ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

ほなさんと行く「大阪バリアフリー展」(2)

2016年03月28日 | 日記
すみません、上のタイトルでは誇大広告を載せ
てしまいました。

どこが嘘かと、ありていに申しますと、
「ほなさんと行く」と書いた部分であります。
「ほなさん」なんて人、有名人じゃあるまいに
誰も知らないんですから、ほんとに。
「大阪バリアフリー展に行きませんか」
というだけのことでありました。

まぁこのブログ自体が、どこまで本当だかわか
りゃしない、ということでフィクションである
と説明を入れておりますので、どうかお許しく
ださいませ。

さて、ここからが言いたい本題でありますが、
先の同窓会の前後に思ったことは、

老い先短いかもしれないのだから、

「会いたい人には、会っておきたい!」
なかでも、
「良い人に、会いたい!」

と心から考えるようになりました。

仕事で会う方々は別にして、幼馴染であると
か、他人が良いと言われる方のお話を聴きた
い、と切に考えるようになりました。

そういうわけで、、
出世頭の友は、世間話が無い時に居るぐらい
で、本人とは縁を持ちたくありません。忙し
いから気をつかわなにゃいかんでしょうし。

それ以上に、お金持ちの友人は要りません。
他人の財布の中味を数えることは、そりゃた
まには興味がわくかもしれないけれど、いく
ら数えてみたところで、自分の財布には関係
ありません。

計算だけなら、認知症予防の計算式100-7、
93-7ぐらいができればいいのです。難しい千
万や億の計算はいりません。

ほなさんの生活レベルに関係あるのは、やっ
ぱり、食事時に「お醤油」が切れたら、借り
に行けるような人たちでありますし、こうい
う方たちは、自分が困ったこともありますか
ら、他人にも優しいのですよ。ちょっとお茶
飲ませておくれ、なんて上り込めそうですし。

困ることの無い「お金持ち」は、大きな門構
えで、近所の貧乏人ほなさんらを拒絶してい
るかのように思えます。こんな方と知り合い
になったって、お醤油カシテ?なんて言えま
すか。

仕事やボランティアの手伝いをしたり、年寄
りの話を聴いたりして、ひとつひとつ目先の
小さなゴミを拾うようなことができる瞬間が、
こんないいかげんな私でも、お役にたつこと
ができたと感じます。

この方と一緒の時間を過ごしたいなぁ、話が
尽きないなぁと思える人たちと、たわいない
会話をする時、ひとりなら夕暮れを観ながら
お気に入りの椅子でうつらうつらしてる時が、
なににもまして一番の幸福でありますね。

ほなさんと行く「大阪バリヤフリー展」(1)

2016年03月27日 | 日記
福祉用具のような装いで、まがい物が販売され
ているのを時折見かけます。もちろんすべてが
’まがい物’というのではありませんが、不良
品が混じっています。販売に対する基準があい
まいなのですね。

たとえば、「一本杖」ですが、杖と地面の接地
する場所、ゴムは特に重要な部分です。さかさ
まにしてみると、多くの場合、外周と内周の同
心円のゴムの筋がありこれが地面をグリップし
てくれます。(別の紋様も多数あり。)

ゴム底面は、外周の筋が少し高く、内が低くく
ぼんでおり、上から体重がかかると、真中のボ
ッチン、内周の輪、そして外周の輪という順に
接地して吸着します。(吸着型の場合)

そして重さにより少し外側に広がりながらも、
ゴム全体が接地することにより、歩行者の足場
の安全を確保することができます。

ところが、ほなさんが見た商品は、接地面のゴ
ムがプラでできており、一番大事な地面にあた
る部分がまっすぐなっていませんでした。
中のひどいものは一部が変形しているために、
杖の底全体が地面と当たりませんでした。だか
ら常にグラグラと動きます。

これが「歩行補助杖」として販売していないの
であれば、例えば、
①気分がいい時に手に持って振り回す道具とか
②高いところのものをつっつくために使う棒
などとも解釈できますが、いかんせん
「ステッキ」
という名称で、
「前外方20cmのところへ下ろし、腕の角度」
まで書いてあると、これはもうリッパな「歩行
補助杖」という福祉用具を意識したものである
と理解してしまいます。

であるならば、
「もうちょっとマシなものを売らんかい。転倒
 したらどないするんぞい!」
と声を荒げてしまいそうになります。

実は「福祉用具」というものは、使い方により
危険が伴います。およそ道具というものにはリ
スクはつきものなんですが、その偽物まがいや
不良品は絶対に危険であるのは、言うまでもあ
りません。

それで、販売している人たちの知識、眼力を上
げないといけないなぁ、とほなさんは考えるよ
うになりました。
「本物の福祉用具展をみてもらおう。本物に触
 れてもらおう。」
とほなさんは上記の企画で、同業の衣料品販売
店を中心にあちこちよびかけることにしました。

老人ホームで逢いましょう♪

2016年03月25日 | 日記
50周年同窓会の終わりは、それぞれの場所でのプチ
同窓会のはじまりとなったもようです。
世話人にとって、大変うれしいことであります。

また同窓会をやってほしいという仲間たちに
「次は老人ホームで会いましょう。」
とほなさんは言いましたら、それは遅すぎると
言われてしまいました。やっと肩の荷を下ろせたので
しばらくは、自分自身のプチ同窓会をやりたいと思い
ます。そうそう次の準備に入るのはいかがなもんか、
第一、仕事ができませんからね。

シニア世代が、リタイヤ後の生活をどう創造していく
か、それはそれぞれの、その方の課題です。今回の
人探しで、他と交わることをしたくない、といった同
級生も多くいることを知りました。それは単なる人嫌
いなのか、はたまた同級生と会うことが、どこかに痛
みを感じるからかもしれませんが。

偉くなった方もそうでない方も、出世を意識した同窓
会はもう過去のものであるように思います。50年前
にも、同級生同士の差はありました。コンプレレック
スを感じたものであります。
でもそんなことはもうどっちでも良く、素の自分に戻
れる場所が、共に時代という空気を同じ場所で吸った
シニア世代の同窓会であってほしいと思います。

「ライオンウッズ110の王」で主催者WINDさん
は、はじめて会った時、名刺をだそうした私に、
「そういうの、ここでは必要ないから。」
と言いました。そうなんだなぁ、仕事の名刺なんて、
必要になったら出せばよいだけの話なんですよね。

今だに、企業の名刺を出すなんて無粋な事、したくな
いですよね。といいつつ、ほなさんも連絡先の書いた
紙として、名刺を配っておりますが。

花粉症なのか、鼻水たらりとしつつ、ディッシュの山
をこしらえつつ、また次の面白いことをやりたいです
ね、と思いました。

そうなんです。次の企画が4月にあります。
しばらく貯めてきた話なので、これでまた楽しんでや
ろうと思っております。
次回に。

50年同窓会(大団円)

2016年03月20日 | 日記
こういうこともありながら、世話人は5か月で
583名中329人を探し出しました。内21名が
亡くなっており、そしてわれわれの同級生は、北は青
森から、南は香港まで散在して居たのでした。

12月初旬、同窓会の案内を往復ハガキで出しました
ら、2枚が住所不明で戻ってきました。
あとは全部着いたのです。素晴らしい精度に驚きます。

はじめから名簿があり、それに頼ったならこうはいき
ません。またこの2名はC小の名簿の方でありまして、
足で探した方々へは、すべて案内状をお届けすること
ができました。
どうかみなさん、この世話人の方々の努力を大いに褒
めてあげてください。(大きな拍手があがる。)

さてまだ探し出せていない方々も多くありますが、名
簿のほとんど無い状態から短期間でここまでこれたの
には、大きな理由があります。私は途中でそのことに
気付きました。

それは、
「同窓会をするんなら、○○君、○○さんへ知らせて
 あげて!」
と常に言われました。同級生からの強い思いがあり、
その思いにわれわれは背中を強く押されたのです。
みなさんから戴いた情報の中味は、ひとりの落ちこぼ
れも無く、友の元へお届けせねばならん、という気に
させました。

つまり、あなたにこの案内状が届いたということは、
同級生の誰かが、あなたを名指しで
「案内状を届けてくれ。」
とわれわれの元に知らせてきたからであります。

50年前、○○中学校に3年間いた方も、1年しか在
籍しなかった転勤族の方にも、同・様・に・
あなたを忘れず、
あなたのことを想っていてくれた
同級生という名の
「友達」
がいるという事実を、これからの人生で覚えておいて
ください。

同級生ってほんとうにありがたいですね。
シニアになっていくと「友達」がとても大切な存在に
なります。気軽に名前で呼び合える同級生は、これか
らもあなたの生活を豊かにしてくれます。

どうかこれからの数時間を十分にお楽しみ頂きますよ
う。それがわれわれ世話人の願いであります。
最後に、あなたと同級生をつなぐ役目をしてくれた
世話人を紹介します。

(そしてほなさんが世話人をひとりづつ早口で紹介す
 ると、呼ばれた方はその場で立ち上がって行った。)
(最後のひとりが立ち上がると、会場はより大きな拍
 手につつまれた。)

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さて、宴会の途中、ほなさんは、隠し玉として
卒業50周年記念に結婚するという同級生同士に
登壇してもらい、みなさんに紹介しました。
「この3月1日、入籍した二人です。」

50年を記念として出発する友達がいることを
ぜひとも知って欲しかったからであります。
これから始まる!というこの二人を
ヤンヤの喝采が包んでいきました。

平成28年3月6日、午後2時をちょっと過ぎた頃
四国は徳島駅近辺のホテルでの出来事でした。


50周年同窓会(3)

2016年03月16日 | 日記
ここからひとりひとりを探す作業が始まりました。
古い古い記憶の片隅にある「同級生の家」を訪ねていき
ました。勇気を奮い起こし汗をかく作業です。

「○○君はどこにおるんで?」
「○○さんはどこへ嫁に行ったんえ?」
親や兄弟、親戚、それぞれにこう尋ねることは、わかって
いても、飛び出していけることではなかなかありません。

するとB君が動き出してくれました。野球部の彼は、脚の
速さは陸上部を抜いていました。その彼が同級生を見つけ
てきては、電話の向こうから、
「同窓会、ぜったいやろうな!」
とエールをおくってきます。

次に4組のCさん、Dさんらが、今はもうシャッター街と
なった県下一の商店街を、ローラー作戦で一軒一軒訪問し
てくれ、大きな成果を上げてきました。これらの動きが世
話人会に火をつけ、同級生の噂をよび、いろんな情報が世
話人のもとに集まってくるようになりました。家がなけれ
ば、勤務先を伝えてくる場合もありました。

その中のひとつ。
某君の情報は、家はなくなっているが、かつての職場だけ
がわかっているというので、8組のE君と勤め先に一緒に
行きました。
同級生の名を告げると、受付に居た若いスタッフは、まっ
たく知らないのでしょう、きっぱり、
「居ません。」
と言いました。

せっかく情報をくれた同級生にも返事をしないといけない
ので粘りました。古い方はいませんか、と。
しばらくして、奥から怪訝そうな顔をした年配者が出てき
てくれたので、ほなさんが事情を話すと、
「残念だなぁ。その方は10年前に亡くなったよ。そうい
 う訳で自宅も無くなったんだ。」
そして私らに向いて、気の毒そうな表情で
「ご苦労さん。」
とねぎらってくれました。

「ああ、遅かったなぁ、E君。」
と帰りの車中ほなさんは、運転してるE君に言いました。
ほなさんは幹事になってから、日々、新聞の死亡欄を見る
習慣がついていましたが、10月にひとり、12月には1
組の方を見送りました。

12月の同級生の場合、付き合いの良い彼が、今回はなぜ
幹事役を引き受けなかったのだろうと思っていました。そ
れほど悪い容態とは知りませんでした。

葬式の挨拶で、彼の息子さんは、3月の同窓会を楽しみに
していたのに、と泣きました。棺の中の彼に、
「知らんでごめんよ。待てなんだんやなぁ、皆に会わせて
 やれなんだ。すまん。」
とほなさんは手を合わせました。涙がこぼれました。

年の暮れが迫ってきていました。苦しい年の瀬でした。

50周年同窓会(2)

2016年03月13日 | 日記
ほなさんの同窓会での挨拶を載せます。
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恩師の先生におかれましては、お元気でお越しいただき
誠にありがとうございます。50年前に教えていただい
た結果、私たちはなんとかここまでやってこれることが
できました。しかし先生の教えが身についているか、ご
ゆっくりと今日は判定してください。

さて、○○中学第20回卒業生のみなさん、こんにちは。
(「こんにちは」と皆から返事あり。)
本当にお久しぶりです12組のほなです。今日の世話人
20数名のひとりで、事務局をやらせていただきました。
挨拶というより、経過報告をさせていただきます。

本日の司会をお願いしました5組の森優子さん(旧姓○
○さん)は、瀬戸内寂聴さんとコラボするような「朗読
家」であり、プロの司会者でもあります。本日はみなさ
んご存じの「○○(男性歌手名)」のコンサートの仕事
が入っておりましたが、今日の同窓会のために「ぜひに
!」と頼み、快く来ていただきました。

というのは、昨年6月、「森優子朗読ライブ」が徳島で
開催され、その打ち上げ会の席で、同窓生の方々と会い、
盛り上がり、ぜひとも同窓会をやろう!ということにな
ったからであります。
翌7月、第一回目の世話人会を開きました。13名が参
加してくださいました。半分の方は顔がお互いに判りま
せんでした。(笑いあり。)

50年ぶりですからね、仕方ないのです。
一番困ったのは、卒業名簿には、名前だけしか無かった
ことでした。住所も連絡先も存在しておりませんでした。
○○中学校は、A小学校、B小、C小から成り立ってお
りました。このうち、C小の卒業名簿は、世話人の○○
君が持ってくれており、提供をしてくださいました。

C小は2クラス80名でした。これをベースにしようと
したところが、我々の中学は同窓生583名、13クラ
スありましたから、なんとしても、残り11クラス分、
約500人を世話人は探し出さねばなりませんでした。

大変なことがはじまったのでした。

50周年同窓会(1)

2016年03月13日 | 日記
ゴルフバムさん、コメントありがとうございました。
洗髪中に、
「頭、全部が痒い」
これ、ほなさんも言うてみましょう。
この言葉に、ほなさんの頭の毛の抜けよう(バラバラな生
え方)をみて、理髪店の店員さんは、思わず手を引くかも
しれませんわ。

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さて、昨年6月からの大仕事でありました、中学卒業50
周年同窓会が終わりました。
世話役を引き受けて、どうなることか思いましたが、
多くの方のご協力を得て、大盛況のうちに閉幕となり
ました。ありがとうございました。

「ほなさんが幹事役だから成功せんものと思ってたわ。」
とお褒めの言葉までいただきました。

132名出席、
同級生9名によるブラスバンドが、校歌・応援歌を
奏で賑やかで、皆が50年前の朝礼を想い出しました。

会の当日、私の仕事は、ホテル入口で受付への案内を
A君とやることになりました。この間もっとも名簿を見
てきたほなさんが同級生を、恩師の案内をA君が紅い大
きなリボンを手にし、という割り振りです。

三々五々やってくる同級生は私の名札をみて、
「おお、ほなさん世話になるなぁ。連絡くれてありがと
 う。」
と言ってくれました。年老いた顔の瞳の奥には、あの
少年少女時代の輝きがまだ残っています。
隣のA君は、
「全く誰だか判らんわ。知っとる奴、おらん。」
とちょっと憮然としています。

そこへ、メガネの奥の眉毛が半分白くなった同級生が、
腰を悪くしたのでしょうかウォーキングステッキを左右
につきつつやってきたのです。この時です、A君は、
「先生、ようこそお越しくださいました。」
と直立不動で言い、片手で大きなリボンを背広の胸につ
けようとしているではありませんか。

される方もそのままの姿勢でおります。慣れているので
しょうね、この同級生も。それで私は、A君だけに判る
ように手を振りながら、
「オイオイ、A君。この人は違うよ。確かに先生だけど
 大学の先生だ。」
この同級生は大学の非常勤講師をしている方でした。

A君は65歳の生徒と85歳の恩師を間違いながらも、
なんとか無事、案内することができました。
132人の集合写真を観ると、A君が間違うのも無理は
なく、恩師よりはるかにシニアらしい年寄りばかりであ
りました。

50年の時間は、やはりあまりにも長かったのです。