生という図式ではないとわかってほしい」

社会性というのは、意趣返しをすることではない。
そのことも、クレメンツ作品は忘れずに書いている。

以下は余談。
ニックが通うアッシュワース小学校は、4、5、6年生の3学年からなる小学校だそう。
そういう小学校があるのか。

また、国語では、「穴」(ルイス・サッカー 講談社 1999)の原作と映画、どちらがいいかという議論をする授業がおこなわれていた。
ニックは校長室によびだされてしまうので、この場面の描写はないのだけれど、なんとも興味深い授業だ。

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歩く

「歩く」(ルイス・サッカー 講談社 2007)

訳は金原瑞人、西田登。

本書は「穴」(講談社 1999)の続編。
「穴」を読んだのはだいぶ前のことで、話はすっかり忘れてしまった。
けれど、場面がテンポよく変わっていくところや、後半、張り巡らされた伏線がぴたりぴたりときまっていくさまは無類のものだったと記憶している。

ルイス・サッカーの作品は、あと「顔をなくした少年」(新風舎 2005)を読んだ。
これも場面転換が小気味いい。
面白かったのだけれど、「アンタがうまいのはもうわかったよ!」という気分にも。

本書は例によって3人称多視点。
主人公は、「穴」では脇役だったアームピット(こんな登場人物がいたこともすっかり忘れていた。読者はじつにあてにならない)。
きびきびと場面が変わっていき、登場人物が出会っていくさまはじつに楽しい。

この本の原題は「SMALL STEPS」。
小さな一歩という意味だろうか。
冒頭、前作のグリーン・レイク・キャンプのあと、更生施設に入ったアームピットはカウンセラーからこんなことをいわれる。

「あなたの人生はいわば激流のなかを上流にむかって歩いていくようなもの。それを乗り切るコツは小さな一歩を根気強く積み重ねて、ひたすら前に進むこと。もし大股で一気に進もうとしたら、流れに足元をすくわれて下流に押しもどされるわよ」

これが、作品ぜんたいに鳴り響く通低音。

ストーリーは、高校を卒業しよう、仕事をみつけよう、貯金しようと、真面目になるべく努力しているアームピットのところに、グリーン・レイク・キャンプの友人、X・レイがダフ屋行為をもちかけるところから。
アームピットはうかうかそれに乗ってしまう。

そこに、第二の主人公ともいうべき、カイラ・デレオンがからむ。
カイラは売出し中の歌手で、17歳のアフリカ系アメリカ人。
父親はイラク戦争で死亡。
新しい父親は、マネージャーを務めるロクデナシ、エル・ジニアス。
始終ボディガードに見張られ、ロクデナシの金づるにされる生活に、カイラはうんざりしている。
現在ツアーの真っ最中。

また、アームピットには、ご近所に親しくしている脳性マヒの少女ジニーがいる。
アームピットが自尊心を取り戻すことができたのは、ジニーのおかげだ。

読んでいるとあたりまえのように思ってしまうけれど、登場人物の生きている感じは、じつにたいへんなもの。
これらの登場人物が、魅力的なストーリーをつくりあげていく。

ちょっとした登場人物の点描のうまさにも感心する。
アームピットがお金を借りるクラスメイトとか、月に一度会う娘のためチケットをもとめるバーベキュー・レストランの店長とか。
多視点の面白さを支えているのは、たしかな描写力だ。

中盤、コンサートがあり大いに盛り上がるのだけれど、盛り上がりすぎたのか、後半やや精細に欠ける。
後半は、話がややこしくなり、獲得目標がわかりにくくなるせいかもしれない。

あと、続編はどうしても前作とくらべてしまうものだけれど、前作の荒唐無稽なところがなかったのも、個人的には残念。
とはいうものの、作者の芸達者ぶりはとても楽しめた。

以下は余談。
高校で、アームピットはスピーチの授業をうけている。
「ファイヤー・ガール」でもそうだったけれど、どうもアメリカにはスピーチの授業というのがあるらしい。
アームピットの授業では、各自もってきたぬいぐるみの応援スピーチをし、最後に投票をして、世界の支配者となるぬいぐるみを決めるというものだった。

それから、高校に経済学の授業もあるらしい。
アメリカの高校生は大変だ。


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マチルダばあやといたずらきょうだい

「マチルダばあやといたずらきょうだい」(クリスティアナ・ブランド あすなろ書房 2007)

訳はこだまともこ。
あの素晴らしい「レモネードを作ろう」(ヴァージニア・ユウワー・ウルフ 徳間書店 1999)の訳者だ。

絵はエドワード・アーディゾーニ。
代表作は、「チムとゆうかんなせんちょうさん」(福音館書店)の「チムシリーズ」だろうか。
個人的には、「ムギと王さま」のさし絵を描いたひととしておぼえている。

クリスティアナ・ブランドは、「緑は危険」などで著名なミステリ作家。
クリスティアナ・ブランドとエドワード・アーディゾーニはいとこ同士なのだそう。
クリスティアナ・ブランドが唯一書いた児童書が、「マチルダばあやシリーズ」だとのこと。

内容は、三人称のですます調。
ブラウンさんおうちにわんさかいる子どもたちは、日々、凶悪ないたずらに精をだしている。
おかげで、家庭教師が居つかない。
悪名が鳴り響いているので、どこの紹介所にいってもとりあってもらえず、ただ「マチルダばあやにたのんでごらんなさい」といわれるばかり。

しかし、そのマチルダばあやが見つからない。
と、困っていたら、当人があらわれる。
ジャガイモのような鼻、黒い服、とびだした前歯。

マチルダばあやは、ちゃんとベッドに入ること、ごはんをガツガツつめこまないこと、勉強することなど、7つのしつけを宣言。
以下、それを順番に実行にうつす。

いたずらをやめられなくすることによって、いたずらをやめさせる、というのがマチルダばあやの基本方針。
ガツガツ食べる子どもたちには、つぎからつぎへと食べ物があらわれる。
子どもたちは食べるのがやめられない。
降参し、マチルダばあやにお願いすると、ばあやは黒い杖で床をトンと突き、すると食べ物があらわれなくなる。

それにしても、子どもたちの度を越したいたずらぶりがすごい。
ほとんど、グロテスクの域に達している。
このグロテスクないたずらぶりと、ときおりマチルダばあやが見せる感傷性の組み合わせは、なんともイギリス風だ。

本書で一番の見どころは、子どもたちとお手伝いさんたち台所軍団が、庭の池でくりひろげるたたかいだろう。
クリスティアナ・ブランドの安定した筆力によって書かれたこのシーンは、たいへん楽しい。

ラストがまたびっくりする。
まさか、マチルダばあやの前歯にあんな秘密があったとはなあ。

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ファイヤーガール

「ファイヤーガール」(トニー・アボット 白水社 2007)

訳は代田亜香子。
これで、ダイタアカコさんと読むのだと、今回はじめて知った。

表紙の絵がじつにうまい。
原書のものをそのままもってきたそうだけれど、読み終わってから見ると、この表紙しか想像できなくなる。

内容は、ヤングアダルト小説。
主人公トムの1人称。

トムは7年生。
正義感は強いものの、気弱で、引っこみ思案。
両親が離婚し、母親とともに暮らす友人のジェフは、強がりばかりいう。
スポーツカーのコブラが好きなトムに、コブラに乗っている叔父さんがいるといい、乗せてやるよというが、あらわれたためしがない。

学校では、先生の提案で、選挙をしてクラス委員を決めることに。
コートニーのことが好きなトムは、彼女を推薦しようと考える。

また、ジェシカという名の女の子が転校してくる、と先生。
ジェシカはひどい事故にあい、ひどいやけどを負ったというが…。

トムの情けない性格や、ジェフの荒れた人柄がとてもうまく描きだされている。
とくにトムの情けなさは身につまされることしきりだ。

このあと登場するジェシカに接することによって、ジェフは変わるのだけれど、それは英雄的な行為をするとかではぜんぜんない。
ほんの少し、決定的に変わったので、それを読者に感じさせるために、全シーンが完璧に機能している。
デリケートな題材をリアリティを失うことなくあつかっていて、みごとの一言。

わずかしか登場しない人物も強く印象にのこるのは、シチュエーションと登場人物の役割が明快だからだろうか。

あと、訳者あとがきもすごい。
内容にはそう触れていないのだけれど、猛烈に本編を読みたくなる。
このあとがきに誘われて、一気に読んでしまった。

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夜のパパ

「夜のパパ」(マリア=グリーペ 偕成社 1980)

スウェーデンの児童書。
訳は大久保貞子。

2004年に復刊されたけれど、読んだのは1980年版。
素晴らしい挿画は、作者のご主人ハラルド=グリーペよるもの。
いま検索したら、「夜のパパとユリアのひみつ」という続編もあるのだそう。

内容はひと口にいうと、夜のパパとよばれる青年と、ユリアとよばれる女の子の交流の話。
その形式が面白い。
いままでのことを、相手がなにを書いたのか見ないで、ルーズリーフに交互に書きつけた、という形式なのだ。

この、相手がなにを書いたか知らない、というところがミソ。
おかげで、この作品は、とても演劇的になっている。

夜のパパというのは、ユリアのうちに夜だけ留守番にくる青年のこと。
ユリアの母は看護婦なので、夜勤のあいだだけ留守番のために雇われた。

最初こそユリアは、自分の部屋のドアに、「わたしひとりの部屋です! じゃましないでください! 立入り禁止!」なんて貼り紙をするのだけれど、フクロウを連れてあらわれた夜のパパがすっかり気に入り、翌日は「じゃましてください」なんて、貼り紙の文句を変えたりする。
「立入り禁止」は、消すと貼り紙っぽくなくなるのでそのまま。

ユリアは、夜のパパがくるのが待ち遠しい。
きたら、いっしょに菓子パンを食べようと思っている。

ここで、語り手は夜のパパに。
夜のパパはなかなかユリアの望みを見抜けない。
「台所にね、すごーくおいしい菓子パンがあるの」
と、ユリアがいうと、
「菓子パン、とってきてあげようか?」
といって、ユリアをがっかりさせる始末。

でもまあ、最後にはうまくいく。
おなかがすいてきたと、夜のパパがいうと、ユリアは大喜び。
「おなかがすいたといわれてこんなにうれしそうな顔をした人は、見たことがない」と、夜のパパ。

子どもはひとり合点をして、ものごとをそのとおりにはこぼうと振る舞うものだけれど、その感じがよくでている。

後半は、夜のパパがいることを信用しないユリアの友人たちとユリアの確執や、「夜の女王」という夜に咲く花、また、フクロウのスムッゲルをめぐるエピソードなど。

とにかく、エピソードがつねに具体的な行動であらわされ、それが作品の広がりに貢献ししているその手際には感服する。

登場人物の気持ちがよく書かれているせいか、地に足がついている感じがするのだけれど、道具立てはおとぎ話のよう。
ここのところも、魅力のひとつだ。


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「勉強してはいけません!」と「早く寝てはいけません!」

「勉強してはいけません!」(横田順彌 講談社 2005)
「早く寝てはいけません!」(横田順彌 講談社 2007)

両方とも青い鳥文庫fシリーズの1冊。
挿絵は池田八恵子。

横田順彌さんのくだらない小説が好きでずいぶん読んだ。
「奇想天外殺人事件」(講談社 1987)なんか、いまだにもっている。

本書は児童書。
「勉強してはいけません!」は、1989年に出版された「宿題のない国 緑町三丁目」(ペップ出版)に大幅に加筆したものだとのこと。
ずいぶん読んだといいながら、こんな本があるとは知らなかった。

裏表紙の内容紹介を引用すると、こんな感じ。

「勉強ぎらいの小学5年生、進太郎は、ある日、突然、別の世界へトリップしてしまった。そこでは、なんと法律で勉強が禁じられていた!!
勉強を教えたため、捕まってしまったお母さんを救おうと、進太郎の大冒険がはじまります」

勉強は、秘密勉強団と名乗るグループによりひそかにおこなわれている。
取り締まるのはアンドロポリスというロボット警官と、スパイキャット。
いろいろあったあげく、UFOまであらわれる。

しかし、この本はただの児童向けSFではない。
冒頭の「進太郎からのごあいさつ」というまえがきで進太郎が述べているように、「ダジャレ冒険SF」でもあるのだ。
というわけで、登場人物たちはつぎからつぎへダジャレをくりだしていく。

いっぽう、「早く寝てはいけません!」の舞台はもとの世界。
前作で、UFOからあらわれたレッサーパンダ型宇宙人のパンタンから依頼をうけ、別世界の自分や清水さんとともに、不眠人間をつくっているネムラン団という連中と対決する。

「勉強…」のほうは、見知らぬ世界でお母さんを助けるという話なので、サスペンス性があったけれど、「早く寝ては…」のほうは、とてもゆるい。
で、ダジャレは3倍増しくらいに。

このゆるさがすごい。
容易にたどりつけない境地と思われる、すごいゆるさだ。
そこが魅力的なのだけれど、はたして子どもはよろこんでくれるかなあ。

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プチ・ニコラ

「プチ・ニコラ」(ゴシニー文 サンペ絵 牧神社 1973)

訳は笹本考。

最近、昔の本がよく再版されるけれど、そのさいの反応は二通りだ。
ひとつは、買わなきゃ、というもの。
もうひとつは、もってたな、読まなきゃ、というもの。

去年からことしにかけて、偕成社から「かえってきたプチ・ニコラ」というシリーズが出版されたときは、後者のことを思った。
「かえってきたプチ・ニコラ」は日本初単行本化ということなので、厳密にはちがうけれど、以前、牧神社から出版された同シリーズの一冊を手元にもっていたのだ。

「プチ・ニコラ」は、1950~60年代、フランスの新聞に連載されたもの。
主人公ニコラの一人称で、家族や悪友たちとの交流がユーモア・スケッチ風にえがかれている。
サンペによる挿絵も、軽妙で楽しい。
本書は全27編。

悪友は、食いしん坊のアルセストに、劣等性のクロテール。
腕っぷしの強いユード、ガリ勉のアニャン、父親が金持ちのジョフロワ。
警察官が父のリュフュス、皮肉屋メクサン、ちょっととぼけたジョアシャン、などなど。

とにかく、たわいのないことでふざけあっては殴りあう。
たとえば、アルセストのうちでチェスをする話。

アルセストのパパにチェスを教えてもらった、ニコラとアルセスト。
ふたりだけでやりはじめたところ、たちまちおかしなことをしはじめる。

まず、アルセストがいっぺんにいくつもの歩兵を進める。
そんなのってないぞ、とニコラが抗議すると、おまえのほうも勝手に守れ、げす野郎、とアルセスト。
この乱暴な口のききかたも、この本の魅力のひとつだ。

ニコラは機関銃の音をたてて応戦。
そこでアルセストが、あのころは機関銃なんかなかったと指摘。
いんちきするんなら遊んだって仕様がないよと、アルセストがいうと、ニコラもそれもそうだと思う。

しかし、たたかいは激しさを増す。
駒を指ではじきはじめ、部屋においた駒をビー玉で倒し、ついにはビー玉による爆撃を遂行。
ところが、ビー玉では、汽車や車に乗っている駒は倒せない。
で、サッカーボールをぶつけはじめる。

最後の文章はこう。
「天気がよくなったら、すぐみんなで空地にチェスをやりにいこう。なぜって、ドカーンドカーンのチェスは、やっぱり家のなかでやる遊びではないからだ」。

ニコラの両親のせちがらい会話も大人には面白い。
懐中電灯を買ったニコラが、家中を暗くして遊びはじめると、ママンがいう。
「どうしたというの? あなたの大切な息子さんは」
パパがこたえる。
「暗闇で新聞を読んでほしいってゆうんだよ、おまえの大切な息子さんがね…」
あてこすりは、たがいの親類にまでおよぶ。
「わたしのおじは景気変動の犠牲になっただけなんです。ところが、あなたの兄弟のユージューヌの場合は…」

また「手紙」という話。
パパの社長からプレゼントをもらったニコラは、お礼の手紙を書くはめに。
プレゼントをもらったのは、社長が旅行にいくとき、パパが汽車の座席を並んでとってあげたため。
パパは頭をしぼって、手紙の文句を考える。
ママンに相談し、ママンが意見を述べると、「それじゃなれなれすぎる」とパパ。

気分を害したママンに、パパがあやまる。
「ごめんよ、だがことは、わたしの社長とわたしの地位に関することなんだ!」。
そこでママンがひとこと。
「あなたの地位はニコラの手紙次第なんですか?」

この本、訳が古い。
ニコラは楽しいことがあると、いつも「ごきげん」になる。
休み時間は「お休み時間」。
先生にたいしては、つねに敬語だ。

新しく刊行された版はどうなっているのか。
さすがに、「お休み時間」はなくなっているだろうか。

※追記。
「かえってきたプチ・ニコラ」(小野万吉訳)をぱらぱらやってみた。
今回読んだ笹本訳よりも、より口語的になっている。
ママンはママになり、お休み時間は休み時間に。
先生への敬語は健在だった。

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きりの国の王女

「きりの国の王女」(フィツォフスキ再話 福音館書店 1968)

訳は内田莉莎子。
絵は堀内誠一。
さすがに素晴らしい。

副題は「ジプシーのむかしばなし2」。
阿部勤也さんの「自分のなかに歴史をよむ」を読んだら、ジプシーの昔話が気になったので読んでみることに。
なぜ2巻かというと、たまたまこれだけ手元にあったから。
収録話数は10話。

「きりの国の王女」
「ひつじかいのバクレングロ」
「雨乞いの名人」
「七人の兄弟と悪魔」
「魔法の小鳥」
「すてられた子どもたち」
「悪魔をだましたジプシー」
「太陽の王の三本の金髪」
「魔法の箱」
「ヒキガエルとまずしいやもめ」

阿部さんは、ジプシーの昔話には贈与者がでてこないと書いていたけれど、そんなことはないよう。
「魔法の小鳥」の、ほしいものをだしてくれる魔法の小鳥をくれたおじいさん(じつはジプシーの守り神)などは贈与者といっていい存在だと思う。
それよりも心にのこったのは、登場人物の欲の少なさ。
魔法の小鳥に食べ物と馬をだしてもらった若者は、それ以上なにももとめないのだ。
「さむくもない、はらもすいてない。世界じゅうを旅してまわれる。もう、それでぼくはまんぞくだ」。

この若者は、欲深な王さまにつかまり、牢屋に入れられてしまう。
牢屋には先客の、美しい娘が。
娘は森のなかでジプシーの宝ものの歌をうたっていたところ、王さまに聞かれ、閉じこめられてしまったのだ。
宝もののありかを白状するよう責めたてられても、娘はひとこともこたえない。
「たとえ、そのひみつをうちあけたとしても、なんのやくにもたたなかったでしょう。ジプシーのたからものというのは、旅をすることなのですから」。
その後、おじいさんに助けられ、ふたりはともに旅をする。

「すてられた子ども」は、途中まで「ヘンゼルとグレーテル」そっくりの話。
継母に迫られて、父親が兄妹を森へ捨てる。
父親が灰をまいておいてくれたおかげで、1度目はもどってこられたが、2度目はアワだったので駄目。
森をさまよい、おばあさんの家に。

おばあさんの弟はおそろしい竜で、ちょうど山のむこうの魔法使いを倒して宝ものをいただいてきたところ。
宝ものは、空とぶ布きれ、いのちの水、なんでもうつる鏡。
でも、これらの宝ものは、もち主が7年たたないと魔法の力を発揮しない。

兄妹は竜が眠ったすきに宝ものを盗みだし、湖のそばに家を建て7年すごす。
さて、7年たち、ためしに鏡をのぞくと、年をとった父親と継母の墓が。
すぐ帰ろう、ということになるが、そのまえに兄が夢でみた美しい町をみてみる。
すると大きな屋敷に、いまにも死にそうな王さまがいる。

ふたりは魔法のきれに乗り、町へいくと、いのちの水で王さまを助ける。
「このおわかいお方は、きょうからわしのむすこじゃ! わしの国をはんぶんわけてあげよう。のぞむことをなんなりとかなえてあげよう!」

しかし、この話でも兄妹は王さまの申し出をことわるのだ。
「わたしにはちょっとのあいだもわすれられない父がいます。国のはんぶんをくださるおはなしもありがたいのですが、せっかくいただいても、わたしには、なんのやくにもたちません」

兄妹がもとめるのは、やはり馬。
しかも、かわりに魔法のきれをあげてしまう。
なんて気前がいいんだろう。
最後に、兄妹は父のもとにもどり、また旅をすることに。

それにしても、魔法のきれといって、絨毯ではないところがなんとなく面白い。

ほかに「雨乞いの名人」「悪魔をだましたジプシー」は、ともにだましたり、だまされたりする話。
とくに「雨乞いの名人」のほうは、雨をふらせるといって村人をだまそうとしたおじいさんが、さらにキツネにだまされる。
このだましかたが、じつに他愛がなくておかしい。

こうして逐一みていくと、収録作はバラエティに富んでいる。
この感想文を書かなければ、編集の妙に気づかなかったところだ。

あと、これは余談だけれど、昔話を読むと小説を読むのが面倒くさくなってしまうなあ。

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空からおちてきた男

「空からおちてきた男」(ジェラルディン・マコックラン 偕成社 2007)

訳は金原瑞人。
絵は佐竹美保。

マコックランは、「不思議を売る男」(偕成社 1998)を読んだことがある。
アンティークショップにあらわれた不思議な男が、アンティークにまつわる物語を客に話して聞かせるというストーリーで、全体としてはメタフィクションになっているという、ずいぶん凝った面白い作品だった。

今回の「空からおちてきた男」は、「不思議を売る男」にくらべると本が薄い。
すぐ読めそうだと手にとってみた。

短篇連作。
主人公のカメラマン、フラッシュは飛行機事故により、どことも知れぬ場所に落ちてしまう。
スティラとオルという姉弟に出会い、村へ。
村人は、現代文明をあんまり知らない。
長老はカメラこそ知っているが、写真は見たことがない。
フラッシュはポラロイドカメラと残り9枚のフイルムをつかい、村の素晴らしいものを写真におさめることに。

撮るのは、村で一頭しかいない大事な牛だったり、フラッシュの価値観からだいぶずれた美女だったり、巨大な岩にえがかれた壁画だったり。
毎回、なにをどう撮るかが見もの。
村の若者が自分を撮ってもらおうとあらそいをはじめると、トンチをきかせて切り抜ける。

フラッシュの造形がいい。
3枚目だけれど、相手に敬意を払うことを知っている、とてもいいやつ。

毎回の話はこびといい、ラストのオチのつけかたといい、じつに手馴れた感じ。
軽くて、楽しく、すらすら読める。
ただ、読み終わると、もうひと声ほしかったと思ってしまう。
すぐ読めそうだと手にとって、この感想は贅沢というものか。

あと、この本は佐竹さんの絵が大活躍。
表紙は煙をだした飛行機の絵で、目次は、目前にせまる樹海の絵。
そして話がはじまり、墜落した飛行機の絵が。

また、フラッシュが撮った写真も挿絵になっている。
作中で撮った写真を絵で見せるというのは、かなり危険なことだけれど、カメラのフレームを意識した構図と、影を黒で塗りつぶすという処理で、佐竹さんは楽々とクリアしている。


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恋人とその弟

「恋人とその弟」(仁木悦子 岩崎書店 2006)

現代ミステリー短編集第6巻。
このシリーズ、児童書だけあって読みやすい短篇が収録されており、名前は知っているものの読んだことがない著者の作品を、小手調べとして読むのにとても便利だ。

今回の仁木悦子さんの作品も、読むのははじめて。
解説によれば、仁木さんは1928年生まれ。
4歳のとき胸椎カリスエと診断されるが発見が遅れ、両足がマヒし歩行不能に。
学校にはいけず、勉強は2番目のお兄さんに教わる。
20歳ごろから小説を書きはじめて、26歳のとき雑誌の懸賞で入選。
29歳のとき、「猫は知っていた」で乱歩賞を受賞。
その後手術を受け、車椅子の生活ができるようになったとのこと。

さて、収録作品は4作。
みな小学生が主人公の一人称。

「恋人とその弟」(1970)
語り手は小学5年生の与野浩一。
パパが新聞記者、ママが看護婦の、団地住まいのカギっ子。
日曜日もひとりなので、自転車でぶらぶら、片思いの相手である笹塚まろみの家のほうへ。
たまたま庭にいたまろみと会うことができ、サイクリングに。
まろみの弟のトッチが追いかけてくるが、ふたりはかまわず先にいってしまう。
2時間後、まろみの家にもどると、なにやら騒がしい。
トッチは誘拐されてしまったのだ。

モノに関する伏線と、まろみへの恋心というふたつの伏線が、ラストでぴたりと決まる。
気の利いた短篇。

「鬼子母の手」(1967)
語り手は5年生の狭山伸子。

伸子の親友であるアコの母親は、度を越した教育ママ。
参観日にアコの机の横にきて、間違いを正したりする。
今回の参観では、そんな騒ぎにはならなかったが、たまたまクラスにもどるった伸子は、先生を相手にしなをつくっているアコのママを目撃してしまう。
で、べつの日、アコの家で一緒に宿題をしていると、アコは「ママの宿題」なるものをもちだしてくる。
ふたりで「ママの宿題」をすませるが、伸子に宿題を見せたことを知りママはおどろく。
帰りぎわに出されたジュースは妙な味が…。

この本では、この作品だけ女の子が主人公。
ラストが痛切。

「あの人はいずこの空に」(1971)
語り手は6年生の小島拓也。

暮れに、「あの人はいずこの空に」という、行方不明になった家族をさがすテレビ番組を観ていると、米屋さんそっくりの青年の写真が映しだされる。
さっそく番組に電話し、すぐスタッフが確認しにくるが、当人は別人だといいはるり、米屋も辞めて去ってしまう。
行方不明の青年は、パパの田舎とおなじ出身だった。
たまたま親戚の結婚式のため、正月に田舎にいくことになっていた拓也は、いとこのカッチンとともに聞きこみを開始する。

この作品は、ほかの3作とくらべるとまとまりに欠ける。
ややこしくしすぎてしまったよう。

「銅の魚」(1979)
これで「どうのうお」と読む。
語り手は6年生の敬介。

はじめてひとりでおばあちゃんのうちに泊まりにきた敬介。
じつは、となりに住むアヤちゃんが目当て。
倉で亡くなったおじいちゃんがつかっていた矢立を見つけ、アヤちゃんに見せると、突然あらわれたおばさんに矢立を取り上げられてしまう。
このおばさんは、ケチで有名なおかつさんというひと。
おかつさんはふたりを家に誘い、矢立をなにやら調べたのち、敬介に返してくれる。
その晩、親戚の講平さんに連れられお祭り見物をした帰り、血まみれのおかつさんと遭遇。
「高畑すぐる」という、おかつさんの最後のことばを警察につたえたところ、すぐに容疑者が逮捕されるが、これがアヤちゃんのお父さん。
アヤちゃんにすっかり嫌われた敬介は、アヤちゃんの兄さんとともに真相を究明する。

これは収録作すべてにいえることだけれど、一人称で書かれた文章が軽快かつリズミカルで、すらすら読める。
主人公の子どもたちは、みな心ばえがよく、読んでいてすがすがしい。

興味深いのは、女の子を主人公にしたときだけ、ハッピーエンドではないということ。
主人公が男の子の場合はハッピーエンド。
また、男の子たちは、みな好きな女の子がいて、女性に対してませた考えをもっていおり、これがほほえましい。
ほほえましい話というのは、異性を主人公にしたほうが書きやすいのかもしれない。

いや、4編読んだだけで一般化してしまってはいけないか。


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