ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

再開(1)

2011年04月28日 | 日記
温かくなって来たら草の芽がでて、ラフの色が
変わった。天気の良い日は、水やりのスプリン
クラーが勢いよく回り、初夏の装いにかわった


グリーンの粘りはつよくなり、それでなくとも
届かないパターがショートばかりしている。
「ほなさん、ボールはカップに届かないと
 入らないよ。」
同伴者から言われる。相変わらずヘタだ。

さて、福島県の「みなみ相馬」の商友の店が
再開した。これで親しい方はみな再開となった。
ここは原発から20キロ以上30キロという範囲の
場所で、避難していた人々も学校が新学期をは
じまったこともあり、自宅にもどり始めたよう
なのだ。

今月大阪で会った数名の方に募金を呼びかけた
ところ、みな快く引き受けてくださり、避難先
を知る方に、この商友の店へ義援金を送っても
らっていたので、そのお礼を言われた。

電話の声は元気だった。
シャッター1枚開けて家族とバイトで営業して
いるという。大型店が店を開けないため、地元
の店は忙しいそうなのだ。
津波の被害をまぬがれた彼は、この間、三度、
「もう駄目だ!」と諦めた瞬間があったといった。

一度目は、
朝、役所で災害復旧会議をやっている最中、す
さまじい爆発音がした。津波監視の係員が、あ
らぬ方向を向いていた。そして、
「南だ!」
と叫ぶ。
南は原発の方向だ。そこには、原発から上空に
立ち上る煙のようなキノコ状の雲が立ち上って
いるではないか。
「これはアカン!」

関西出身で東京で仕事をしていた時、相馬のこ
の店の設計の仕事できたのが縁で、彼女と結婚
。同時に店に入りそれ以来拡大し、さらに地元
貢献したいと仕入れの合間をぬって松下政経塾
へと通った男。
その後、おされて十数年前より無所属の市会議
員となった。

もともと関西生まれの「よそ者」であるために
かえって地元貢献したいと思う気持ちは強い、
と彼はいう。
言いたいことを発言するために、無所属を通し
市長とも丁々発止をやってきたが、あのキノコ
状の水蒸気をみたら、
「あー、すべては終わった。地元が無くなった。」
と素直に思った。それほど大きな爆発だった。

あとでそれは水素爆発で、原子炉を覆う建屋が
吹っ飛んだ水蒸気の煙とわかったが、誰もがと
ても生きた心地はしなかったという。
こういうことが三度あった1ヶ月半だ、といっ
た。

なんともはや、、、

2011年04月20日 | 日記
パブリックのシニア杯があり、今月も参加し
た。朝は、女房より早く出て、シニア杯だけ
に許された早朝ラウンドをさせてもらう。

なにせ週1回以上、クラブに触ることをしない
ものだから、ぶっつけ本番で出場していたら、
スタート室のHさんが、
「体も温めんと、勝てるわけないでないで」
このご注意いらい、1時間くらい前に来て、
練習ラウンドで体を温めることにしている。

しかし良いことばかりではない。練習ラウン
ドをすると、早朝の朝露でグリーンは重く、
気温が低いものだから球は飛ばない。つい、
大きめのクラブを使う。欲張って1ホールでも
多く周ろうとして、スイングまで早くしてし
てしまうが、独りではチェックしようがなく
そのことにも気付かないまま。こういう練習
ラウンドは、えてして悪い結果となり、
「今日は(も)あかんわ!」
と気ばかり滅入ってスタート時間を迎えるこ
とになった。

実際のスタートは、関西弁風にいうと、
「なんともはやうまいこといきまへんなぁ」

お仕事とは(終)

2011年04月17日 | 日記
「店を開けていても、ひとりのお客様も来ない
 日があるんだよ。目の前にこれだけのお客様
 がいて、その人たちが困っている。お客様の
 期待に応えなくては、、、。」
と、日々7時間も8時間も給油所に並び、10L
のガソリンを入れてもらうと、そのまま被災地
の店へOさんは走らせたそうです。

「うちの旦那さんは、本当に立派な人だと思い
 ました。」
父親のこうした姿を、子供たちに見せられたこ
とが、とてもよかったと、奥様は言いました。

大阪での彼は、お客様の注文の品を懸命になっ
て集めていました。もちろん子供らも手伝って
いました。

仕事とは、損得抜きで、他人のために身を粉に
して尽くすことだと、しっかりと彼の子供たち
に伝わったと確信しました。

岡田 徹(とおる)の詩から、

「私の生涯の願いは

 タッタ一人でよい

 この店は

 私にとっては

 だいじな店ですと

 いって下さる

 お客という名の

 友人をつくること 」


小市民ほなさんが、いざという時、Oさんのよ
うにできるかどうかは、まだまだ自信がありま
せんが、自分もそうありたい!ですね。
ほんの少しだけですが、いつまでも応援してい
きます。

日本国中には、いま各方面に、Oさんのような
方がおり、それによって支えられているように
思います。それが日本の財産です。
どうかお体を壊さないように。

お仕事とは(2)

2011年04月17日 | 日記
資本金がなく商売をし始めた彼は、車に衣料品
を積んで、スーパーの店頭やあちこち売りに歩
きました。一日いくらの場所代を払ったにもか
かわらず、ひとりもお客様が来ない日、見てく
れても買ってくれない日も多くありました。見
知らぬ顔の旅がらすの商人では、なかなか信用
が得られないのです。

やがて、木造の平屋ながら自分の10坪の店を
もつようになりました。高校までは駅伝の選手、
若い体力で商売の勉強を熱心にしました。
この頃、ほなさんは出会いました。毎週東北か
ら大阪へと、夜行列車で通ってくる熱心な人が
いると問屋さんから紹介されたのでした。

その10坪の店をほなさんは見に行き、ほんと
に手造りとはこのことだと思いました。店の什
器から建物まで自分のトンカチで打った跡があ
りました。
こういう若夫婦ですから、とにかくお客様を大
事にします。10坪で年商ウン千万の売上(詳
しい数字は知っていますが言わない)となり、
田舎のしかも場末立地でよく売る店として、業
界雑誌にのり全国に名が売れました。

がんばっていると引き立てがあります。彼は大
きな店のやり方を勉強し、いつの間にか売場1
50坪クラス規模の店が3店舗できあがりまし
た。

今回、奥様と大阪の路上でばったりお会いしま
した。お顔をみたすぐ、ほなさんは言いました。
「Oさんなら、地震のあとすぐ営業されると思
 っていましたよ。」
といいましたら、奥様は大声上げて泣きました。
こう言ったのは、ほなさんただ独りだったよう
でした。

「ほなさんは、よく判っていてくれてうれしい」
「同業の中には、震災でいくら儲けたんだと聞
 いてくる人もいたんです。お客様のために尽
 くすことだけを考えていたのに、、、。」
恥ずかしいことですが、同業の中には、Oさんの
懐だけを気にした方もいたようです。

一緒に「お客様のお役にたとう」と勉強した仲
です。こういうときこそ、損得より善悪を優先
したいものです。そしてOさんの奥様は、平常
時では勉強できないことができた、と言いきり
ました。

お仕事とは(1)

2011年04月14日 | 日記
4月はじめ、ぷりんさんから連絡のあった東
北地方のOさんご家族と大阪で会いました。

予想通りOさんは、地震から三日目の朝に営
業を再開したそうです。この町には、大型店
「し○むら」とOさんの店しか、衣料品店は
ありません。

津波はOさんの店の2百メール手前で停まり、
難を逃れました。
津波から逃げ延びた、着の身、着のまま、海
水でずぶぬれになったお客様から、乾いた肌
着、タオル、歯ブラシセットを求められ、被
災者をほってはおけないと、その責任感から
店を開けたといいます。

「し○むら」はじめ、どの店も閉まっている
中、Oさんの店が営業しているというので、
たくさんのお客様が集まってきました。
暗い店内は万引きされても全くわかりません
し、何が起こっても不思議ではない状況です。

レジは動かず、電卓で計算しました。お客様
はロウソクの灯りで商品を探し、黙って長蛇
の列に並び、計算が終わると、海水で濡れた
お金を差し出し、
「店を開けてくれてありがとう。」
とお礼を言って帰っていきました。お客様か
らお礼を言われる、それほど皆が困っていた
のです。

Oさんには、こんなものが欲しい、あんなも
のを探してくれと、ひっきりなしにたくさん
の注文がでました。衣料品でないものもあり
ました。

被災が軽かった2店舗から商品を集め、車に積
んで、手に入らない軽油の代わりに灯油をたい
て走らせました。近年、大病から回復したばか
りの体を心配する妻に、彼はこういったそうで
す。
「お客様が来てくれる以上、店は開けなくては
 いけない。」
こういう彼には鬼気迫るものがあったそうです
が、それには理由がありました。