タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
火のくつと風のサンダル
「火のくつと風のサンダル」(ウルズラ・ウェルフェル/作 関楠生/訳 童話館出版 1997)
絵は、久米宏一。
本書はドイツの児童文学。
3、4年生くらい向きだろうか。
主人公のチムはもうすぐ7歳。
クラスで一番のでぶで、一番のちび。
そのことで、友だちからいつもからかわれる。
お父さんの仕事は、靴の修繕。
お話をつくったり、話したりするのも上手。
暮らしはあまり豊かではない。
でも、お母さんはそんなことはへっちゃら。
さて、7歳の誕生日、チムはプレゼントに新しい靴と、遠足用のリュックサックをもらう。
靴はお父さんが、リュックサックはお母さんがつくってくれたもの。
でも、もっといいものがもらえると思っていたチムはしょげてしまう。
ところが、お父さんが夏休みの大計画の話をすると、すっかり気をとり直す。
お父さんの大計画というのは、チムと2人で靴直しのたびにでかけるというもの。
4週間は家に帰らない。
高い山に登り、静かな農家や小さな村へいこう。
「おとうさんは、くつをなおして、そのお礼に、泊めてもらい、食事をさせてもらう。もちろん、お金ももらえる。そうしたら、お金は、おかあさんのところに送ろう。どうだい、おとうさんといっしょに、いく気があるかい?」
もちろん、チムは大賛成。
チムは「火のくつ」、お父さんは「風のサンダル」と名前をつけて、たがいにその名を呼びあいながら、夏のあいだ2人は旅をすることに。
旅のなかで、チムはさまざまな経験をする。
ウシに引きずられたり、川に落ちたり、村の子たちにやっぱりでぶだといわれたり。
そして、なにかあるたびに、お父さんはうまくお話をこしらえてチムに話す。
お父さんのお話は、忠告やお説教の代わり。
だから、少々うるさいところがある。
でも、実際の忠告やお説教よりはずっとまし。
起こったできごとをすぐお話に仕立て上げる、お父さんの手並みには感心するばかり。
この本に登場するひとたちは、みんなよく笑う。
チムもお父さんもお母さんも、よく大笑いする。
みな、気持ちがさっぱりしていて、長く思い悩むことがない。
旅の途中、チムはホームシックになったり、雨のなかを歩いて不機嫌になったりするけれど、お父さんのお話のおかげもあって、すぐに機嫌をとり直す。
旅から帰っても、チムはやせるわけではない。
相変わらずでぶのままなのだけれど、チムはもう旅の前のように、そのことを気に病んだりしない。
まあ、多少しゃくではあるけれど――。
陽気で、笑いがあり、登場人物たちは強い信頼で結ばれ、たがいにたがいを思いやる。
なんとも気持ちのいい一冊だった。
作者のウルズラ・ウェルフェルには、「灰色の畑と緑の畑」(岩波書店 2004)という、厳しい状況に置かれた子どもたちを扱った傑作短編集がある。
その児童書の枠を超えたハードボイルドぶりには驚かされるのだけれど、登場人物たちにそそがれる作者の目はあたたかい。
それは「火のくつと風のサンダル」に感じられるまなざしと同様。
そのことがわかったのが収穫だった。
それから。
「火のくつと風のサンダル」は、1978年に学研から出版されている。
今回読んだ童話館出版は、その再版だ。
少し前に読んだ「ぼくのすてきな冒険旅行」も学研からでた本だった。
当時の学研の、「少年少女学研文庫」のラインナップはじつに充実している。
きっと、目が高いひとがいたのだろう。
絵は、久米宏一。
本書はドイツの児童文学。
3、4年生くらい向きだろうか。
主人公のチムはもうすぐ7歳。
クラスで一番のでぶで、一番のちび。
そのことで、友だちからいつもからかわれる。
お父さんの仕事は、靴の修繕。
お話をつくったり、話したりするのも上手。
暮らしはあまり豊かではない。
でも、お母さんはそんなことはへっちゃら。
さて、7歳の誕生日、チムはプレゼントに新しい靴と、遠足用のリュックサックをもらう。
靴はお父さんが、リュックサックはお母さんがつくってくれたもの。
でも、もっといいものがもらえると思っていたチムはしょげてしまう。
ところが、お父さんが夏休みの大計画の話をすると、すっかり気をとり直す。
お父さんの大計画というのは、チムと2人で靴直しのたびにでかけるというもの。
4週間は家に帰らない。
高い山に登り、静かな農家や小さな村へいこう。
「おとうさんは、くつをなおして、そのお礼に、泊めてもらい、食事をさせてもらう。もちろん、お金ももらえる。そうしたら、お金は、おかあさんのところに送ろう。どうだい、おとうさんといっしょに、いく気があるかい?」
もちろん、チムは大賛成。
チムは「火のくつ」、お父さんは「風のサンダル」と名前をつけて、たがいにその名を呼びあいながら、夏のあいだ2人は旅をすることに。
旅のなかで、チムはさまざまな経験をする。
ウシに引きずられたり、川に落ちたり、村の子たちにやっぱりでぶだといわれたり。
そして、なにかあるたびに、お父さんはうまくお話をこしらえてチムに話す。
お父さんのお話は、忠告やお説教の代わり。
だから、少々うるさいところがある。
でも、実際の忠告やお説教よりはずっとまし。
起こったできごとをすぐお話に仕立て上げる、お父さんの手並みには感心するばかり。
この本に登場するひとたちは、みんなよく笑う。
チムもお父さんもお母さんも、よく大笑いする。
みな、気持ちがさっぱりしていて、長く思い悩むことがない。
旅の途中、チムはホームシックになったり、雨のなかを歩いて不機嫌になったりするけれど、お父さんのお話のおかげもあって、すぐに機嫌をとり直す。
旅から帰っても、チムはやせるわけではない。
相変わらずでぶのままなのだけれど、チムはもう旅の前のように、そのことを気に病んだりしない。
まあ、多少しゃくではあるけれど――。
陽気で、笑いがあり、登場人物たちは強い信頼で結ばれ、たがいにたがいを思いやる。
なんとも気持ちのいい一冊だった。
作者のウルズラ・ウェルフェルには、「灰色の畑と緑の畑」(岩波書店 2004)という、厳しい状況に置かれた子どもたちを扱った傑作短編集がある。
その児童書の枠を超えたハードボイルドぶりには驚かされるのだけれど、登場人物たちにそそがれる作者の目はあたたかい。
それは「火のくつと風のサンダル」に感じられるまなざしと同様。
そのことがわかったのが収穫だった。
それから。
「火のくつと風のサンダル」は、1978年に学研から出版されている。
今回読んだ童話館出版は、その再版だ。
少し前に読んだ「ぼくのすてきな冒険旅行」も学研からでた本だった。
当時の学研の、「少年少女学研文庫」のラインナップはじつに充実している。
きっと、目が高いひとがいたのだろう。
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ぼくのすてきな冒険旅行
「ぼくのすてきな冒険旅行」(シド・フライシュマン/著 久保田輝男/訳 学習研究社 1970)
さし絵は、長尾みのる。
シド・フライシュマンは、アメリカの名高い児童文学作家。
「ゆうれいは魔術師」が、とても面白かったという印象が残っている。
訳者あとがきによれば、本書は作者の2作目であるらしい。
原書の刊行は1965年。
本書の刊行は1970年だから、なかなか早く翻訳されている。
この本、2006年に、「ゴールドラッシュ」のタイトルで、新訳が刊行されている。
新訳が刊行されたということは、それだけ面白いということだ。
でも、読んだのは旧訳のほう。
もちろん、訳は古めかしい。
「――にちがいない」と、いまなら書くところを、「――にそういない」なんて書いてある。
これが、最初から日本語で書かれていたら、どうにもならなかっただろう。
でも、外国語だったから、新訳が刊行され、新鮮な日本語で読むことができるようになった。
さし絵もまた古めかしい。
いまとなっては、それが味わい深い。
ストーリーは、1849年1月27日、帆船レディ・ウルマ号が183人の乗客を乗せ、ボストン港を出発するところから。
レディ・ウルマ号は、ケープ・ホーンをまわり、サンフランシスコをめざす。
じつはこの船には、密航者が2人乗っていた。
ひとりは、12歳の少年ジャック。
もうひとりは、ジャックの忠実な召使い、プレイズワージ。
2人は好んで密航者になったわけではない。
船に乗る切符を買うために列にならんできたとき、スリにあってしまったのだ。
なぜ、2人はサンフランシスコをめざすのか。
これにはもちろん訳がある。
ジャックの両親はコレラにかかって亡くなり、ジャックと2人の姉妹は、アラベラおばさんの大きなお屋敷に身をよせていた。
ところが、遺産は徐々になくなり、もう1年もすれば一文なしになってしまうことが明らかとなった。
そこで、ジャックとプレイズワージは、お屋敷が売り払われる前に金を稼ごうと、ちょうど1年前からゴールドラッシュで沸き立っているカリフォルニアゆきの船に乗りこんだのだった――。
本書の半分は、カリフォルニアに到着するまでの船旅の話。
もう半分は、カリフォルニアに到着し、金鉱掘りに励む話。
物語の進行と、空間の移動が一致している。
ロードムービー的な構成だ。
作者のシド・フライシュマンは、ストーリーを巧みにあやつる素晴らしい腕前の持ち主。
ストーリーも文章もきびきびとしていて駆動力がある。
つたえなければならない必要事項をさっと述べ、すぐ読者を物語の世界へと招き入れる。
本書は伏線が回収されるのが早い。
これは児童文学の特徴だろう。
その章で張られた伏線は、その章のうちに回収される。
おかげで、読者を退屈させるということがない。
もちろん、2人がぶじに金を手に入れることができるのか――といった、大きな伏線は、最後まで読まないとわからない。
小さな伏線で読者を引きつけてはなさず、大きな伏線を最後に回収してみせる。
その手並みはじつに見事。
それから、特筆すべきはプレイズワージのキャラクター。
機知に富み、困難にめげることのない不屈の精神をもちながら、物腰はあくまで柔らか。
つねに主人のかたわらにあり、主人を支え続ける。
その姿はジーヴズだって見劣りするほどだ。
このプレイズワージが、物語が進むにつれて変化していく。
代々執事の家系であるその職業意識はいささかのおとろえもみせないけれど、それに加えて新たな面がみいだされる。
登場時、山高帽にコウモリ傘といったいでたちだったプレイズワージは、抵抗しながらも、後半すっかり金鉱掘りの姿になってしまう。
後半は、プレイズワージが主人公だといっていいだろう。
そして、ラスト。
思いがけないことが次つぎと起こりながら、物語は大団円になだれこむ。
――まったく、なんて上手いのだろう
と、感嘆せずにはいられない。
最後に。
旧訳と新訳の冒頭を、それぞれ引用しておこう。
「ゴールドラッシュ」(金原瑞人・市川由季子/訳 ポプラ社 2006)
《両側に大きな水車のような外輪をつけた帆船が、ボストンの港をでた。水しぶきをあげ、ホーン岬まわりでサンフランシスコをめざしているところだ。甲板の下はぎしぎし音をたてるまっくらな船倉だ。そこにジャガイモのたるが十八個ならんでいた。そのうちのふたつのたるのなかにとなりあわせで密航者がひとりずつかくれていた。》
「ぼくのすてきな冒険旅行」
《両側に大きな車輪をつけた帆船が、波をけちらしながらボストン港を出帆した。ケープ・ホーン(南アメリカの最南端にある岬)まわり、サンフランシスコゆきの船である。
ところで、その船の甲板のはるか下、キシキシきしむ船倉のくらがりのなかに、十八個のジャガイモのたるがおいてある。そして、そのうちの二つのたるのなかに、肩をならべて、密航者がふたりしゃがんでいた。》
さし絵は、長尾みのる。
シド・フライシュマンは、アメリカの名高い児童文学作家。
「ゆうれいは魔術師」が、とても面白かったという印象が残っている。
訳者あとがきによれば、本書は作者の2作目であるらしい。
原書の刊行は1965年。
本書の刊行は1970年だから、なかなか早く翻訳されている。
この本、2006年に、「ゴールドラッシュ」のタイトルで、新訳が刊行されている。
新訳が刊行されたということは、それだけ面白いということだ。
でも、読んだのは旧訳のほう。
もちろん、訳は古めかしい。
「――にちがいない」と、いまなら書くところを、「――にそういない」なんて書いてある。
これが、最初から日本語で書かれていたら、どうにもならなかっただろう。
でも、外国語だったから、新訳が刊行され、新鮮な日本語で読むことができるようになった。
さし絵もまた古めかしい。
いまとなっては、それが味わい深い。
ストーリーは、1849年1月27日、帆船レディ・ウルマ号が183人の乗客を乗せ、ボストン港を出発するところから。
レディ・ウルマ号は、ケープ・ホーンをまわり、サンフランシスコをめざす。
じつはこの船には、密航者が2人乗っていた。
ひとりは、12歳の少年ジャック。
もうひとりは、ジャックの忠実な召使い、プレイズワージ。
2人は好んで密航者になったわけではない。
船に乗る切符を買うために列にならんできたとき、スリにあってしまったのだ。
なぜ、2人はサンフランシスコをめざすのか。
これにはもちろん訳がある。
ジャックの両親はコレラにかかって亡くなり、ジャックと2人の姉妹は、アラベラおばさんの大きなお屋敷に身をよせていた。
ところが、遺産は徐々になくなり、もう1年もすれば一文なしになってしまうことが明らかとなった。
そこで、ジャックとプレイズワージは、お屋敷が売り払われる前に金を稼ごうと、ちょうど1年前からゴールドラッシュで沸き立っているカリフォルニアゆきの船に乗りこんだのだった――。
本書の半分は、カリフォルニアに到着するまでの船旅の話。
もう半分は、カリフォルニアに到着し、金鉱掘りに励む話。
物語の進行と、空間の移動が一致している。
ロードムービー的な構成だ。
作者のシド・フライシュマンは、ストーリーを巧みにあやつる素晴らしい腕前の持ち主。
ストーリーも文章もきびきびとしていて駆動力がある。
つたえなければならない必要事項をさっと述べ、すぐ読者を物語の世界へと招き入れる。
本書は伏線が回収されるのが早い。
これは児童文学の特徴だろう。
その章で張られた伏線は、その章のうちに回収される。
おかげで、読者を退屈させるということがない。
もちろん、2人がぶじに金を手に入れることができるのか――といった、大きな伏線は、最後まで読まないとわからない。
小さな伏線で読者を引きつけてはなさず、大きな伏線を最後に回収してみせる。
その手並みはじつに見事。
それから、特筆すべきはプレイズワージのキャラクター。
機知に富み、困難にめげることのない不屈の精神をもちながら、物腰はあくまで柔らか。
つねに主人のかたわらにあり、主人を支え続ける。
その姿はジーヴズだって見劣りするほどだ。
このプレイズワージが、物語が進むにつれて変化していく。
代々執事の家系であるその職業意識はいささかのおとろえもみせないけれど、それに加えて新たな面がみいだされる。
登場時、山高帽にコウモリ傘といったいでたちだったプレイズワージは、抵抗しながらも、後半すっかり金鉱掘りの姿になってしまう。
後半は、プレイズワージが主人公だといっていいだろう。
そして、ラスト。
思いがけないことが次つぎと起こりながら、物語は大団円になだれこむ。
――まったく、なんて上手いのだろう
と、感嘆せずにはいられない。
最後に。
旧訳と新訳の冒頭を、それぞれ引用しておこう。
「ゴールドラッシュ」(金原瑞人・市川由季子/訳 ポプラ社 2006)
《両側に大きな水車のような外輪をつけた帆船が、ボストンの港をでた。水しぶきをあげ、ホーン岬まわりでサンフランシスコをめざしているところだ。甲板の下はぎしぎし音をたてるまっくらな船倉だ。そこにジャガイモのたるが十八個ならんでいた。そのうちのふたつのたるのなかにとなりあわせで密航者がひとりずつかくれていた。》
「ぼくのすてきな冒険旅行」
《両側に大きな車輪をつけた帆船が、波をけちらしながらボストン港を出帆した。ケープ・ホーン(南アメリカの最南端にある岬)まわり、サンフランシスコゆきの船である。
ところで、その船の甲板のはるか下、キシキシきしむ船倉のくらがりのなかに、十八個のジャガイモのたるがおいてある。そして、そのうちの二つのたるのなかに、肩をならべて、密航者がふたりしゃがんでいた。》
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霧の中の悪魔
「霧の中の悪魔」(リアン=ガーフィールド/著 飯島淳秀(よしひで)/訳 講談社 1971)
さし絵は、桑名起代至(きよし)。
ペン画のさし絵が、雰囲気があり素晴らしい。
装丁は、安野光雅。
――夏休みだから児童文学を読もう。
そう思って、まだ読んでいなかったこの本を読んでみた。
もう夏休みは終わりつつあるけれど。
本書は、英国の児童文学。
第1回ガーディアン賞受賞作。
話の筋立ては、ディケンズ風といったらいいだろうか。
突然、貴族の子どもだということになった少年の物語だ。
舞台は18世紀のイギリス。
主人公は、14歳のジョージ=トリート。
トリート一家は旅芸人。
大きなほろ馬車に乗り、町から町へ旅をする。
父は、トマス=トリート。
なかなかの発明家で、自分でいろいろな見世物をつくりだす。
子どもは、ジョージを筆頭に7人。
エドワード、ジェーン、ヘンリー、ネル、ホットスパー。
母親は、7年前に亡くなった。
トリート一座には、毎年6月と11月の3日、夜になると〈へんな人〉が訪れる。
場所はいつも、ライかサンウィッチ。
〈へんな人〉が訪れる時分になると、いつも陽気で威厳のあるトマス=トリートは、落ち着きを失う。
そして、みじめな様子で、あらわれた〈へんな人〉から金を受けとる。
ある、11月3日のこと。
宿屋で、化学実験のような〈ルシファーのけむり〉の見世物を披露していた一座のもとに、また〈へんな人〉があらわれる。
〈へんな人〉はいつもとちがい、こういい残して去る。
「もう、これっきりきませんぞ、トマス=トリートさん。わしのかしらの命令でな。――もう2度ときませんぞ」
それを聞いたトリート氏は、すっかり打ちのめされた様子に。
その夜遅く、父の様子をうかがいにきたジョージに、トリート氏はこう告げる。
「おまえはわたしのむすこじゃないんだ。おまえはえらい貴族の子なんだよ……」
ジョージは、じつは13年前に〈へんな人〉から預かった赤子だった。
ほんとうの父は、ジョン=デクスター卿というのだ。
一体なぜ、ジョージは13年前にトリート氏に預けられることになったのか。
またなぜ、いまになってデクスター卿のもとにもどることになったのか。
なんにもわからないまま、ジョージはサセックス州にある、いつも霧がたちこめているデクスター卿の屋敷に連れていかれ、そこでで暮らすことに――。
本書はジョージによる、〈ぼく〉の1人称。
訳は、どこがどうというわけではないけれど、すっかり古くなっている。
冒頭、〈へんな人〉について説明するジョージのことばはこんな風だ。
《「へんな人」は、いつも六月と十一月の三日に――ライかサンウィッチ(以前はファバシャムの町だったのが、ここに変わったんだ。)の町にやってくる。――きまって、こんなみょうなときにあらわれるんだ。……もっとも、そいつにはまったく、ま夏より、霧とじめじめした空気のほうが似あっていたな。といっても、そいつを、明るい日の光の中で見たことがあるってわけじゃないよ。そいつがあらわれるのは、いつも暗くなってからなんだ。》
語りかけるような語尾がいけないのだろうか。
14歳の少年が語る感じをだしたかったのだろうけれど、それが寿命を縮めることになってしまったのかもしれない。
ひょっとしたら、少女の1人称よりも、少年の1人称のほうが早く古びるのかも。
でも、ストーリーはサスペンスに満ちている。
ジョージがジョン=デクスター卿のお屋敷に着いてみると、ジョン卿は重傷を負い、ベッドに伏せっていた。
なぜ重傷を負ったかといえば、決闘をしたため。
しかも、相手は弟のリチャード大尉。
2人は相続のことで、決闘をするまでに仲がこじれてしまっている。
当時の英国は「限定相続」というものがあった。
ジョン卿には子どもがいないため、死ねば遺産はすべてリチャード大尉が受け継ぐ。
だから、ジョージがさらわれたのは、リチャード大尉がおこなった疑いがある。
それに、リチャード大尉は身持ちが悪い。
貴族にふさわしいとはいえない女と結婚し、次つぎと男の子をもうけた。
決闘のあと、リチャード大尉は逮捕され、ニューゲート監獄に入れられた。
ところが、リチャード大尉が脱獄したとの知らせが、デクスター家にもたらされる。
いろいろあって、屋敷の近所にあるシラカバの林のなかに身を隠しているリチャード大尉と、ジョージは対面。
すると思いがけなく、ジョージはリチャード大尉から、ジョン卿との仲直りを仲介してくれと頼まれる。
それから、トリート氏がジョージのもとを訪れてくる。
訪問の理由は、金の無心のため。
ジョージをデクスター家に返したことで受けとった1000ポンドは、ロンドンの公演のさい、劇場を丸焼けにしてしまったことでつかいつくしてしまった。
そう、トリート氏はいう。
――ひょっとすると、育ての親であるトリート氏も信用ならないひとなのだろうか?
ジョージは疑いの念にとらわれる。
ジョージは、デクスター家のひとたちに気に入られようと、けなげな努力をする。
ご近所のラムボールド家を訪問したさい、一座で身に着けた芝居を演じてみせる。
しかし、これは逆効果。
母親のデクスター夫人からひんしゅくを買ってしまう――。
すべてが霧のなかのようで、かつ遺産相続の話とくれば、これはでディケンズの「荒涼館」を思い出させる。
それに、庶民の子が突然紳士になるという筋立ては、「大いなる遺産」のようだ。
本書は、どう転ぶかわからないストーリーと、思わせぶりな雰囲気で、よく読ませる。
主人公のジョージは終始受け身。
そのことが、よりサスペンスを生んでいる。
でも、ラストは児童文学らしく、明快な結末がつけられる。
ここで、ジョージは大きな裏切りと直面することに。
この、〈裏切り〉というものも、児童文学でひとつのジャンルをなしているテーマだろう。
さし絵は、桑名起代至(きよし)。
ペン画のさし絵が、雰囲気があり素晴らしい。
装丁は、安野光雅。
――夏休みだから児童文学を読もう。
そう思って、まだ読んでいなかったこの本を読んでみた。
もう夏休みは終わりつつあるけれど。
本書は、英国の児童文学。
第1回ガーディアン賞受賞作。
話の筋立ては、ディケンズ風といったらいいだろうか。
突然、貴族の子どもだということになった少年の物語だ。
舞台は18世紀のイギリス。
主人公は、14歳のジョージ=トリート。
トリート一家は旅芸人。
大きなほろ馬車に乗り、町から町へ旅をする。
父は、トマス=トリート。
なかなかの発明家で、自分でいろいろな見世物をつくりだす。
子どもは、ジョージを筆頭に7人。
エドワード、ジェーン、ヘンリー、ネル、ホットスパー。
母親は、7年前に亡くなった。
トリート一座には、毎年6月と11月の3日、夜になると〈へんな人〉が訪れる。
場所はいつも、ライかサンウィッチ。
〈へんな人〉が訪れる時分になると、いつも陽気で威厳のあるトマス=トリートは、落ち着きを失う。
そして、みじめな様子で、あらわれた〈へんな人〉から金を受けとる。
ある、11月3日のこと。
宿屋で、化学実験のような〈ルシファーのけむり〉の見世物を披露していた一座のもとに、また〈へんな人〉があらわれる。
〈へんな人〉はいつもとちがい、こういい残して去る。
「もう、これっきりきませんぞ、トマス=トリートさん。わしのかしらの命令でな。――もう2度ときませんぞ」
それを聞いたトリート氏は、すっかり打ちのめされた様子に。
その夜遅く、父の様子をうかがいにきたジョージに、トリート氏はこう告げる。
「おまえはわたしのむすこじゃないんだ。おまえはえらい貴族の子なんだよ……」
ジョージは、じつは13年前に〈へんな人〉から預かった赤子だった。
ほんとうの父は、ジョン=デクスター卿というのだ。
一体なぜ、ジョージは13年前にトリート氏に預けられることになったのか。
またなぜ、いまになってデクスター卿のもとにもどることになったのか。
なんにもわからないまま、ジョージはサセックス州にある、いつも霧がたちこめているデクスター卿の屋敷に連れていかれ、そこでで暮らすことに――。
本書はジョージによる、〈ぼく〉の1人称。
訳は、どこがどうというわけではないけれど、すっかり古くなっている。
冒頭、〈へんな人〉について説明するジョージのことばはこんな風だ。
《「へんな人」は、いつも六月と十一月の三日に――ライかサンウィッチ(以前はファバシャムの町だったのが、ここに変わったんだ。)の町にやってくる。――きまって、こんなみょうなときにあらわれるんだ。……もっとも、そいつにはまったく、ま夏より、霧とじめじめした空気のほうが似あっていたな。といっても、そいつを、明るい日の光の中で見たことがあるってわけじゃないよ。そいつがあらわれるのは、いつも暗くなってからなんだ。》
語りかけるような語尾がいけないのだろうか。
14歳の少年が語る感じをだしたかったのだろうけれど、それが寿命を縮めることになってしまったのかもしれない。
ひょっとしたら、少女の1人称よりも、少年の1人称のほうが早く古びるのかも。
でも、ストーリーはサスペンスに満ちている。
ジョージがジョン=デクスター卿のお屋敷に着いてみると、ジョン卿は重傷を負い、ベッドに伏せっていた。
なぜ重傷を負ったかといえば、決闘をしたため。
しかも、相手は弟のリチャード大尉。
2人は相続のことで、決闘をするまでに仲がこじれてしまっている。
当時の英国は「限定相続」というものがあった。
ジョン卿には子どもがいないため、死ねば遺産はすべてリチャード大尉が受け継ぐ。
だから、ジョージがさらわれたのは、リチャード大尉がおこなった疑いがある。
それに、リチャード大尉は身持ちが悪い。
貴族にふさわしいとはいえない女と結婚し、次つぎと男の子をもうけた。
決闘のあと、リチャード大尉は逮捕され、ニューゲート監獄に入れられた。
ところが、リチャード大尉が脱獄したとの知らせが、デクスター家にもたらされる。
いろいろあって、屋敷の近所にあるシラカバの林のなかに身を隠しているリチャード大尉と、ジョージは対面。
すると思いがけなく、ジョージはリチャード大尉から、ジョン卿との仲直りを仲介してくれと頼まれる。
それから、トリート氏がジョージのもとを訪れてくる。
訪問の理由は、金の無心のため。
ジョージをデクスター家に返したことで受けとった1000ポンドは、ロンドンの公演のさい、劇場を丸焼けにしてしまったことでつかいつくしてしまった。
そう、トリート氏はいう。
――ひょっとすると、育ての親であるトリート氏も信用ならないひとなのだろうか?
ジョージは疑いの念にとらわれる。
ジョージは、デクスター家のひとたちに気に入られようと、けなげな努力をする。
ご近所のラムボールド家を訪問したさい、一座で身に着けた芝居を演じてみせる。
しかし、これは逆効果。
母親のデクスター夫人からひんしゅくを買ってしまう――。
すべてが霧のなかのようで、かつ遺産相続の話とくれば、これはでディケンズの「荒涼館」を思い出させる。
それに、庶民の子が突然紳士になるという筋立ては、「大いなる遺産」のようだ。
本書は、どう転ぶかわからないストーリーと、思わせぶりな雰囲気で、よく読ませる。
主人公のジョージは終始受け身。
そのことが、よりサスペンスを生んでいる。
でも、ラストは児童文学らしく、明快な結末がつけられる。
ここで、ジョージは大きな裏切りと直面することに。
この、〈裏切り〉というものも、児童文学でひとつのジャンルをなしているテーマだろう。
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ムーミンについて その4
ムーミンのコミックスは、これまで3つの出版社から出版されている。
講談社版(1969-1970)
福武書店版(1991-1993)
筑摩書房版(2000-2001)
まず、筑摩書房版からみていこう。
筑摩書房版は全14巻。
現在、もっともたくさんのムーミン・コミックスが読める版だ。
絵は、回によってかなりちがう。
印刷はいまひとつ。
英語版にくらべると、見劣りがする。
英語版はサイズが大きくて手軽に扱えないけれど、豪華版ということで、日本語版もこのサイズで出版したらよかったのに。
コミックスの最初のコマは、いつもムーミンのお尻からはじまる。
これは筑摩版にかぎらない、ムーミン・コミックスのお約束。
このお約束は、コミックスの性質をよくあらわしてあまりある。
コミックスは小説とくらべると、よりメリハリがついている。
ユーモラスで、軽快で、少し皮肉が効いている。
これは、コミックスという表現の性質のためだろう。
登場人物の性格にも同様のちがいが。
コミックスでは、よりディフォルメが効き、戯画化され、俗っぽくなっている。
そのため、スニフはほとんど守銭奴に。
「この情報は2万だな」
というようなことばかり口走る。
パパはより冒険好きに。
より、いっていることとやっていることがちがうように。
スノークの女の子はロマンスで頭がいっぱい。
ミムラも同様。
フィリフヨンカは世間体を大いに気にするように。
スナフキンやミイは変わらない。
ママのものごとを丸くおさめる手腕は、小説とくらべてより鮮やかになったようだ。
コミックスには、モランはほとんどでてこない。
モランのようなキャラクターは、コミックスでは身の置きどころがない。
代わりに、コミックスでだけ活躍するキャラクターもいる。
その代表は、毛むくじゃらの悪漢スティンキーだろう。
コミックスの最終巻、14巻の巻末に、全巻の収録作品が載っている。
それを引用しておきたい。
カッコ内は制作年。
1巻「黄金のしっぽ」
・黄金のしっぽ(1958)
・「ムーミンパパの灯台守」(1957)
2巻「あこがれの遠い土地」
・ムーミン谷のきままな暮らし(1958)
・タイムマシンでワイルドウェスト(1957)
・あこがれの遠い土地(1958)
・ムーミンママの小さなひみつ(1957)
3巻「ムーミン、海へいく」
・ムーミン、海へいく(1959)
・ジャングルになったムーミン谷(1956)
・スニフ、心をいれかえる(1968)
4巻「恋するムーミン」
・恋するムーミン(1956)
・家を建てよう(1956)
・ちっちゃなバンパイア(1964)
・署長さんの甥っ子(1962)
5巻「ムーミン谷のクリスマス」
・預言者あらわる(1956)
・イチジク茂みのへっぽこ博士(1959)
・ムーミン谷のクリスマス(1970)
6巻「おかしなお客さん」
・おかしなお客さん(1959)
・ミムラのダイヤモンド(1963)
・レディ危機一髪(1963)
7巻「まいごの火星人」
・まいごの火星人(1957)
・ムーミンママのノスタルジー(1965)
・わがままな人魚(1969)
8巻「ムーミンパパとひみつ団」
・やっかいな冬(1955)
・ムーミンパパとひみつ団(1960)
・ムーミン谷の小さな公園(1965)
9巻「彗星がふってくる日」
・彗星がふってくる日(1959)
・サーカスがやってきた(1960)
・大おばさんの遺言(1963)
10巻「春の気分」
・南の島にくりだそう(1953)
・ムーミン谷の宝さがし(1961)
・春の気分(1966)
11巻「魔法のカエルとおとぎの国」
・おさびし島のご先祖さま(1955)
・魔法のカエルとおとぎの国(1966)
・テレビづけのムーミンパパ(1954)
12巻「ふしぎなごっこ遊び」
・ふしぎなごっこ遊び(1956)
・ムーミンと魔法のランプ(1960)
・ムーミン谷の大スクープ(1968)
13巻「しあわせな日々」
・スナフキンの鉄道(1960)
・しあわせな日々(1971)
・まよえる革命家(1970)
14巻「ひとりぼっちのムーミン」
・ひとりぼっちのムーミン(1954)
・ムーミン谷の遠い道のり(1955)
・ムーミントロールと地球の終わり(1947)
最後の、「ムーミントロールと地球の終わり」は、フキダシのない、絵物語風のものだ。
さて。
コミックスには講談社版とベネッセ版もあると先に書いたけれど、講談社版の3巻だけ、たまたま手元にもっていた。
「ムーミンまんがシリーズ3 それいけムーミン」(1970)
訳者は、草森紳一。
収録作は3作。
「それいけムーミン」
「ムーミンと吸血鬼」
「ムーミンあぶない」
このうち、「ムーミンと吸血鬼」は、筑摩書房版の4巻に収録されている、「ちっちゃなバンパイア」と同じ話だ。
ところが、「それゆけムーミン」と「ムーミンあぶない」に当たる話が、筑摩書房版にはみあたらない。
その謎は、14巻の冨原眞弓さんの解説で解けた。
筑摩書房版は、ムーミンコミックスの全作品を収録したのではなかったのだ。
まず、コミックスは、トーベ・ヤンソンがひとりでつくりあげた作品ではない。
12歳年下の弟、ラルス・ヤンソンが大いにかかわっている。
「トーベが自分で絵を描いた全21話のなかでも、そのうちの8話は、たとえば「タイムマシンでワイルドウェスト」や「あこがれの遠い土地」のようなSFがかった話、「ムーミン谷のきままな暮らし」のように社会風刺のきいた話などは、ラルスの発案によるストーリーがもとになっています」
新聞社とトーベの契約が切れた1960年以降、ラルスはコミックスの仕事を引き継ぐ。
1975年の掲載終了まで、ひとりで15年もコミックスを描き続ける。
「今回の(筑摩書房版)新訳シリーズは、ヤンソン姉弟の母語であるスウェーデン語から訳し、トーベの描いた作品は残らず21話を、ラルスの作品からは21話を厳選し、あわせて42話を収録しました」
――ということであるらしい。
つまり、講談社版と筑摩書房版では、収録作がちがっている。
ちなみに、講談社版は、セリフの文字が縦書き。
本を右から開いて読むようになっている。
この修整は、けっこうな手間だったのではないか。
フィリフヨンカは、フィリジョンクと表記。
ガフサ夫人は、ギャフシー。
スノークの女の子は、最初のTVアニメ同様、ノンノンだ。
「それゆけムーミン」の冒頭はこう。
いつもの通りお尻を向けたムーミンに、ソフスがこう告げる。
「ムーミン きみをさがしているひとがいるよ」
すると、ムーミンはあわてて逃げだそうとする。
「うわっ きっとまた税務所なんだろう」
なんともシュールな出だしだ。
ムーミンが「また」といっているのは、以前にも税務署があらわれたことがあるからだ。
その話は、筑摩書房版に収録されていたと思うけれど、どの話だったか忘れてしまった。
福武書店版にも触れておこう。
手元にあるのは、「ムーミン一家とメイドのミザベル」(1992)
訳者は、野中しぎ。
福武書店版は横書き。
1ページにつき2段、コミックスが載せられている。
そのため、コマが大きい。
ちなみに、講談社版と筑摩書房版は3段。
英語版「The Complete Tove Jansson Comic Strip」は5段だ。
どうも福武書店版は、ムーミンコミックスを絵本の体裁にしたかったよう。
判型も絵本のようだし、収録されているのは、表題作の1話のみ。
スノークの女の子は、この版ではフローレンという。
やはり、出版時に放映中だったTVアニメ「楽しいムーミン一家」にあわせたのだろう。
本書、「ムーミン一家とメイドのミサベル」のストーリーは、隣に引っ越してきたフィリフヨンカに感化され、ムーミン一家がメイドのミサベルを雇うというもの。
TVアニメ「楽しいムーミン一家」のプロデューサーをつとめたという、野中しぎさんの訳は、非常にディフォルメが効いている。
フィリフヨンカはざあます言葉をつかい、ムーミンママにメイドを雇うよう念を押す。
「メイドのこと よくお考えあそばして! 家族にたいする義務ざますよ!」
そして、大変後ろ向きの考えのもち主であるメイドのミサベルは、なまりのある言葉づかいをする。
「だれも でむかえてくんねえんだ… だれも かまってくんねえんだ… ピンプル(ミサベルの飼い犬)かえろう」
筑摩版で、「ムーミン一家とメイドのミサベル」に当たる話は、12巻に収録された「ふしぎなごっこ遊び」。
冨原訳では、同じ個所はこんな風になる。
「お手伝いを頼みなさいな 家族への義務ですわよ!」
「出迎えてさえくれない… 歓迎されてないのね…」
そして、物語が進むにつれ、後ろ向きのミサベル(冨原訳ではミーサ)は、ムーミン一家の影響で楽しむことを学ぶようになる。
福武書店版には、ラルフ・ヤンソンによる文章がついている。
それによれば、メイドのミサベルは、ヤンソン家にいたメイドをモデルにしたとのこと。
さて。
最後はアニメについて。
アニメになったムーミンには、TVアニメ版と人形アニメがあるはず。
そして、TVアニメ版は2つのシリーズがあったはずだ。
でも、人形アニメ版はみたことがないし、TVアニメ版もほとんどみてはいない。
だから、書くことはあまりない。
ただ、アニメ制作者へのインタビュー集、「アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい2001-2002」(小黒祐一郎 講談社 2011)に、「楽しいムーミン一家」のキャラクターデザインを担当した、名倉靖博さんのインタビューが収録されていた。
そのなかで、ムーミンにかんするところだけ紹介したい。
名倉さんが描いた絵は、ヤンソンさんもお気に入りだったそう。
「番組がはじまる前に、キャラクターデザインのオーディションがあったんですよ。何人かのアニメーターがデザインを出したんですが、なかなかヤンソンさんからのOKが出なかったらしいんです。それである方が、僕が「ムーミン」が好きだということを知っていて、オーディションに参加しないかと誘ってくれたんです。僕が描いたムーミンのキャラクターをファックスでフィンランドに送ったところ、すぐにOKが出たらしいです」
こうして、名倉さんはキャラクターデザインをすることになる。
驚いたことに、デザインの回収は毎日あったそう。
それだけ、物量が多かったということだろう。
そして、個々のデザインも、ヤンソンさんは目を通していたという。
「時々、ヤンソンさんから「少しキャラクターを直してもらえませんか」と指示がファックスで送られてきて、そのとおりに直しますと、大喜びしてくれて」
「ヤンソンさんに媚びていたわけじゃないですけど、やはり作者ですから。キャラクターを大事にしているんですよね。その気持ちはすごくよく分かるので、できるだけ応えたいと思って作業しました」
それから、スノークに前髪をつけたのも名倉さんだったとのこと。
「スノークも旧作(のTVアニメのムーミン)では髪がありましたけれど、原作ではあれはカツラで、裁判のときにしかかぶっていないんです。原作ではスノークの頭ってツルンツルンなんですよ」
「でも、それではどちらがムーミンで、どちらがスノークかわからない。それで前髪が生えているパターンのスノークをつくったんですよ。たしか、ヤンソンさんも「Good!」っていってくれたと思います」
ところで、このインタビューはヤンソンさんが86歳で亡くなった、その翌日におこなわれたという。
名倉さんは感慨深げにこう述べている。
「ヤンソンさんとは、雑誌の記事で対談したことがあるんです。それが、ちょうど3月3日頃だったと思いますが、雛人形をプレゼントしたら、「サムライ、サムライ」といって喜んでくださいまして。可愛らしい方だなと思いました。…亡くなられたんだなあ、と思うと残念ですね」
講談社版(1969-1970)
福武書店版(1991-1993)
筑摩書房版(2000-2001)
まず、筑摩書房版からみていこう。
筑摩書房版は全14巻。
現在、もっともたくさんのムーミン・コミックスが読める版だ。
絵は、回によってかなりちがう。
印刷はいまひとつ。
英語版にくらべると、見劣りがする。
英語版はサイズが大きくて手軽に扱えないけれど、豪華版ということで、日本語版もこのサイズで出版したらよかったのに。
コミックスの最初のコマは、いつもムーミンのお尻からはじまる。
これは筑摩版にかぎらない、ムーミン・コミックスのお約束。
このお約束は、コミックスの性質をよくあらわしてあまりある。
コミックスは小説とくらべると、よりメリハリがついている。
ユーモラスで、軽快で、少し皮肉が効いている。
これは、コミックスという表現の性質のためだろう。
登場人物の性格にも同様のちがいが。
コミックスでは、よりディフォルメが効き、戯画化され、俗っぽくなっている。
そのため、スニフはほとんど守銭奴に。
「この情報は2万だな」
というようなことばかり口走る。
パパはより冒険好きに。
より、いっていることとやっていることがちがうように。
スノークの女の子はロマンスで頭がいっぱい。
ミムラも同様。
フィリフヨンカは世間体を大いに気にするように。
スナフキンやミイは変わらない。
ママのものごとを丸くおさめる手腕は、小説とくらべてより鮮やかになったようだ。
コミックスには、モランはほとんどでてこない。
モランのようなキャラクターは、コミックスでは身の置きどころがない。
代わりに、コミックスでだけ活躍するキャラクターもいる。
その代表は、毛むくじゃらの悪漢スティンキーだろう。
コミックスの最終巻、14巻の巻末に、全巻の収録作品が載っている。
それを引用しておきたい。
カッコ内は制作年。
1巻「黄金のしっぽ」
・黄金のしっぽ(1958)
・「ムーミンパパの灯台守」(1957)
2巻「あこがれの遠い土地」
・ムーミン谷のきままな暮らし(1958)
・タイムマシンでワイルドウェスト(1957)
・あこがれの遠い土地(1958)
・ムーミンママの小さなひみつ(1957)
3巻「ムーミン、海へいく」
・ムーミン、海へいく(1959)
・ジャングルになったムーミン谷(1956)
・スニフ、心をいれかえる(1968)
4巻「恋するムーミン」
・恋するムーミン(1956)
・家を建てよう(1956)
・ちっちゃなバンパイア(1964)
・署長さんの甥っ子(1962)
5巻「ムーミン谷のクリスマス」
・預言者あらわる(1956)
・イチジク茂みのへっぽこ博士(1959)
・ムーミン谷のクリスマス(1970)
6巻「おかしなお客さん」
・おかしなお客さん(1959)
・ミムラのダイヤモンド(1963)
・レディ危機一髪(1963)
7巻「まいごの火星人」
・まいごの火星人(1957)
・ムーミンママのノスタルジー(1965)
・わがままな人魚(1969)
8巻「ムーミンパパとひみつ団」
・やっかいな冬(1955)
・ムーミンパパとひみつ団(1960)
・ムーミン谷の小さな公園(1965)
9巻「彗星がふってくる日」
・彗星がふってくる日(1959)
・サーカスがやってきた(1960)
・大おばさんの遺言(1963)
10巻「春の気分」
・南の島にくりだそう(1953)
・ムーミン谷の宝さがし(1961)
・春の気分(1966)
11巻「魔法のカエルとおとぎの国」
・おさびし島のご先祖さま(1955)
・魔法のカエルとおとぎの国(1966)
・テレビづけのムーミンパパ(1954)
12巻「ふしぎなごっこ遊び」
・ふしぎなごっこ遊び(1956)
・ムーミンと魔法のランプ(1960)
・ムーミン谷の大スクープ(1968)
13巻「しあわせな日々」
・スナフキンの鉄道(1960)
・しあわせな日々(1971)
・まよえる革命家(1970)
14巻「ひとりぼっちのムーミン」
・ひとりぼっちのムーミン(1954)
・ムーミン谷の遠い道のり(1955)
・ムーミントロールと地球の終わり(1947)
最後の、「ムーミントロールと地球の終わり」は、フキダシのない、絵物語風のものだ。
さて。
コミックスには講談社版とベネッセ版もあると先に書いたけれど、講談社版の3巻だけ、たまたま手元にもっていた。
「ムーミンまんがシリーズ3 それいけムーミン」(1970)
訳者は、草森紳一。
収録作は3作。
「それいけムーミン」
「ムーミンと吸血鬼」
「ムーミンあぶない」
このうち、「ムーミンと吸血鬼」は、筑摩書房版の4巻に収録されている、「ちっちゃなバンパイア」と同じ話だ。
ところが、「それゆけムーミン」と「ムーミンあぶない」に当たる話が、筑摩書房版にはみあたらない。
その謎は、14巻の冨原眞弓さんの解説で解けた。
筑摩書房版は、ムーミンコミックスの全作品を収録したのではなかったのだ。
まず、コミックスは、トーベ・ヤンソンがひとりでつくりあげた作品ではない。
12歳年下の弟、ラルス・ヤンソンが大いにかかわっている。
「トーベが自分で絵を描いた全21話のなかでも、そのうちの8話は、たとえば「タイムマシンでワイルドウェスト」や「あこがれの遠い土地」のようなSFがかった話、「ムーミン谷のきままな暮らし」のように社会風刺のきいた話などは、ラルスの発案によるストーリーがもとになっています」
新聞社とトーベの契約が切れた1960年以降、ラルスはコミックスの仕事を引き継ぐ。
1975年の掲載終了まで、ひとりで15年もコミックスを描き続ける。
「今回の(筑摩書房版)新訳シリーズは、ヤンソン姉弟の母語であるスウェーデン語から訳し、トーベの描いた作品は残らず21話を、ラルスの作品からは21話を厳選し、あわせて42話を収録しました」
――ということであるらしい。
つまり、講談社版と筑摩書房版では、収録作がちがっている。
ちなみに、講談社版は、セリフの文字が縦書き。
本を右から開いて読むようになっている。
この修整は、けっこうな手間だったのではないか。
フィリフヨンカは、フィリジョンクと表記。
ガフサ夫人は、ギャフシー。
スノークの女の子は、最初のTVアニメ同様、ノンノンだ。
「それゆけムーミン」の冒頭はこう。
いつもの通りお尻を向けたムーミンに、ソフスがこう告げる。
「ムーミン きみをさがしているひとがいるよ」
すると、ムーミンはあわてて逃げだそうとする。
「うわっ きっとまた税務所なんだろう」
なんともシュールな出だしだ。
ムーミンが「また」といっているのは、以前にも税務署があらわれたことがあるからだ。
その話は、筑摩書房版に収録されていたと思うけれど、どの話だったか忘れてしまった。
福武書店版にも触れておこう。
手元にあるのは、「ムーミン一家とメイドのミザベル」(1992)
訳者は、野中しぎ。
福武書店版は横書き。
1ページにつき2段、コミックスが載せられている。
そのため、コマが大きい。
ちなみに、講談社版と筑摩書房版は3段。
英語版「The Complete Tove Jansson Comic Strip」は5段だ。
どうも福武書店版は、ムーミンコミックスを絵本の体裁にしたかったよう。
判型も絵本のようだし、収録されているのは、表題作の1話のみ。
スノークの女の子は、この版ではフローレンという。
やはり、出版時に放映中だったTVアニメ「楽しいムーミン一家」にあわせたのだろう。
本書、「ムーミン一家とメイドのミサベル」のストーリーは、隣に引っ越してきたフィリフヨンカに感化され、ムーミン一家がメイドのミサベルを雇うというもの。
TVアニメ「楽しいムーミン一家」のプロデューサーをつとめたという、野中しぎさんの訳は、非常にディフォルメが効いている。
フィリフヨンカはざあます言葉をつかい、ムーミンママにメイドを雇うよう念を押す。
「メイドのこと よくお考えあそばして! 家族にたいする義務ざますよ!」
そして、大変後ろ向きの考えのもち主であるメイドのミサベルは、なまりのある言葉づかいをする。
「だれも でむかえてくんねえんだ… だれも かまってくんねえんだ… ピンプル(ミサベルの飼い犬)かえろう」
筑摩版で、「ムーミン一家とメイドのミサベル」に当たる話は、12巻に収録された「ふしぎなごっこ遊び」。
冨原訳では、同じ個所はこんな風になる。
「お手伝いを頼みなさいな 家族への義務ですわよ!」
「出迎えてさえくれない… 歓迎されてないのね…」
そして、物語が進むにつれ、後ろ向きのミサベル(冨原訳ではミーサ)は、ムーミン一家の影響で楽しむことを学ぶようになる。
福武書店版には、ラルフ・ヤンソンによる文章がついている。
それによれば、メイドのミサベルは、ヤンソン家にいたメイドをモデルにしたとのこと。
さて。
最後はアニメについて。
アニメになったムーミンには、TVアニメ版と人形アニメがあるはず。
そして、TVアニメ版は2つのシリーズがあったはずだ。
でも、人形アニメ版はみたことがないし、TVアニメ版もほとんどみてはいない。
だから、書くことはあまりない。
ただ、アニメ制作者へのインタビュー集、「アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい2001-2002」(小黒祐一郎 講談社 2011)に、「楽しいムーミン一家」のキャラクターデザインを担当した、名倉靖博さんのインタビューが収録されていた。
そのなかで、ムーミンにかんするところだけ紹介したい。
名倉さんが描いた絵は、ヤンソンさんもお気に入りだったそう。
「番組がはじまる前に、キャラクターデザインのオーディションがあったんですよ。何人かのアニメーターがデザインを出したんですが、なかなかヤンソンさんからのOKが出なかったらしいんです。それである方が、僕が「ムーミン」が好きだということを知っていて、オーディションに参加しないかと誘ってくれたんです。僕が描いたムーミンのキャラクターをファックスでフィンランドに送ったところ、すぐにOKが出たらしいです」
こうして、名倉さんはキャラクターデザインをすることになる。
驚いたことに、デザインの回収は毎日あったそう。
それだけ、物量が多かったということだろう。
そして、個々のデザインも、ヤンソンさんは目を通していたという。
「時々、ヤンソンさんから「少しキャラクターを直してもらえませんか」と指示がファックスで送られてきて、そのとおりに直しますと、大喜びしてくれて」
「ヤンソンさんに媚びていたわけじゃないですけど、やはり作者ですから。キャラクターを大事にしているんですよね。その気持ちはすごくよく分かるので、できるだけ応えたいと思って作業しました」
それから、スノークに前髪をつけたのも名倉さんだったとのこと。
「スノークも旧作(のTVアニメのムーミン)では髪がありましたけれど、原作ではあれはカツラで、裁判のときにしかかぶっていないんです。原作ではスノークの頭ってツルンツルンなんですよ」
「でも、それではどちらがムーミンで、どちらがスノークかわからない。それで前髪が生えているパターンのスノークをつくったんですよ。たしか、ヤンソンさんも「Good!」っていってくれたと思います」
ところで、このインタビューはヤンソンさんが86歳で亡くなった、その翌日におこなわれたという。
名倉さんは感慨深げにこう述べている。
「ヤンソンさんとは、雑誌の記事で対談したことがあるんです。それが、ちょうど3月3日頃だったと思いますが、雛人形をプレゼントしたら、「サムライ、サムライ」といって喜んでくださいまして。可愛らしい方だなと思いました。…亡くなられたんだなあ、と思うと残念ですね」
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ムーミンについて その3
「ムーミン谷の11月」
この、ムーミンシリーズの最終巻は破格の設定。
というのも、この作品には、ムーミン一家がでてこないのだ。
登場するのは、スナフキン、お話をつくるのが好きなちびっこホムサのトフト、フィリフヨンカ、ヘムレンさん、ミムラねえさん、スクルッタおじさん、などなど。
全員、一家のいないムーミン屋敷にやってきて、しばらくのあいだともに暮らす。
一緒に暮らしていると、当然、衝突したりいきちがったりする。
でも、それで、なにがどうなるというわけではない。
どうなるというわけではないけれど、たしかにある時間がたったのだという感触がある。
なんとなくはじまった共同生活は、なんとなく終わる。
もう充分ある時間をすごしたのだと登場人物たちは思い、読んでいるこちらもそれを了解する。
「ムーミンパパ海へいく」でやったことを、ムーミン一家以外の登場人物でやったのがこの作品といえるだろうか。
よくまあこんなことができるものだと感服。
本書で印象的なのは、スナフキンがとり乱す場面。
橋に立札をたてようとするヘムレンさんに、立札が大嫌いなスナフキンが食ってかかる。
テントから飛びだしてきて、「やめろ、すぐにやめろ」と怒鳴る。
ふだん悟りすましたような顔をしているスナフキンがとり乱すのは、ちょっと感動的だ。
ムーミン一家が舟に乗ってもどってくるところで、本書は幕。
ひょっとしたら、この話は、ムーミン一家が灯台の島で暮らしていたあいだの話なのかもしれない。
最後に、海から舟がやってくるというのは、シリーズの最後にふさわしい、美しい幕切れだ。
そして、いよいよ最終巻。
「小さなトロールと大きな洪水」
といっても、序文や、訳者あとがきや、解説によれば、この作品はヤンソンさんの処女作だそう。
つまり、ムーミンシリーズの最初の作品。
書きはじめられたのは、第2次大戦中の1939年の冬。
戦争中におとぎ話を書くのは気がひけたので、だれにも内緒でこっそり書いた。
はじめの1、2章だけ書きほったらかしにしていたものを、1945年、戦争が終わると思いだし、友人の提案を受け入れて挿絵をつけ、子ども向けの本として出版した――とのこと。
本書は日本で翻訳出版されたのは、ムーミンシリーズ中一番遅かった。
解説を書いている、フィンランド文学研究家の高橋静男さんによれば、翻訳をヤンソンさんに打診したところ、処女作は出来が悪いからといって、原本さえみせてくれなかったという。
ところが、1982年の夏、ヤンソンさんから原作のコピーが送られてくる。
そこには、このままで翻訳出版してもいい、ただしいずれ書き直すつもりだという添え書きが。
そこでまた様子見。
でも、けっきょく書き直されることはなく、本書は1992年に出版された。
さて、ストーリー。
冒頭、ムーミンとママが、家を建てるのにふさわしい、あたたかくて気持ちのいい場所をもとめて森をさまよっている。
パパはある日、ニョロニョロたちと一緒に旅にでてしまった。
途中、スニフと出会ったり、チューリップの花のなかに住む、輝く青い髪の毛をもつ少女、チューリッパと出会ったりして、ともに旅をする。
一行は、年をとった男のつくった遊園地を通り抜け、浜辺でライオンみたいな顔をしたアリジゴクとあらそい、パパに会えるのではないかとニョロニョロたちと一緒に海にでて、真っ赤な髪をした少年のいる島にたどり着く。
そこで、パパのいき先を聞き、南へ向かう。
そのうちに、大雨が降ってきて、なにもかも水びたしに。
すると、手紙の入ったビンが流れてきて、それは助けをもとめるパパの手紙で――。
後年の、途方もない完成度からくらべると、本書はだいぶ落ちる。
物語は一本調子だし、文章には粘りがなく、挿絵も稚拙。
でも、のちのシリーズと変わらないところも多々。
冒頭、ムーミンとママがたいした説明もなく、突然といっていい調子で森のなかをさまよっていることなどは、そのいい例だろう。
説明なしで登場人物を登場させ、しかも読者に読ませるという、ヤンソンさんの不思議な力は、この処女作から発揮されている。
そして、このときはまだ、2人にパパをさがす様子はみられない。
2人は、物語の途中からパパをさがしはじめる。
このプロットのゆるさも後年のシリーズと同様。
また、やけに自然災害が扱われるのも後年のシリーズをほうふつとさせる。
それから、のちのシリーズでもでてくるキャラクターが登場するのが楽しい。
ニョロニョロは、この最初の作品から登場していた。
しかも、ちゃんと深ぶかとおじぎをしている。
ニョロニョロは登場時から完成されたキャラクターだったのだ。
また、「ニョロニョロと一緒に旅立ってしまったパパ」のイメージは、のちの短編、「ニョロニョロのひみつ」につながるものだろう。
ヘルムも登場しているけれど、こちらは後年の絵とは似ても似つかない。
――というわけで。
シリーズすべてのメモをとってみた。
ムーミンの登場人物たちは一致団結することがない。
傾いた店を立て直したり、強豪校を破って全国大会に出場したり、敵をほろぼしたり、世界をすくったりしない。
ただただ、登場人物たちの交流がえがかれるだけだ。
それがこんなに面白い。
なにより、ちゃんと時間がたった感じがするところが素晴らしい。
読んでいると、女性が書いた作品だという感じがとてもする。
ちょうど、ことしはヤンソンさんの生誕100年に当たるそう。
それにちなんで、デパートでムーミン展なる催しが開かれていたので、いってみた。
展示されているのは、ほとんど白黒の挿絵の原画。
よくみると、紙を貼って修正した跡がうかがえるものもある。
また、いくつか習作が展示されている。
そんなのをみるのが楽しい。
それにしても、まあ大変な上手さだ。
挿絵なので、展示品はみな小さい。
会場はひとでいっぱいで、小さな挿絵を二重三重にひとがかこむ。
おかげで、ゆっくりみられない。
会場にはDVDの映像も流れていた。
ヤンソンさんがやたら大きな黒猫を抱いて、腰を振りながら踊っている。
この黒猫は、「小さなトロールと大きな洪水」に載せられていた写真でヤンソンさんが抱いている黒猫と、同じ猫だろうか。
会場の最後には、ムーミン谷のジオラマが。
物語の場面にあわせ、細部までよくつくりこんである。
大勢のお客がスマホをかかげて写真を撮っていた。
その先のグッズ売場が、また大変なひとごみ。
ムーミンが、こんなに人気があるとは知らなかった。
グッズの売り上げが見こめるからこそ、デパートは展覧会を催したのだろう。
少しだけ、端っこのほうをみてまわったら、ニョロニョロの形をしたトングをみつけた。
これはアイデアだ。
それにしても。
なぜ、フィンランドに旅行したときに、現地の美術館にいかなかったのか。
そしたら、もっとゆっくりみてまわれたろうに。
そればかりが悔やまれる。
まあ、ムーミンに興味をもったのが、旅行のあとだったのだから仕方がない。
グッズは買わなかったけれど、図録は購入。
正方形をした、白い瀟洒なできばえの本。
銀色に輝くポストカードが同封されていて、それは「ムーミンパパ海へいく」からとられた、ムーミンとモランが向かいあっている場面のものだった。
図録にはヤンソンさんの年譜があり、知りたかったムーミンシリーズの制作年が記されていた。
以下、必要なとろこだけ抜き書き。
1945(31歳)「小さなトロールと大きな洪水」刊行。
1946(32歳)「ムーミン谷の彗星」刊行。
1947(33歳)雑誌「現代」にコミック「ムーミントロールと世界の終わり」を連載(~1948)。
1948(34歳)「たのしいムーミン一家」刊行。
1950(36歳)「ムーミンパパの思い出」刊行。
1954(40歳)イギリスの日刊紙「イブニングニュース」でマンガ「ムーミントロール」連載開始。最初はトーベが、後に弟のラルスが執筆を担当。
1962(48歳)「ムーミン谷の仲間たち」刊行。
1965(51歳)小説「彫刻家の娘」刊行。以降小説も執筆する。
1970(56歳)最終作「ムーミン谷の十一月」刊行。
さて。
ムーミンシリーズは物語だけで終わりではない。
コミックスがあり、アニメがある。
それについても少し触れたい――。
この、ムーミンシリーズの最終巻は破格の設定。
というのも、この作品には、ムーミン一家がでてこないのだ。
登場するのは、スナフキン、お話をつくるのが好きなちびっこホムサのトフト、フィリフヨンカ、ヘムレンさん、ミムラねえさん、スクルッタおじさん、などなど。
全員、一家のいないムーミン屋敷にやってきて、しばらくのあいだともに暮らす。
一緒に暮らしていると、当然、衝突したりいきちがったりする。
でも、それで、なにがどうなるというわけではない。
どうなるというわけではないけれど、たしかにある時間がたったのだという感触がある。
なんとなくはじまった共同生活は、なんとなく終わる。
もう充分ある時間をすごしたのだと登場人物たちは思い、読んでいるこちらもそれを了解する。
「ムーミンパパ海へいく」でやったことを、ムーミン一家以外の登場人物でやったのがこの作品といえるだろうか。
よくまあこんなことができるものだと感服。
本書で印象的なのは、スナフキンがとり乱す場面。
橋に立札をたてようとするヘムレンさんに、立札が大嫌いなスナフキンが食ってかかる。
テントから飛びだしてきて、「やめろ、すぐにやめろ」と怒鳴る。
ふだん悟りすましたような顔をしているスナフキンがとり乱すのは、ちょっと感動的だ。
ムーミン一家が舟に乗ってもどってくるところで、本書は幕。
ひょっとしたら、この話は、ムーミン一家が灯台の島で暮らしていたあいだの話なのかもしれない。
最後に、海から舟がやってくるというのは、シリーズの最後にふさわしい、美しい幕切れだ。
そして、いよいよ最終巻。
「小さなトロールと大きな洪水」
といっても、序文や、訳者あとがきや、解説によれば、この作品はヤンソンさんの処女作だそう。
つまり、ムーミンシリーズの最初の作品。
書きはじめられたのは、第2次大戦中の1939年の冬。
戦争中におとぎ話を書くのは気がひけたので、だれにも内緒でこっそり書いた。
はじめの1、2章だけ書きほったらかしにしていたものを、1945年、戦争が終わると思いだし、友人の提案を受け入れて挿絵をつけ、子ども向けの本として出版した――とのこと。
本書は日本で翻訳出版されたのは、ムーミンシリーズ中一番遅かった。
解説を書いている、フィンランド文学研究家の高橋静男さんによれば、翻訳をヤンソンさんに打診したところ、処女作は出来が悪いからといって、原本さえみせてくれなかったという。
ところが、1982年の夏、ヤンソンさんから原作のコピーが送られてくる。
そこには、このままで翻訳出版してもいい、ただしいずれ書き直すつもりだという添え書きが。
そこでまた様子見。
でも、けっきょく書き直されることはなく、本書は1992年に出版された。
さて、ストーリー。
冒頭、ムーミンとママが、家を建てるのにふさわしい、あたたかくて気持ちのいい場所をもとめて森をさまよっている。
パパはある日、ニョロニョロたちと一緒に旅にでてしまった。
途中、スニフと出会ったり、チューリップの花のなかに住む、輝く青い髪の毛をもつ少女、チューリッパと出会ったりして、ともに旅をする。
一行は、年をとった男のつくった遊園地を通り抜け、浜辺でライオンみたいな顔をしたアリジゴクとあらそい、パパに会えるのではないかとニョロニョロたちと一緒に海にでて、真っ赤な髪をした少年のいる島にたどり着く。
そこで、パパのいき先を聞き、南へ向かう。
そのうちに、大雨が降ってきて、なにもかも水びたしに。
すると、手紙の入ったビンが流れてきて、それは助けをもとめるパパの手紙で――。
後年の、途方もない完成度からくらべると、本書はだいぶ落ちる。
物語は一本調子だし、文章には粘りがなく、挿絵も稚拙。
でも、のちのシリーズと変わらないところも多々。
冒頭、ムーミンとママがたいした説明もなく、突然といっていい調子で森のなかをさまよっていることなどは、そのいい例だろう。
説明なしで登場人物を登場させ、しかも読者に読ませるという、ヤンソンさんの不思議な力は、この処女作から発揮されている。
そして、このときはまだ、2人にパパをさがす様子はみられない。
2人は、物語の途中からパパをさがしはじめる。
このプロットのゆるさも後年のシリーズと同様。
また、やけに自然災害が扱われるのも後年のシリーズをほうふつとさせる。
それから、のちのシリーズでもでてくるキャラクターが登場するのが楽しい。
ニョロニョロは、この最初の作品から登場していた。
しかも、ちゃんと深ぶかとおじぎをしている。
ニョロニョロは登場時から完成されたキャラクターだったのだ。
また、「ニョロニョロと一緒に旅立ってしまったパパ」のイメージは、のちの短編、「ニョロニョロのひみつ」につながるものだろう。
ヘルムも登場しているけれど、こちらは後年の絵とは似ても似つかない。
――というわけで。
シリーズすべてのメモをとってみた。
ムーミンの登場人物たちは一致団結することがない。
傾いた店を立て直したり、強豪校を破って全国大会に出場したり、敵をほろぼしたり、世界をすくったりしない。
ただただ、登場人物たちの交流がえがかれるだけだ。
それがこんなに面白い。
なにより、ちゃんと時間がたった感じがするところが素晴らしい。
読んでいると、女性が書いた作品だという感じがとてもする。
ちょうど、ことしはヤンソンさんの生誕100年に当たるそう。
それにちなんで、デパートでムーミン展なる催しが開かれていたので、いってみた。
展示されているのは、ほとんど白黒の挿絵の原画。
よくみると、紙を貼って修正した跡がうかがえるものもある。
また、いくつか習作が展示されている。
そんなのをみるのが楽しい。
それにしても、まあ大変な上手さだ。
挿絵なので、展示品はみな小さい。
会場はひとでいっぱいで、小さな挿絵を二重三重にひとがかこむ。
おかげで、ゆっくりみられない。
会場にはDVDの映像も流れていた。
ヤンソンさんがやたら大きな黒猫を抱いて、腰を振りながら踊っている。
この黒猫は、「小さなトロールと大きな洪水」に載せられていた写真でヤンソンさんが抱いている黒猫と、同じ猫だろうか。
会場の最後には、ムーミン谷のジオラマが。
物語の場面にあわせ、細部までよくつくりこんである。
大勢のお客がスマホをかかげて写真を撮っていた。
その先のグッズ売場が、また大変なひとごみ。
ムーミンが、こんなに人気があるとは知らなかった。
グッズの売り上げが見こめるからこそ、デパートは展覧会を催したのだろう。
少しだけ、端っこのほうをみてまわったら、ニョロニョロの形をしたトングをみつけた。
これはアイデアだ。
それにしても。
なぜ、フィンランドに旅行したときに、現地の美術館にいかなかったのか。
そしたら、もっとゆっくりみてまわれたろうに。
そればかりが悔やまれる。
まあ、ムーミンに興味をもったのが、旅行のあとだったのだから仕方がない。
グッズは買わなかったけれど、図録は購入。
正方形をした、白い瀟洒なできばえの本。
銀色に輝くポストカードが同封されていて、それは「ムーミンパパ海へいく」からとられた、ムーミンとモランが向かいあっている場面のものだった。
図録にはヤンソンさんの年譜があり、知りたかったムーミンシリーズの制作年が記されていた。
以下、必要なとろこだけ抜き書き。
1945(31歳)「小さなトロールと大きな洪水」刊行。
1946(32歳)「ムーミン谷の彗星」刊行。
1947(33歳)雑誌「現代」にコミック「ムーミントロールと世界の終わり」を連載(~1948)。
1948(34歳)「たのしいムーミン一家」刊行。
1950(36歳)「ムーミンパパの思い出」刊行。
1954(40歳)イギリスの日刊紙「イブニングニュース」でマンガ「ムーミントロール」連載開始。最初はトーベが、後に弟のラルスが執筆を担当。
1962(48歳)「ムーミン谷の仲間たち」刊行。
1965(51歳)小説「彫刻家の娘」刊行。以降小説も執筆する。
1970(56歳)最終作「ムーミン谷の十一月」刊行。
さて。
ムーミンシリーズは物語だけで終わりではない。
コミックスがあり、アニメがある。
それについても少し触れたい――。
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ムーミンについて その2
前回は、「ムーミン谷の仲間たち」についてふれた。
今回は簡単に長編についてみていきたい。
読んだ順番にいく。
「ムーミン谷の仲間たち」のあとに読んだのは、「たのしいムーミン一家」。
冬眠から目覚めたムーミンたちは、〈おさびし山〉にでかける。
そのてっぺんで、真っ黒いシルクハットをみつける。
これが、じつは魔法の帽子。
この不思議な帽子のおかげで、さまざまな騒動が起こる。
ところで、この帽子は〈飛行おに〉という人物が落としていったものだった。
飛行おには、いつも黒ヒョウに乗り、ルビーをあつめてまわっている。
〈ルビーの王さま〉を手に入れるために、ほかの星までさがしにでかけ、いまは月をさまよっているという。
その〈ルビーの王さま〉をもっている人物が、ムーミン谷にあらわれる。
その人物とは、トフスランとズフスランという、いささか手ぐせの悪い夫婦。
2人はモランという、触れたものをみな凍らせる不気味なおばあさんから、〈ルビーの王さま〉を手に入れていたのだ。
トフスランとズフスランを追って、モランもあらわれる。
が、ムーミンママの機転により、モランは飛行おにのシルクハットをもらって去っていく。
そして、物語の最後に、〈ルビーの王さま〉をもとめて、飛行おにがやってきて――。
とまあ、本筋だけ抜きだしてみた。
でも、本書の魅力は、しばしば本筋をおおい隠してしまうほどよく茂った、豊かな脇筋にある。
本書には、各章に小見出しがついているのだけれど、たとえば第4章の小見出しはこんな風だ。
「ニョロニョロが夜おそってくる。おかげでスノークのおじょうさんが、髪の毛をなくす。はなれ島でのいちばんめざましい発見」
これは一体、なにがなにやら。
ところが、読むとじっさいこういうことが起こっているのだから驚いてしまう。
しかも、この章で起こることは、本筋とはまるで関係がないのだから、さらに驚く。
こんなに脇筋だらけで、一体どうやってストーリーを着地させるつもりだろうと思って読んでいると、最後の最後でじつにうまく物語は大団円をむかえる。
この構成は素晴らしい。
「たのしいムーミン一家」は、本筋と脇筋のバランスがうまくとれた、児童文学の傑作といえるだろう。
あと、これは細かい話になるけれど、冒頭、ムーミンたちが冬眠から目覚める場面で、スナフキンも一緒に冬眠していたのにはびっくりした。
たしか、最初のTVアニメのシリーズでは、最終回、冬眠するムーミンたちに別れを告げ、スナフキンがムーミン谷を去るのではなかったっけ。
さらに細かい話をすると、ムーミンたちは冬眠するとき、なぜだか知らないけれど「松の葉っぱ」を食べる。
でも、富原真弓さん訳のコミック版をみると、食べているのは「もみの木の葉っぱ」だ。
ところが、コミックの英訳版をみると、「Paine Tree」となっていて、やっぱり松の葉っぱを食べているよう。
いやでも、北欧に松は生えているんだろうか。
謎が謎を呼ぶ。
それから。
本書でも、ヘムレンさんが登場する。
このヘムレンさんは、どうも「ムーミン谷の仲間たち」に登場したヘムレンさんとは別人のよう。
ムーミン・シリーズは、ムーミン一家やスナフキンなどのキャラクターははっきりしているけれど、ヘムレンさんやホムサあたりになると、人物像がぼやけて、あやふやになってくる。
しかも、ヘムレンさんの場合、同じ名前だったりするから、ことはややこしい。
さて。
次に読んだのは「ムーミン谷の彗星」。
この作品は、文字通り、ムーミン谷に彗星がぶつかるという話。
ムーミン谷の危機に、ムーミンやスナフキンやスニフが右往左往する。
作中、ムーミンとスニフは、彗星のことを調べるため、川を下り、天文台に向かう。
その途中、2人はスナフキンと出会う。
その場面はこうだ。
「ハーモニカの音がやんで、テントからは一ぴきのムムリクがあらわれました」
どうやらスナフキンは、ムムリク族の1匹であるらしい。
では、ムムリクとはなんなのか。
そんな説明は例のごとく一切なしだ。
登場人物が説明なしで突然あわられるのは、ムーミン作品の大きな特徴だろう。
次は、「ムーミンの夏まつり」。
火山の噴火により、海の水が押し寄せ、ムーミン谷は水びたしに。
一家は、たまたま出会ったホムサとミーサとともに、流されてきた家みたいなもの――じつは劇場――に移り住む。
劇場は、もみの木湾に流れ着き、ムーミンとスノークのお嬢さんが一家とはなればなれになったり、ミイが水に流されたり、そのあげくスナフキンと再会したり、スナフキンは大勢の子どもをかかえたり、一家は劇をもよおしたりする。
もちろん、最後はみんなめでたく再会して、ムーミン谷にもどり、大団円をむかえる。
「たのしいムーミン一家」にならぶ、愉快な児童文学。
思いがけないことがたくさん起こっても、語り口はいたって平静。
登場人物たちは、自分を見失うことがなく、安心して読み進められる。
それにしても、ムーミン谷はなかなか自然災害が多いところだ。
この作品で印象深いのは、スナフキンが公園番にいたずらを仕掛ける場面。
公園番は、公園のあちこちに「なになに禁止」と立札を立てている。
それが、立札が嫌いなスナフキンは気に入らない。
スナフキンが公園番に仕掛けたいたずらは、「ニョロニョロの種をまく」というもの。
なんと、ニョロニョロは種から生まれるのだ。
でも、まくのは夏祭りのイブにかぎられる。
スナフキンがまいた種のおかげで、公園はニョロニョロだらけに――。
さて。
ムーミンシリーズが児童文学らしいのは、このへんまでだ。
(といっても、作者がどんな順番で書いたか知らないから、自分が読んだ順番での話になるけれど)
「夏まつり」以降のムーミン作品は、筋があるのかないのかわからなくなっていく。
本筋は消えるというか、深く静かに潜航していくというか、そんな風になり、ひと目でわかりにくくなる。
全編に渡り、ただただ登場人物たちのやりとりだけがくり広げられるようになっていく。
「ムーミン谷の冬」
11月から4月まで冬眠するのが、ムーミン一家のしきたり。
ところが、ムーミンだけがなぜか目をさましてしまう。
(ちなみに、この巻では、スナフキンは毎年10月になると南にでかけ、春になるとムーミン谷にもどってくるようだ)
なぜかミイも目覚める。
ムーミン一家が夏のあいだつかっている水浴び小屋にはおしゃまさん(ティトゥッキ)が住んでいる。
雪のなかでは、ムーミンの知らないさまざまな生きものが暮らしている。
連中とは仲良くなれそうにない。
ムーミンは大変心細い思いをする。
そのうち、モランやフィリフヨンカや、ちょこちょこばしりのサロメちゃんや、騒ぞうしいヘムレンさんや、犬のめそめそといったキャラクターが登場する。
しかし、なんといっても一番の驚きは、ムーミンのご先祖さまがあらわれることだろう。
ご先祖さまは毛むくじゃら。
1000年ほどの歳月で、ムーミン一族からは毛がなくなってしまったらしいのだ。
本書には筋らしい筋はない。
ただ、ムーミンがひと冬をすごすというだけの話だ。
でも、ムーミンの心細さが全編をおおっていて、作品になんともいえない深みと静けさをあたえている。
「ムーミンパパの思い出」
ある日、カゼをひいて寝こんだパパは、「どうせ外にでられないんだから」とママにいわれ、自伝を書くことに。
パパは、書き上がるたびに、皆に読んで聞かせる。
それを聞いたムーミンやスニフやスナフキンは、あれこれと感想を述べる。
つまり、この作品は、作者の文章、パパの書いた自伝、それを聞いたムーミンたちの感想という、3層から成っている。
なかなか凝った語り口。
さて、自伝によれば、パパは捨て子ホームに捨てられていた捨て子だった。
大きくなったパパは、ヘムレンさんが経営する窮屈なホームを脱走。
フレドリクソンと、その甥でなぜか片手鍋をかぶっているロッドユール、それにヨクサルと出会い、みんなでつくった船に乗りこんで航海へ。
旅の途中、モランがでてきたり、ニブリングに出会ったり。ヘムレンさんに再会したり、ニョロニョロをみかけたり。
最後はママとのなれそめで幕。
パパの自伝は、脈絡があるんだかないんだかよくわからない。
そこが魅力といったら可笑しいか。
ところどころ鼻もちならない発言があるのもご愛嬌。
「ムーミンパパ海へいく」とあわせて読むと、作者のヤンソンさんはずいぶん父親のことが好きだったのではないかと思わせられる。
本書では、登場人物たちの系図の一端が明かされる。
スニフは、ロッドユールとソースユールの子どもだった。
でも、ソースユールはいったい何者なのか、登場したとたん結婚するのでわからない。
また、スナフキンはヨクサルとミムラの子どもだった。
つまり、スナフキンとメイは義理の兄妹ということになる。
パパの自伝はママとのなれそめで終わるけれど、本書はもう少し続く。
そのエピローグで、3層の語りはひとつにまとまる。
なんとも賑やかな、嬉しい幕切れだ。
「ムーミンパパ海へいく」
本書は、「ムーミン谷の冬」の作風を、さらに押しすすめたといえる作品。
登場人物は、ムーミン一家――パパとママとムーミンとミイ――、それからモランと、灯台守のみ。
パパの思いつきで、一家は灯台のある島に移り住む。
ところが、島は荒涼としていて、暮らしはわびしい。
島に到着したものの、灯台に入れない。
なんとか灯台に入ったものの、灯台に明かりがつかない、つけられない。
灯台守になりにきたのに、これではムーミンパパの立つ瀬がない。
それでも、パパはパパらしく振舞おうと奮闘する。
島は岩だらけで土もない。
ムーミンママは花壇をつくろうとするが、うまくいかない。
思いあまって、ママは灯台のなかの壁に、草花に満ちたムーミン谷の絵を描きはじめる。
本書では、ミイはムーミン一家の養女になっている。
ムーミンはミイに、「養女になったからっていい気になるなよ」などという。
相変わらずの不穏発言。
もちろん、ミイはこんなこといわれたってへっちゃら。
そのうち、一家は離散してしまう。
ミイはミイで勝手に暮らし、ムーミンはムーミンで灯台をでて、勝手に暮らすようになる。
ムーミンは、夜、島にやってくる美しい海うまに夢中。
そして、島にはモランがやってきて、おびえた島の木々はうごきだす――。
本書は全体的にもの悲しい。
やろうとしたことはほとんどうまくいかない。
たがいの思いは通じあわない。
この話はいったいどういう結末を迎えるのだろうと思っていると、はたして、どうにもならない。
ただ、ものごとが収まるべきところに収まったという感触があるだけだ。
でも、こういった感触をあたえてくれる作品は、世の中にそう多くない。
この作品はもう、児童文学の範疇からはみだしている。
作者は、ムーミン小説とでも呼ぶほかないものを発明したとしか思えない。
シリーズ中、どれが一番かと訊かれたら、本書が随一だとこたえたい。
ただ、最初にこの作品を読むのは薦められないけれど。
――まだ、続きます。
今回は簡単に長編についてみていきたい。
読んだ順番にいく。
「ムーミン谷の仲間たち」のあとに読んだのは、「たのしいムーミン一家」。
冬眠から目覚めたムーミンたちは、〈おさびし山〉にでかける。
そのてっぺんで、真っ黒いシルクハットをみつける。
これが、じつは魔法の帽子。
この不思議な帽子のおかげで、さまざまな騒動が起こる。
ところで、この帽子は〈飛行おに〉という人物が落としていったものだった。
飛行おには、いつも黒ヒョウに乗り、ルビーをあつめてまわっている。
〈ルビーの王さま〉を手に入れるために、ほかの星までさがしにでかけ、いまは月をさまよっているという。
その〈ルビーの王さま〉をもっている人物が、ムーミン谷にあらわれる。
その人物とは、トフスランとズフスランという、いささか手ぐせの悪い夫婦。
2人はモランという、触れたものをみな凍らせる不気味なおばあさんから、〈ルビーの王さま〉を手に入れていたのだ。
トフスランとズフスランを追って、モランもあらわれる。
が、ムーミンママの機転により、モランは飛行おにのシルクハットをもらって去っていく。
そして、物語の最後に、〈ルビーの王さま〉をもとめて、飛行おにがやってきて――。
とまあ、本筋だけ抜きだしてみた。
でも、本書の魅力は、しばしば本筋をおおい隠してしまうほどよく茂った、豊かな脇筋にある。
本書には、各章に小見出しがついているのだけれど、たとえば第4章の小見出しはこんな風だ。
「ニョロニョロが夜おそってくる。おかげでスノークのおじょうさんが、髪の毛をなくす。はなれ島でのいちばんめざましい発見」
これは一体、なにがなにやら。
ところが、読むとじっさいこういうことが起こっているのだから驚いてしまう。
しかも、この章で起こることは、本筋とはまるで関係がないのだから、さらに驚く。
こんなに脇筋だらけで、一体どうやってストーリーを着地させるつもりだろうと思って読んでいると、最後の最後でじつにうまく物語は大団円をむかえる。
この構成は素晴らしい。
「たのしいムーミン一家」は、本筋と脇筋のバランスがうまくとれた、児童文学の傑作といえるだろう。
あと、これは細かい話になるけれど、冒頭、ムーミンたちが冬眠から目覚める場面で、スナフキンも一緒に冬眠していたのにはびっくりした。
たしか、最初のTVアニメのシリーズでは、最終回、冬眠するムーミンたちに別れを告げ、スナフキンがムーミン谷を去るのではなかったっけ。
さらに細かい話をすると、ムーミンたちは冬眠するとき、なぜだか知らないけれど「松の葉っぱ」を食べる。
でも、富原真弓さん訳のコミック版をみると、食べているのは「もみの木の葉っぱ」だ。
ところが、コミックの英訳版をみると、「Paine Tree」となっていて、やっぱり松の葉っぱを食べているよう。
いやでも、北欧に松は生えているんだろうか。
謎が謎を呼ぶ。
それから。
本書でも、ヘムレンさんが登場する。
このヘムレンさんは、どうも「ムーミン谷の仲間たち」に登場したヘムレンさんとは別人のよう。
ムーミン・シリーズは、ムーミン一家やスナフキンなどのキャラクターははっきりしているけれど、ヘムレンさんやホムサあたりになると、人物像がぼやけて、あやふやになってくる。
しかも、ヘムレンさんの場合、同じ名前だったりするから、ことはややこしい。
さて。
次に読んだのは「ムーミン谷の彗星」。
この作品は、文字通り、ムーミン谷に彗星がぶつかるという話。
ムーミン谷の危機に、ムーミンやスナフキンやスニフが右往左往する。
作中、ムーミンとスニフは、彗星のことを調べるため、川を下り、天文台に向かう。
その途中、2人はスナフキンと出会う。
その場面はこうだ。
「ハーモニカの音がやんで、テントからは一ぴきのムムリクがあらわれました」
どうやらスナフキンは、ムムリク族の1匹であるらしい。
では、ムムリクとはなんなのか。
そんな説明は例のごとく一切なしだ。
登場人物が説明なしで突然あわられるのは、ムーミン作品の大きな特徴だろう。
次は、「ムーミンの夏まつり」。
火山の噴火により、海の水が押し寄せ、ムーミン谷は水びたしに。
一家は、たまたま出会ったホムサとミーサとともに、流されてきた家みたいなもの――じつは劇場――に移り住む。
劇場は、もみの木湾に流れ着き、ムーミンとスノークのお嬢さんが一家とはなればなれになったり、ミイが水に流されたり、そのあげくスナフキンと再会したり、スナフキンは大勢の子どもをかかえたり、一家は劇をもよおしたりする。
もちろん、最後はみんなめでたく再会して、ムーミン谷にもどり、大団円をむかえる。
「たのしいムーミン一家」にならぶ、愉快な児童文学。
思いがけないことがたくさん起こっても、語り口はいたって平静。
登場人物たちは、自分を見失うことがなく、安心して読み進められる。
それにしても、ムーミン谷はなかなか自然災害が多いところだ。
この作品で印象深いのは、スナフキンが公園番にいたずらを仕掛ける場面。
公園番は、公園のあちこちに「なになに禁止」と立札を立てている。
それが、立札が嫌いなスナフキンは気に入らない。
スナフキンが公園番に仕掛けたいたずらは、「ニョロニョロの種をまく」というもの。
なんと、ニョロニョロは種から生まれるのだ。
でも、まくのは夏祭りのイブにかぎられる。
スナフキンがまいた種のおかげで、公園はニョロニョロだらけに――。
さて。
ムーミンシリーズが児童文学らしいのは、このへんまでだ。
(といっても、作者がどんな順番で書いたか知らないから、自分が読んだ順番での話になるけれど)
「夏まつり」以降のムーミン作品は、筋があるのかないのかわからなくなっていく。
本筋は消えるというか、深く静かに潜航していくというか、そんな風になり、ひと目でわかりにくくなる。
全編に渡り、ただただ登場人物たちのやりとりだけがくり広げられるようになっていく。
「ムーミン谷の冬」
11月から4月まで冬眠するのが、ムーミン一家のしきたり。
ところが、ムーミンだけがなぜか目をさましてしまう。
(ちなみに、この巻では、スナフキンは毎年10月になると南にでかけ、春になるとムーミン谷にもどってくるようだ)
なぜかミイも目覚める。
ムーミン一家が夏のあいだつかっている水浴び小屋にはおしゃまさん(ティトゥッキ)が住んでいる。
雪のなかでは、ムーミンの知らないさまざまな生きものが暮らしている。
連中とは仲良くなれそうにない。
ムーミンは大変心細い思いをする。
そのうち、モランやフィリフヨンカや、ちょこちょこばしりのサロメちゃんや、騒ぞうしいヘムレンさんや、犬のめそめそといったキャラクターが登場する。
しかし、なんといっても一番の驚きは、ムーミンのご先祖さまがあらわれることだろう。
ご先祖さまは毛むくじゃら。
1000年ほどの歳月で、ムーミン一族からは毛がなくなってしまったらしいのだ。
本書には筋らしい筋はない。
ただ、ムーミンがひと冬をすごすというだけの話だ。
でも、ムーミンの心細さが全編をおおっていて、作品になんともいえない深みと静けさをあたえている。
「ムーミンパパの思い出」
ある日、カゼをひいて寝こんだパパは、「どうせ外にでられないんだから」とママにいわれ、自伝を書くことに。
パパは、書き上がるたびに、皆に読んで聞かせる。
それを聞いたムーミンやスニフやスナフキンは、あれこれと感想を述べる。
つまり、この作品は、作者の文章、パパの書いた自伝、それを聞いたムーミンたちの感想という、3層から成っている。
なかなか凝った語り口。
さて、自伝によれば、パパは捨て子ホームに捨てられていた捨て子だった。
大きくなったパパは、ヘムレンさんが経営する窮屈なホームを脱走。
フレドリクソンと、その甥でなぜか片手鍋をかぶっているロッドユール、それにヨクサルと出会い、みんなでつくった船に乗りこんで航海へ。
旅の途中、モランがでてきたり、ニブリングに出会ったり。ヘムレンさんに再会したり、ニョロニョロをみかけたり。
最後はママとのなれそめで幕。
パパの自伝は、脈絡があるんだかないんだかよくわからない。
そこが魅力といったら可笑しいか。
ところどころ鼻もちならない発言があるのもご愛嬌。
「ムーミンパパ海へいく」とあわせて読むと、作者のヤンソンさんはずいぶん父親のことが好きだったのではないかと思わせられる。
本書では、登場人物たちの系図の一端が明かされる。
スニフは、ロッドユールとソースユールの子どもだった。
でも、ソースユールはいったい何者なのか、登場したとたん結婚するのでわからない。
また、スナフキンはヨクサルとミムラの子どもだった。
つまり、スナフキンとメイは義理の兄妹ということになる。
パパの自伝はママとのなれそめで終わるけれど、本書はもう少し続く。
そのエピローグで、3層の語りはひとつにまとまる。
なんとも賑やかな、嬉しい幕切れだ。
「ムーミンパパ海へいく」
本書は、「ムーミン谷の冬」の作風を、さらに押しすすめたといえる作品。
登場人物は、ムーミン一家――パパとママとムーミンとミイ――、それからモランと、灯台守のみ。
パパの思いつきで、一家は灯台のある島に移り住む。
ところが、島は荒涼としていて、暮らしはわびしい。
島に到着したものの、灯台に入れない。
なんとか灯台に入ったものの、灯台に明かりがつかない、つけられない。
灯台守になりにきたのに、これではムーミンパパの立つ瀬がない。
それでも、パパはパパらしく振舞おうと奮闘する。
島は岩だらけで土もない。
ムーミンママは花壇をつくろうとするが、うまくいかない。
思いあまって、ママは灯台のなかの壁に、草花に満ちたムーミン谷の絵を描きはじめる。
本書では、ミイはムーミン一家の養女になっている。
ムーミンはミイに、「養女になったからっていい気になるなよ」などという。
相変わらずの不穏発言。
もちろん、ミイはこんなこといわれたってへっちゃら。
そのうち、一家は離散してしまう。
ミイはミイで勝手に暮らし、ムーミンはムーミンで灯台をでて、勝手に暮らすようになる。
ムーミンは、夜、島にやってくる美しい海うまに夢中。
そして、島にはモランがやってきて、おびえた島の木々はうごきだす――。
本書は全体的にもの悲しい。
やろうとしたことはほとんどうまくいかない。
たがいの思いは通じあわない。
この話はいったいどういう結末を迎えるのだろうと思っていると、はたして、どうにもならない。
ただ、ものごとが収まるべきところに収まったという感触があるだけだ。
でも、こういった感触をあたえてくれる作品は、世の中にそう多くない。
この作品はもう、児童文学の範疇からはみだしている。
作者は、ムーミン小説とでも呼ぶほかないものを発明したとしか思えない。
シリーズ中、どれが一番かと訊かれたら、本書が随一だとこたえたい。
ただ、最初にこの作品を読むのは薦められないけれど。
――まだ、続きます。
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ムーミンについて その1
ある日、古本屋をのぞいたら、ピンクの背をした講談社文庫のムーミン・シリーズが棚にならんでいた。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはフィンランドのひと。
フィンランドには2度いったことがある。
せっかくだから読んでみようと、棚にある本をごっそり買ってきた。
その店に、シリーズ全巻は置いていなかった。
でも、次にいった店で欠けていた巻をみつけた。
都合2軒の店で、シリーズすべてをそろえることができた。
ムーミン・シリーズは以下の8冊。
「たのしいムーミン一家」
「ムーミン谷の彗星」
「ムーミン谷の仲間たち」
「ムーミン谷の夏まつり」
「ムーミン谷の冬」
「ムーミンパパの思い出」
「ムーミンパパ海へいく」
「ムーミン谷の十一月」
このうち、「ムーミン谷の仲間たち」は短編集。
ほかは長編。
あと、文庫にはなっていないようだけれど、別巻として「小さなトロールと大きな洪水」がある。(後日訂正。これは嘘。ちゃんと文庫になっていました)
まず、最初に読んだのは短編集。
これがよかった。
ムーミン谷の登場人物たちが大勢でてくるので、かれらに親しむことができた。
内容がバラエティに富んでいるので、シリーズの幅の広さをうかがうことができた。
もし、これからムーミン・シリーズを読んでみようというひとがいたら、まず短編集からはじめることをすすめたい。
これが、「ムーミン谷の十一月」から読みはじめたりしていたら、きっと読み続けられなかっただろう。
短編集は面白かった。
あんまり面白かったものだから、シリーズをひと息で読んでしまった。
いまはコミック版を読んでいる。
いったいムーミン・シリーズのなにがそんなに面白いのか。
それをこれから説明したい。
まず、いきなりディティールの話になってしまうけれど、いささか古びた訳文を読むのが楽しい。
作品のなかで、ムーミンたちの「手」は、「手」とは書かれない。
しばしば「前足」と書かれる。
ムーミンだけでなく、ミイやスナフキンまで「前足」と書かれたりする。
これはいったいなんだろう。
ムーミンたちが人間ではないということを、片時も忘れないようにさせるためだろうか。
それから、登場人物たちの言動。
ムーミンには、メルヘン的でない言動が時折みかけられるのだ。
「楽しいムーミン一家」に、こんな場面がある。
砂浜でボートをみつけたムーミン一家とその仲間たちは、ボートに乗って沖にでる。
じき、ニョロニョロの島をみつけ、そこに上陸し、キャンプをする。
夜は嵐になるものの、翌朝はいい天気に。
みんなは砂浜にいき、そこで流れ着いたものを拾って遊ぶ。
スニフはムーミンが拾い上げた大きなブイが、うらやましくてならない。
そこで、交換をもちかける。
「ねえ、きみ、とりかえっこしないか。きみの古ぼけたブイと、ぼくのラフィマのマット(しゅろの繊維で編んだマット)と、このひしゃくと、長ぐつとでさ」
すると、ムーミンはこうこたえるのだ。
「おまえが死んでからね」
ずいぶんと乱暴な発言。
ムーミンはときどきこんな破格の発言をするから、目がはなせない。
このあと、ムーミンは拾ったスノードームをスニフにみせる。
といっても、「スノードーム」というこどばは、作中ではつかわれていない。
「雪あらしのおもちゃ」と書かれているけれど、きっとスノードームのことだろう。
スニフは、ムーミンがみつけたスノードームもうらやましい。
そこで、再び提案。
「ねえ、ムーミントロール。その雪あらしのおもちゃは、共同にしないか」
ムーミンのこたえはこう。
「いいとも。日曜日と水曜日には、きみにかしてやるよ」
この場面、ムーミンとスニフの会話はやけにハードボイルドだ。
――ここまで書いて不安になってきた。
ムーミン・シリーズの魅力を、あまりにも細部から語りすぎているだろうか。
もう少し作品からはなれて、視点を大きくとったほうがいいだろうか。
これはいうまでもないことかもしれないけれど、トーベ・ヤンソンのイラストはじつに素晴らしい。
キャラクターの造形もさることながら、白黒のイラストが、物語の世界をみごとに形づくっている。
ムーミン・シリーズには、文章による登場人物の外観描写というものがいっさいない。
外観描写はすべてイラストでやるという方針のようだ。
物語を簡単に、ひとつひとつみていこう。
まず、最初に読んだ短編集、「ムーミン谷の仲間たち」から。
この本に収録されている作品は以下。
「春のしらべ」
「ぞっとする話」
「この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ」
「世界でいちばんさいごのりゅう」
「しずかなのがすきなヘムレンさん」
「目に見えない子」
「ニョロニョロのひみつ」
「スニフとセドリックのこと」
「もみの木」
このなかでは、まず「目に見えない子」をとりあげたい。
これは、シリーズ中、もっともムーミン初心者向けの話だと思う。
ムーミンに接するには、この話からがいい。
しかも、なかなかいい話なのだ。
ストーリーはこう。
ある日、おしゃまさん(コミックス版ではティトゥッキ)が、ムーミンの家に、目にみえない女の子を連れてくる。
名前はニンニ。
ニンニがなぜみえなくなってしまったかというと、意地悪なおばさんにいじめられてしまったため。
「あなたたちもごぞんじのとおり、人はあまりいく度もおどかされると、ときによって、すがたが見えなくなっちまうわね。そうじゃない?」
と、おしゃまさん。
ニンニはムーミン一家のお世話になることに。
ニンニには首に鈴をつけられていて、歩くとそれがチリンチリンと鳴る。
ムーミン一家と暮らすようになったニンニは、徐々に姿がみえるようになっていく。
でも、顔だけはみえない。
ムーミンとミイは、ニンニに遊びを教えようとするけれど、ニンニはひととうまく遊ぶことができない。
ニンニはつきあいでやっているだけで、少しも面白そうではない。
遊んでも、すぐに立ち止まってしまう。
そんなニンニに、ミイは思わず怒鳴る。
「あんたには命ってものがないの? 鼻をピシャンとぶたれたいの?」
ごめんなさいとあやまるニンニに、ミイは追い討ち。
「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」
このあと、あることをできごとをきっかけに、ニンニは自分の顔をとりもどす。
それにしても、ミイの発言もハードボイルドだ。
ムーミン・シリーズは、じつはハードボイルドなのかもしれない。
そのほかの作品も簡単に――。
「春のしらべ」
スナフキンが旅の途中で出会った、はい虫に名前をつけてやる話。
「ぞっとする話」
ホムサがミイにいじめられる話。
「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」
この世の終わりにおびえるフィリフヨンカが、竜巻に襲われ、家からなにから一切合財もっていかれてしまい、でもせいせいしたという話。
「しずかなのがすきなヘムレンさん」
うんざりするほど陽気なヘルム一族のなかにあって、年金をもらって静かに暮らすことだけを夢みる、変わり者のヘムレンさんの話。
「ニョロニョロのひみつ」
ムーミンパパがニョロニョロと一緒に旅をする話。
「スニフとセドリックのこと」
犬の人形セドリックを手放したことを後悔するスニフが、スナフキンからスナフキンのママのおばさんの話を聞く話。
「もみの木」
冬眠中のムーミン一家が、ヘルムに起こされ、なんだかわからないままにクリスマスというものをする話。
「目に見えない子」のほかに、本書で注目すべき作品があるとすれば、それは「ニョロニョロのひみつ」だ。
訳者の山室静さんは、解説で「失敗作」と断じているけれど、なんともいえない面白さがある。
なかなかこういう失敗はできないよなあと思わせる、大変魅力的な失敗。
「ムーミンパパ海へいく」や「ムーミン谷の十一月」連なる面白さだ。
――長くなってきたので、次回に続きます。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはフィンランドのひと。
フィンランドには2度いったことがある。
せっかくだから読んでみようと、棚にある本をごっそり買ってきた。
その店に、シリーズ全巻は置いていなかった。
でも、次にいった店で欠けていた巻をみつけた。
都合2軒の店で、シリーズすべてをそろえることができた。
ムーミン・シリーズは以下の8冊。
「たのしいムーミン一家」
「ムーミン谷の彗星」
「ムーミン谷の仲間たち」
「ムーミン谷の夏まつり」
「ムーミン谷の冬」
「ムーミンパパの思い出」
「ムーミンパパ海へいく」
「ムーミン谷の十一月」
このうち、「ムーミン谷の仲間たち」は短編集。
ほかは長編。
あと、文庫にはなっていないようだけれど、別巻として「小さなトロールと大きな洪水」がある。(後日訂正。これは嘘。ちゃんと文庫になっていました)
まず、最初に読んだのは短編集。
これがよかった。
ムーミン谷の登場人物たちが大勢でてくるので、かれらに親しむことができた。
内容がバラエティに富んでいるので、シリーズの幅の広さをうかがうことができた。
もし、これからムーミン・シリーズを読んでみようというひとがいたら、まず短編集からはじめることをすすめたい。
これが、「ムーミン谷の十一月」から読みはじめたりしていたら、きっと読み続けられなかっただろう。
短編集は面白かった。
あんまり面白かったものだから、シリーズをひと息で読んでしまった。
いまはコミック版を読んでいる。
いったいムーミン・シリーズのなにがそんなに面白いのか。
それをこれから説明したい。
まず、いきなりディティールの話になってしまうけれど、いささか古びた訳文を読むのが楽しい。
作品のなかで、ムーミンたちの「手」は、「手」とは書かれない。
しばしば「前足」と書かれる。
ムーミンだけでなく、ミイやスナフキンまで「前足」と書かれたりする。
これはいったいなんだろう。
ムーミンたちが人間ではないということを、片時も忘れないようにさせるためだろうか。
それから、登場人物たちの言動。
ムーミンには、メルヘン的でない言動が時折みかけられるのだ。
「楽しいムーミン一家」に、こんな場面がある。
砂浜でボートをみつけたムーミン一家とその仲間たちは、ボートに乗って沖にでる。
じき、ニョロニョロの島をみつけ、そこに上陸し、キャンプをする。
夜は嵐になるものの、翌朝はいい天気に。
みんなは砂浜にいき、そこで流れ着いたものを拾って遊ぶ。
スニフはムーミンが拾い上げた大きなブイが、うらやましくてならない。
そこで、交換をもちかける。
「ねえ、きみ、とりかえっこしないか。きみの古ぼけたブイと、ぼくのラフィマのマット(しゅろの繊維で編んだマット)と、このひしゃくと、長ぐつとでさ」
すると、ムーミンはこうこたえるのだ。
「おまえが死んでからね」
ずいぶんと乱暴な発言。
ムーミンはときどきこんな破格の発言をするから、目がはなせない。
このあと、ムーミンは拾ったスノードームをスニフにみせる。
といっても、「スノードーム」というこどばは、作中ではつかわれていない。
「雪あらしのおもちゃ」と書かれているけれど、きっとスノードームのことだろう。
スニフは、ムーミンがみつけたスノードームもうらやましい。
そこで、再び提案。
「ねえ、ムーミントロール。その雪あらしのおもちゃは、共同にしないか」
ムーミンのこたえはこう。
「いいとも。日曜日と水曜日には、きみにかしてやるよ」
この場面、ムーミンとスニフの会話はやけにハードボイルドだ。
――ここまで書いて不安になってきた。
ムーミン・シリーズの魅力を、あまりにも細部から語りすぎているだろうか。
もう少し作品からはなれて、視点を大きくとったほうがいいだろうか。
これはいうまでもないことかもしれないけれど、トーベ・ヤンソンのイラストはじつに素晴らしい。
キャラクターの造形もさることながら、白黒のイラストが、物語の世界をみごとに形づくっている。
ムーミン・シリーズには、文章による登場人物の外観描写というものがいっさいない。
外観描写はすべてイラストでやるという方針のようだ。
物語を簡単に、ひとつひとつみていこう。
まず、最初に読んだ短編集、「ムーミン谷の仲間たち」から。
この本に収録されている作品は以下。
「春のしらべ」
「ぞっとする話」
「この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ」
「世界でいちばんさいごのりゅう」
「しずかなのがすきなヘムレンさん」
「目に見えない子」
「ニョロニョロのひみつ」
「スニフとセドリックのこと」
「もみの木」
このなかでは、まず「目に見えない子」をとりあげたい。
これは、シリーズ中、もっともムーミン初心者向けの話だと思う。
ムーミンに接するには、この話からがいい。
しかも、なかなかいい話なのだ。
ストーリーはこう。
ある日、おしゃまさん(コミックス版ではティトゥッキ)が、ムーミンの家に、目にみえない女の子を連れてくる。
名前はニンニ。
ニンニがなぜみえなくなってしまったかというと、意地悪なおばさんにいじめられてしまったため。
「あなたたちもごぞんじのとおり、人はあまりいく度もおどかされると、ときによって、すがたが見えなくなっちまうわね。そうじゃない?」
と、おしゃまさん。
ニンニはムーミン一家のお世話になることに。
ニンニには首に鈴をつけられていて、歩くとそれがチリンチリンと鳴る。
ムーミン一家と暮らすようになったニンニは、徐々に姿がみえるようになっていく。
でも、顔だけはみえない。
ムーミンとミイは、ニンニに遊びを教えようとするけれど、ニンニはひととうまく遊ぶことができない。
ニンニはつきあいでやっているだけで、少しも面白そうではない。
遊んでも、すぐに立ち止まってしまう。
そんなニンニに、ミイは思わず怒鳴る。
「あんたには命ってものがないの? 鼻をピシャンとぶたれたいの?」
ごめんなさいとあやまるニンニに、ミイは追い討ち。
「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」
このあと、あることをできごとをきっかけに、ニンニは自分の顔をとりもどす。
それにしても、ミイの発言もハードボイルドだ。
ムーミン・シリーズは、じつはハードボイルドなのかもしれない。
そのほかの作品も簡単に――。
「春のしらべ」
スナフキンが旅の途中で出会った、はい虫に名前をつけてやる話。
「ぞっとする話」
ホムサがミイにいじめられる話。
「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」
この世の終わりにおびえるフィリフヨンカが、竜巻に襲われ、家からなにから一切合財もっていかれてしまい、でもせいせいしたという話。
「しずかなのがすきなヘムレンさん」
うんざりするほど陽気なヘルム一族のなかにあって、年金をもらって静かに暮らすことだけを夢みる、変わり者のヘムレンさんの話。
「ニョロニョロのひみつ」
ムーミンパパがニョロニョロと一緒に旅をする話。
「スニフとセドリックのこと」
犬の人形セドリックを手放したことを後悔するスニフが、スナフキンからスナフキンのママのおばさんの話を聞く話。
「もみの木」
冬眠中のムーミン一家が、ヘルムに起こされ、なんだかわからないままにクリスマスというものをする話。
「目に見えない子」のほかに、本書で注目すべき作品があるとすれば、それは「ニョロニョロのひみつ」だ。
訳者の山室静さんは、解説で「失敗作」と断じているけれど、なんともいえない面白さがある。
なかなかこういう失敗はできないよなあと思わせる、大変魅力的な失敗。
「ムーミンパパ海へいく」や「ムーミン谷の十一月」連なる面白さだ。
――長くなってきたので、次回に続きます。
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ニンジャ・ピラニア・ガリレオ
「ニンジャ・ピラニア・ガリレオ」(グレッグ・ライティック・スミス ポプラ社 2007)
訳は、小田島則子・小田島恒志。
まず、タイトルが変てこで興味を引く。
ジャンル分けすれば、児童文学。
あるいは、ヤングアダルト小説。
主人公は、イーライとショーヘイという男の子と、ホノリアという女の子。
3人とも、シカゴのペシュティゴ校に通う7年生(中学2年生)だ。
ストーリーの紹介のまえに、主人公たちの説明をしよう。
イーライのお父さんは物理学者。
お母さんは、コンサートツアーで世界をまわるソプラノ歌手。
5人兄弟の末っ子で、長男のヨハン・クリストフはケンブリッジ大学のポスドクになったところ。
ほかの兄弟たちは、陸軍士官学校に入ったり、テキサス大学にいったり、ハワイ大学にいったり、政府の仕事について家族と会わなくなったり。
当のイーライは、完璧さにこだわる優等生。
ショーヘイは、イーライのこだわりを「強迫観念的執着心」と呼んで、こんな風にいう。
「去年チェス部に入ったときだって、図書館からありとあらゆるチェスに関する本を借りてきて、兄貴のヨハン・アンブローシャスとネットで次から次へとゲームをしたあげく、昔のロシアの何とかって人の名前がついてる攻撃を迎え撃つ最良の手についてマーチニック先生と言いあいになって、部をやめることになった」
ホノリアのお母さんは昆虫学者。
ホノリアも、昆虫や生物が大好き。
「出エジプト記」で一番好きなのは、イナゴの大発生のところ。
それから、学校の生徒法廷で公認弁護士をしている。
ショーヘイは日系アメリカ人。
アイルランド系の両親の養子で、お養父さんは弁護士。
最近、両親による日本文化推奨運動に辟易している。
スシばかりつくったり、イケバナをしたり、息子が瞑想できるように枯山水をつくったりするから。
というわけで、3人はいいところの子ども。
3人が通うペシュティゴ校も、親のほとんどが弁護士という、いいところの子がいく学校だ。
さて、こんな主人公たちは一体どんな出来事に出会うのか。
冒頭、イーライはお父さんからサイエンス・フェアに参加するようにいわれる。
息子を参加させて、自分は審査員を逃れようという魂胆。
で、イーライは、以前長兄がやった実験をもう一度やることに。
兄がした実験に確証をあたえるという名分だけれど、用は手抜き。
科学好きのホノリアは、サイエンス・フェアに大変な情熱を抱いている。
今回の実験は、「ピラニアをバナナ好きにすることはできるか」。
ホノリアには、生徒法廷では検察側に立ち、サイエンス・フェアでは3年連続優勝という実績をもつ、ゴリアテというあだ名のライバルがいる。
ホノリアにいわせると、「消費者目線の実験ばかり」するやつ。
どうしても、ゴリアテには勝ちたい。
ショーヘイはいいやつだが、いいかげんでお調子者なので、実験という点になると2人からの信用は落ちる。
でも、「音楽が植物にあたえる影響」についてという、イーライの実験に混ぜてもらうことに。
サイエンス・フェアの審査委員長は、必要以上に厳格なイーデン先生。
本書ぜんたいを通しての敵役となる、意地の悪い先生だ。
こんな状況に、淡い恋の話がからむ。
イーライは、ホノリアのことが好き。
でも、ホノリアはショーヘイのことが好き。
ホノリアはショーヘイのことをイーライに相談するし、ショーヘイはホノリアに告白しろとイーライをうながす。
以上、みてきたように、本書の設定はなかなか密度があるのだけれど、これを手際よく読者に呑みこませるのに、語り口が大いにものをいっている。
語り口は、1人称多視点。
主人公の3人が、一人称でそれぞれ独語する。
さて、サイエンス・フェアが前半の山場だとすると、後半の山場は生徒法廷。
いろいろあって、イーライが被告人になってしまうのだ。
生徒法廷の結果によっては退学もありうる。
これもまたいろいろあって、仲が険悪になってしまったホノリアとショーヘイも、イーライのために助力する。
この生徒法廷の場面が読み応えがある。
否定命題を証明することはできない。
音楽が植物の成長に影響をあたえないという証明はできない。
でも、原告には、「影響をあたえる」ことを証明する義務がある。
などなど、事前にホノリアとイーライが打ちあわせ。
そして、裁判。
検察側、弁護側の順番で冒頭陳述。
検察側がイーデン先生を証人に呼び、弁護側が反対尋問。
次に、ショーヘイの証人喚問があり、陪審員たちにより評決――。
児童書でも裁判の手続きをちゃんと書く。
じつにアメリカの小説らしい。
また、サイエンス・フェアといい、生徒法廷といい、いいところの子が通う私立の学校という感じがよくでている。
家族とのちょっとした確執があり、友情はためされ、恋愛によって振り回される。
ヤングアダルト小説として、設定も、展開も、読みやすさも申し分がない。
難をいうと、読みやすさを優先したためか、ぜんたいにコクが薄いところだろうか。
ちょっとさっぱりしすぎている気がする。
あと、本書はなかなかにペダンティックだ。
度がすぎたペダンティックさは、ユーモアにつながるものだけれど、このペダンティックさを面白いと思ってもらえるかどうか。
このあたりが、勝負の分かれ目だろうか。
訳は、小田島則子・小田島恒志。
まず、タイトルが変てこで興味を引く。
ジャンル分けすれば、児童文学。
あるいは、ヤングアダルト小説。
主人公は、イーライとショーヘイという男の子と、ホノリアという女の子。
3人とも、シカゴのペシュティゴ校に通う7年生(中学2年生)だ。
ストーリーの紹介のまえに、主人公たちの説明をしよう。
イーライのお父さんは物理学者。
お母さんは、コンサートツアーで世界をまわるソプラノ歌手。
5人兄弟の末っ子で、長男のヨハン・クリストフはケンブリッジ大学のポスドクになったところ。
ほかの兄弟たちは、陸軍士官学校に入ったり、テキサス大学にいったり、ハワイ大学にいったり、政府の仕事について家族と会わなくなったり。
当のイーライは、完璧さにこだわる優等生。
ショーヘイは、イーライのこだわりを「強迫観念的執着心」と呼んで、こんな風にいう。
「去年チェス部に入ったときだって、図書館からありとあらゆるチェスに関する本を借りてきて、兄貴のヨハン・アンブローシャスとネットで次から次へとゲームをしたあげく、昔のロシアの何とかって人の名前がついてる攻撃を迎え撃つ最良の手についてマーチニック先生と言いあいになって、部をやめることになった」
ホノリアのお母さんは昆虫学者。
ホノリアも、昆虫や生物が大好き。
「出エジプト記」で一番好きなのは、イナゴの大発生のところ。
それから、学校の生徒法廷で公認弁護士をしている。
ショーヘイは日系アメリカ人。
アイルランド系の両親の養子で、お養父さんは弁護士。
最近、両親による日本文化推奨運動に辟易している。
スシばかりつくったり、イケバナをしたり、息子が瞑想できるように枯山水をつくったりするから。
というわけで、3人はいいところの子ども。
3人が通うペシュティゴ校も、親のほとんどが弁護士という、いいところの子がいく学校だ。
さて、こんな主人公たちは一体どんな出来事に出会うのか。
冒頭、イーライはお父さんからサイエンス・フェアに参加するようにいわれる。
息子を参加させて、自分は審査員を逃れようという魂胆。
で、イーライは、以前長兄がやった実験をもう一度やることに。
兄がした実験に確証をあたえるという名分だけれど、用は手抜き。
科学好きのホノリアは、サイエンス・フェアに大変な情熱を抱いている。
今回の実験は、「ピラニアをバナナ好きにすることはできるか」。
ホノリアには、生徒法廷では検察側に立ち、サイエンス・フェアでは3年連続優勝という実績をもつ、ゴリアテというあだ名のライバルがいる。
ホノリアにいわせると、「消費者目線の実験ばかり」するやつ。
どうしても、ゴリアテには勝ちたい。
ショーヘイはいいやつだが、いいかげんでお調子者なので、実験という点になると2人からの信用は落ちる。
でも、「音楽が植物にあたえる影響」についてという、イーライの実験に混ぜてもらうことに。
サイエンス・フェアの審査委員長は、必要以上に厳格なイーデン先生。
本書ぜんたいを通しての敵役となる、意地の悪い先生だ。
こんな状況に、淡い恋の話がからむ。
イーライは、ホノリアのことが好き。
でも、ホノリアはショーヘイのことが好き。
ホノリアはショーヘイのことをイーライに相談するし、ショーヘイはホノリアに告白しろとイーライをうながす。
以上、みてきたように、本書の設定はなかなか密度があるのだけれど、これを手際よく読者に呑みこませるのに、語り口が大いにものをいっている。
語り口は、1人称多視点。
主人公の3人が、一人称でそれぞれ独語する。
さて、サイエンス・フェアが前半の山場だとすると、後半の山場は生徒法廷。
いろいろあって、イーライが被告人になってしまうのだ。
生徒法廷の結果によっては退学もありうる。
これもまたいろいろあって、仲が険悪になってしまったホノリアとショーヘイも、イーライのために助力する。
この生徒法廷の場面が読み応えがある。
否定命題を証明することはできない。
音楽が植物の成長に影響をあたえないという証明はできない。
でも、原告には、「影響をあたえる」ことを証明する義務がある。
などなど、事前にホノリアとイーライが打ちあわせ。
そして、裁判。
検察側、弁護側の順番で冒頭陳述。
検察側がイーデン先生を証人に呼び、弁護側が反対尋問。
次に、ショーヘイの証人喚問があり、陪審員たちにより評決――。
児童書でも裁判の手続きをちゃんと書く。
じつにアメリカの小説らしい。
また、サイエンス・フェアといい、生徒法廷といい、いいところの子が通う私立の学校という感じがよくでている。
家族とのちょっとした確執があり、友情はためされ、恋愛によって振り回される。
ヤングアダルト小説として、設定も、展開も、読みやすさも申し分がない。
難をいうと、読みやすさを優先したためか、ぜんたいにコクが薄いところだろうか。
ちょっとさっぱりしすぎている気がする。
あと、本書はなかなかにペダンティックだ。
度がすぎたペダンティックさは、ユーモアにつながるものだけれど、このペダンティックさを面白いと思ってもらえるかどうか。
このあたりが、勝負の分かれ目だろうか。
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フクロウ探偵30番めの事件

訳は小沢正。
絵も作者が描いている。
ゆるい線で描かれた登場人物たちが、愛嬌がありとてもいい。
本書は、児童書にして推理小説。
舞台は、とある海辺のホテル。
このホテルでは、なにやら奇妙な事件が続発している。
たまたま泊り客としてきていた、探偵エリナー・アウルは、ホテルの主人に頼まれ、捜査を開始することに。
登場人物は、みな、擬人化された動物たち。
ホテルの主人は七面鳥。
名探偵エリナー・アウルはフクロウ。
その助手のポーズは、礼儀正しいネコ。
ほかに泊り客は、世にも美しいメンドリのマリエッタ・チキン。
いやみな金持ちのブタ、フォスター・ピッグ
病弱なコヨーテの紳士、ドン・コヨーテ。
サーフィン好きのふたごのリスに、旅行はいつも小包でする、ものすごく小さいモゾモゾ一家。
それから、チェロケースをもち歩く、女ヒヒ4人組みの弦楽四重奏団に、ホテルではたらくガチョウのマキシン。
この作品、作風がとてもスマート。
まず、いきなりエリナー・アウルが依頼を受けるのではなく、保養先で事件が起こる。
やっと、本書の半分ちかくになって、エリナー・アウルはホテルの主人から依頼を受けるのだ。
それから、ラスト。
「名探偵 みなをあつめて さてといい」という川柳があるけれど、エリナー・アウルはそれをしない。
ラストは余韻を残さず、すっぱりと終わる。
だから、読み返さないとわからない伏線がたくさんある。
こんな作風だから、謎を解く過程でなく、謎めいた雰囲気で読者を引きつけなくてはならない。
それは登場人物のユーモラスな描写によってなされる。
これが、とてもうまい。
たとえば、美女ニワトリのマリエッタの趣味はヨガだ。
美女のニワトリというだけでもよくわからないのに、それがヨガ。
しかも、羽を日焼けさせるために日光浴をしたりする。
もうなにがなんだか。
また、金持ちブタのフォスターが、絹でできた自慢の海パンをはき、鏡のまえでうっとりする場面。
海パンの柄は、腰みのをつけたハワイのブタたちが、ヤシの木の下でフラダンスを踊っているというもの。
さらに、フォスターはぐるぐるからだを回して、「えもいわれん」とつぶやいたりする。
この本は、訳文が素晴らしくこなれている。
「えもいわれん」なんて、感心する。
じつは、本屋で立ち読みしていたさい、購入を決意したのは、この場面だった。
謎そのものは児童書らしく、じつにくだけたもの。
洗練された作風は、仕掛けに気づいた子どもたちをきっと喜ばせるだろう。
ところで、本書は「フクロウ探偵30番めの事件」というタイトルだから、シリーズ物かと思っていたけれど、どうもちがうよう。
いきなり「30番め」からはじまるところも、スマートさのひとつだ。
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巨人ぼうやの物語

訳は渡辺茂男。
さし絵も作者。
作者は、「三人のおまわりさん」(学習研究社 1965)を書いたひと。
「三人のおまわりさん」での表記は、「ウィリアム=ペン=デュポア」。
でも、「巨人ぼうやの物語」では、「ウィリアム=ペーヌ=デュポア」。
外国人名の表記はむつかしいものだけれど、でも、訳者が同じなのに、なんでちがっているのか。
作者が書いた、いちばん有名な本はたぶん「ものぐさトミー」(岩波書店 1977)。
ここでもまた作者の表記が変わり、「ペーン・デュボア」。
また作者は、「ねずみ女房」(ルーマー・ゴッデン 福音館書店 1977)のさし絵を描いたことでも有名(ここでも人名表記が変わる。まったくもう)。
さて、ストーリー。
主人公は作家の〈わたし〉、ビル。
「クマさんの世界おたのしみ旅行」という旅行ガイドを書くために、各地を歴訪中。
ヨーロッパのとある都市のホテルに着くと、そこに手紙が。
差出人はエル=ムチャーチョ・イ・コンパニーア。
スペイン語で少年協会というような意味。
内容は、貴下はただちにほかのホテルにうつられたし、というもの。
ビルは手紙にしたがわず、部屋に逗留。
すると、怪しいことに、真向かいの建物は歩道から屋上まで、板塀ですっかりかこってあることに気づく。
また、発電所が爆撃されたという想定の、夜間防空演習がはじまる。
向かいの建物に、なにかうごきがあるにちがいないと、ビルはバルコニーで見張りをするものの、サーチライトを浴びせられ、けっきょくなにもわからず。
翌日、怪しい建物では、前で式典がおこなわれたり、サーカスのトラックが入っていったり。
さらに、真向かいにある窓から巨大な目がのぞいているのに気がつき、ビルは卒倒。
その後、少年協会からは昼食の招待状が。
事務局長のフェルナンドは、ビルをほかの場所にうつそうと買収をしにきたのだけれど、ビルが巨大な目をみたことをいうと、巨人ぼうやの生い立ちについて話はじめる…。
作者が描くさし絵は、絵のなかにちゃんと重力が感じられような、空間が表現された絵。
ぼうやの巨大感がよくでている。
それと同じ想像力が、文章のなかでもみられる。
ぼうやと会ったビルは、ぼうやにつまみ上げられるのだけれど、そのスピードのためビルは目をまわしてしまう、とか。
また、あるとき、建物のまえでご婦人の髪の毛が逆立ち、紳士のカツラが舞い上がるというできごとが。
これは、ぼうやが髪をとかしたさいにおこった静電気のため。
作者の想像力は、絵を描くひとにふさわしく、空間的、物理的によくいきとどいたはたらきぶりをみせている。
ぼうやがスペイン語しかできず、英語しかできないビルと話ができないという設定はうまい。
ビルとぼうやのあいだにフェルナンドが入ることにより、作品にリアリティが生まれるし、想像力はおもに空間的なことに限定されるから、統一感が生まれる。
ビルとぼうやが話ができたら、たぶん収集がつかなくなっていたんじゃないだろうか。
後半のストーリーの焦点は、ぼうやが街のひとに受け入れられるかどうかというもの。
もちろん、児童書らしいあたたかいラストが待っている。
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