ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

暑い夏の思い出

2010年08月10日 | 日記
暑い夏は、学生時代を思い出す。
大学時代の夏休みは、朝から夕方まで、原
水爆禁止の署名と募金集めに明け暮れ、8
月6日の広島に原爆が落ちた日の式典、原
水爆禁止世界大会へ代表をおくることをし
ていた。

学生最後の年は募金が集まらなく、みなで
バイトしたお金を出し合って、なんとか前
日の夜行列車に乗せることができた。高校
生の時、原爆ドームの保存を地元議会が決
めたものの、費用が集まらなくて募金に協
力したのがきっかけだった。

旧産業奨励館は、原爆による高熱と爆風、
熱線、光線で、日々ボロボロと崩れ落ちて
いたと聞く。保存技術がそうとう難しく、
広島市だけの予算ではまかないきれない費
用だった。

当時は米ソ中との冷戦があり、それぞれの
国の思惑があった。被爆者の間からも、早
く忘れたいから、原爆ドームのような象徴
は取り壊してほしいという要望があった。
被爆者差別があったことも影響していたか
もしれない。

私は、原爆投下直後の写真や記録を知り、
はじめて見た夜はほとんど眠れなかった。
被爆直後多くの人たちは、人間の姿をなし
ておらず、苦しみよりも、うめき声が写真
に蔓延していた。被写体になった多くの人
にやがて死が訪れたことは、容易に理解で
きた。そして被爆は遺伝する。人をここま
でおとしめる、これが戦争の実態なのだと、
何も言わない写真が教えてくれた。

原爆ドームの保存を訴えてきたから、毎年
募金と署名を集めるのは、自分達の仕事だ
と思っていたが、それも10年ぐらいしか
手伝えなかった。申し訳なかったと思う。
でもドームは保存でき、歴史の証人となっ
た。

夏に咲く花、キョウチクトウ
被爆直後、「70年間は草木も生えない」と
言われた広島にいち早く咲いたのが、夾竹桃
の花だ。夏の日差しのもと、濃いピンクと白
い花が咲き誇る、強い生命力を持つこの花は
、焦土と化した広島の希望の象徴として、市
民に復興の光を与え、1973年「広島市の花」
として制定された。

今年の式典には、アメリカやフランスの政
府からも参加した。核兵器のない時代へ、
一歩づつ近づいている、と思いたい。
戦争で死んでいった人たちに報いるために
も、、。