ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

8ヶ月で120ラウンドした男(4)

2008年09月30日 | 日記
ゴルフバムさんから、
「(今後の展開が)面白くなりそうですね。」
という期待をこめたコメントをいただいてるの
で、もう大変。

どんな物語にしようか?と頭の中で考えてみた
りしたのだが、「汗かき日記」は現在進行形の
ノンフィクションであったので、面白くするた
めの嘘は書けない、とてもザンネンだ。
(それが嘘というもの。)

声をかけてきた(40代だろう)アンちゃんは、
・メッタに練習しない
・ゴルフ暦4年
・ハンデ10(近郊ゴルフ場の)
などということを教えてくれた。

練習しなくても上手いと自慢を言うのに、それが
嫌味に感じないのは、かわいい系の顔つきだから
なんです。

ほなさんのスイングをみて、
「後ろから前に体重移動するのはわからんでもな
いけど、体が前につっこんでる。壁が無いわ。」
と教えてくれた。
なるほど!なぁと思いましたね。
雑誌によくのっている、スイングに×がついてい
るパターンのひとつだとわかりました。

それで、右足を踏ん張って、その場で体を回転さ
せるぐらいの意識で右向け右をすると、ボールは
まっすぐ飛んでゆくのでした。クラブの面にきれ
いにあたって、打球音が違いました。
ふーん、体重移動をさせたいと思ってやっていた
ら、移動しすぎていた訳か。

ゴルフを教えてくれる方もたまに居て、こう振れ!
というアドバイスを頂戴しますが、そういう風に
ふるのって、その場ではほとんど無理です。
レッスンプロに習うのと、ちょっと違うんですね。
レッスンでは、今日出来なくても次にと思えます
からね。

こういうときは、練習場の帰り、今日はなんのた
めに来たの?と疑問に思います。
でも、このアンちゃんのアドバイスは的確でした。
何度かに1回は、うまく当たることができたので
す。

ゴルフ練習のほとんどを、100ヤード以内の
アイアン練習をせよ、とも教えてくれました。
アンちゃんは練習場のヤード表示の看板を指差し、
「オレなら、30y、50yは100%寄せることができ
るよ。」
と言うのです。私は乗ればいいなぁくらいの意識
ですから、のったり乗らなかったりでです。

それで、こっちも興味が湧き、
「練習しないというのに、どして4年でハンデ1
0になることができたの。コーチは。」
と尋ねましたら、
「すべて我流。今年だけでもうすでに120ラウ
ンドもした。キチガイだろう。」
と答えたのでした。

アンちゃんの話では、市場に勤めているから昼前
に仕事が終わると、その足でゴルフ場へ行き、1
ラウンドしてくるんだそうです。
そして、
「ゴルフは金と時間があれば上手くなれるって
よーくわかったわ。」
と自嘲気味に話しました。

最後にアンちゃんは、パープレイができたらゴル
フは止めるつもりだ、とも言ってました。

金も時間も、たいした体力もない”ほなさん”は
一生、ゴルフを止めずにすみそうです。
ゴルフを極めることが幸せか、極められないこと
が幸せか、どちらなんでしょうね。
でも一回でいいから、このアンちゃんのように、
「金と時間がある」と言ってみたいです。

あー、それこそ、一生無理だわ。
生まれ変わっても無理でしょうね、ほなさんなら。





新婚旅行

2008年09月26日 | 日記
話がまたまた脱線しておりました。
え?いつものことでもう慣れた、ですね。

さっきメールボックスに、結婚披露宴に招いてく
れた青年から、新婚旅行から帰ってきたよ、と連
絡くれました。

うらやましいですな。
できれば付いて行きかったです。
新婚旅行という言葉の響き、それだけでなんとも
言えませんなぁ。
他からみれば、タオルに柔軟剤入れたみたいに、
ふわふわのように思えますね。
本人はそう思わないのでしょうが、幸せの気分と
いうものは、傍目にも良いものですね。

誰もそうなんでしょうが、新婚旅行はもう1回や
り直してもいいと思いますね。
私の場合、お土産の忘れ物はあったし、疲れた記
憶の28年前。

なんかかんやで奮発して行ったハワイ。
着くなり新妻が、
「私、どうしてもヤキソバが食べたい!中華じゃ
なく、それも日本式のソース焼きそば。」
というもんですから、
ほなさんは必死になってホノルル中を探しました
よ。28年前のホノルルを。

今なら、
「何をバカいっとるんだ!」
というところですが、その時は、親同士が知り合
いだったからのお見合い結婚。(姉も見合い。)
そういうので1回会うとトントン拍子で決まった関
係ですから、本人のことはまったく知らずに結婚し
ました。1度ボーリングかなんかに行って、帰りに
喫茶店で話をしただけで、次は結婚。

なんせ、ほなさんに嫁に来てくれると言ったのは
この娘だけでした。ご両親が良い様に言ってくれ、
女房も若かったから、それだけを信じてしまった
んですね。今では間違いだったと思っているでし
ょうが、その間違いをしてくれたから今の私が居
るわけで、結婚していなかったら、私だけ奈落の
底です。

先輩や友達から、
「お前の考え方、性格は女には絶対理解できない!」
とお墨付きをもらってましたから、当時は嫁にきて
くれるだけで、ホント有難いと思ってました。

裏通りの入り組んだ場所に、やっと見つけた日本
食堂。日に焼けたノレンをくぐって中に入ると、
そこは、おかずが並んだガラスケースがある「一
膳めし屋」さんでした。おかずを取って、ご飯に
味噌汁を注文するヤツね。ツアーについていた
ひとり一食2千円の値打ちある「ミールクーポン」
は使えませんでした。仕方ないです、普通はこんな
裏町まで新婚さんは行かないですからね。

店員さんに言うと、
「盛りそば?」
と聞きなおしすので、しっかり
「焼きそば!」
と言いましたわ。
OKだって、ほっとしました。ソースの匂いのする
焼きそば、確か、4ドルくらいだったかな。他にも
冷奴頼みました。(金額は定かでない)
それ以上にタクシー代がウンとかかったのでした。

みなさんにも、そんな思い出あるんじゃないでしょ
うか。
まだ新婚旅行に行っていない方は、ぜひともお出か
けください。「新婚旅行」という甘い響き、疲労の
残る現実とのギャップをお楽しみくださいな。

さて次は、
8ヶ月間で120ラウンドした男に声をかけられた
ところに話をもどします。

青年の披露宴で挨拶する(終)

2008年09月26日 | 日記
九州から自分の店へ帰った青年は、独立するためには、自分で商売をやってみなく
てはならなかった。そのために、お母さんの店の店頭に商品を置き売ることにし
た。2坪の商品ぐらいでは、とても食っていけるものにならないが、そこでしか実
践する場所はなかった。

店頭商売は厳しい。陽射しの強い日には商品が一日で焼け、外に出してあった商品
すべて色が変わり、売り物にならなくなったこともあった。丸損だ。風の強い日は
商品が飛び、什器が倒れた。自然現象の厳しさに、商品は保たないことが多かった。

そんなことをやっているうちに、ガス屋さんが地域の公民館を回り、展示会をやっ
ていくというので便乗させてもらうことになった。自分の車に商品を詰めるだけつ
め、チラシを蒔いた公民館で、エプロンや肌着や靴下を売った。会場費を払うと儲
けもあまりなかったが、雨の日でも店を開け、商売ができることがうれしかった。
だから、ガス屋さんが声をかけてくれると喜んで参加したのだ。
「ほなさん、屋内の、蛍光灯の光の下で商売できるっていいですね。」と私にうれ
しそうに電話をくれた。

「自分の店が持ちたい!」という想いとは、こんな気持ちの結晶なのだ。この後、
数年も彼は下積み時代が続き、彼自身を苦しめても絶対に諦めなかったのは、外で
の苦しさを体験したからだ。何度も厳しい目に会いながら、それを乗り越えてき
た、この時があるからだ。この青年以外は、すべて最初から店がありスタートした。
そういう仲間たちは結局長続きしなかった。

やがて彼はチャンスを見つけ、両親の応援をえて念願の開店をなしとげる。売出し
はよく売れ、当初は順風だった。ところが、この後、だんだんと苦しくなっていく
のだ。それは予期しえたことであったが、青年には初めての体験だった。

「開店・閉店、誰でも売れる。平日売れずに店つぶれる」は昔からの言葉。ものめ
ずらしい開店の後、潮がひくようにだんだんお客様が来なくなる。華々しい開店を
なしとげた店でも、1年、2年後に行ってみると、違う店かと思うほど生気がなく
なっている場合がある。どこでもそうなるのだ。
ここからが店作りの本番なのだ。お客様の動向をみ、品揃えを修正し、商品やサー
ビスを育て、さまざまな取り組みをやってゆく。

青年の店が開店し2年目に会ったら、彼は成績が上がらず、資金に困り意気消沈し
ていた。3年目に会ったら、思いつめた顔をしていたので、
「○○(青年の名)さん、この店に失敗したら××(言わない)しようと思ってい
るでしょう。」とほなさんは言った。
彼は、「両親にもずいぶん迷惑をかけたので、ダメだったら、そうしようと考えて
ます。」ときっぱり答えた。覚悟のできた顔だった。

青年の覚悟の顔は、迷いのふっきれた、すみきった良い顔だった。
「これなら、やれる!」ほなさんにはそう思えた。
人間、迷いが無くなったら、やるだけのことを死に物狂いでやりつくすからだ。

それから2年後、彼は売上を増やし、店を黒字にした。
「よくやったなぁ。」と言うと、「いやぁ、止められないですからね。まだまだ
ですよ。」と彼はいう。

そして今日、嫁さんになる人をみつけて紹介してくれた、という訳だ。
この知らせに、ほなさんの家族中が湧いた。彼を祝福したいと電話を取り合っ
た。」
彼は大きな山を乗り越えたのだ。もう一人前になったんだね。

私のブログはここまでです。
私は30年この商売をやってきました。いまだに日々感謝があり、悩み、喜びが
生まれます。商人とは本当に素晴らしい仕事だと思います。
○○君、△△さん、お幸せにね。

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挨拶の本をまったく読まなかったために、言ってはいけな
い言葉もたくさん言ってしまったことだろう。
披露宴の最初の挨拶にしては、重すぎるし、商売のコアな
部分だから、一般の人が聴いたらどうなんだろう?と疑問
もあった。

私の挨拶中、ずっと隣に立っていた女房は、話の内容を知
っているせいで、三行目が始まる頃には泣いていた。
早いぞ、そこで泣くのは!
と思ったら、2m先のテーブルで新郎本人が泣いていた。

私も妻も、彼が泣く光景は初めてだったから、とても意外
だった。やっぱり辛い思いしてたんだなぁ。
しばらくすると、何も知らない新婦が横でもらい泣き。
ええ嫁さんだなぁ。
新郎のお母さんの口うるさい親友連中も、しきりと目頭を
ぬぐっている。ヤカマシイおばちゃんは、意外と涙もろい
のだ。
新婦側の席の、まったく知らない若いお兄ちゃんが、真剣
にこっちをみてくれていた。(あとで挨拶にきてくれた。)

話の最初はざわついていた会場が、ピーンと張り詰めた空
気になった。私の話を聴いてくれているのがわかった。
ちょうど10分で話を終えた。予定とおりだった。
満場の拍手をいただいた。

新郎のお父さん、お母さんが、話が良かったと喜びを伝え
にきてくれた。息子とはそこまでの話をしなかった、と言
う。親戚のおっちゃんが、
「どこへ修行に行ったんか?と疑問に思っていたが、これ
からも○○のこと、宜しく頼む。」と言いにきた。

顔見知りの新郎の店の女性スタッフは、泣き顔で
「陰でこんな話があったんですね」と言い、
「ほなさん、私、これからどうやっていこう?」
と尋ねるので、
「あんたは重要なポジションにいてるから、自信をもって
仕事していってよ。自分が欲しい商品、買いたい商品、そ
れを仕入れに生かすことだわ。また大阪で、会おうね。」
と、自分の店のことを棚に上げて答えました。

今年の春に書いたこの話、だまこさんやゴルフバムさん、
そのほかの方から「良かった」と言ってくださっていた
ので、それを信じて「この話をしよう」と決めました。
ありがとうございました。

とんぼ返りの静岡行き、帰りの車中で、妻から
「良い披露宴だったわね。」
と言われ、ほっとした私でありました。
それにしても、あー、腰が痛い。

青年の披露宴で挨拶する(2)

2008年09月25日 | 日記
親元に帰す前に、九州へ二人でいった。九州の商友は、売れずくすんでしたから、
励ましにいったのだ。商店の古びた床を磨き、夜中までかかって飾り付けした。お
金もかけず、三人で相談しながらやった。この店をなんとかしなければという思い
と一人前の商人になりたいという気持ちで、みな一生懸命仕事をしたが、たいした
ことは何も出来なかった。

1泊2日の九州の旅が終わり、青年と大阪空港での別れの時がきた。
「長い間ご苦労さん。帰ったらくじけずガンバレよ。」と私が言うと、「ボクはほ
なさんに教えてもらった店なんか作りませんから。」と少し怒っていた。本当に帰
りたくなかったんだ、とほなさんは思った。帰っても自分が仕事などできる場所が
ない、このまま修行の身分で、時期を待ちたいと考えていたのだろう。

これ以上彼を留めることは、こちらの甘えとなってしまう。私ら夫婦にしてやれる
ことはここまでだった。あとは、彼が自分でチャンスを切り開き、一人前の商人に
育つことを願うだけだ。
徳島行きのプロペラ機の中で、ほなさんは青年の前途を想い、何度も目頭が熱く、
そのたびに奥歯をかみしめた。青年は不安いっぱいのことだったろう。
それが14年前のことだった。

青年の披露宴で挨拶する(1)

2008年09月23日 | 日記
ほなさんの唯一の弟子を名乗ってくれていたために、
ありがたいような恥ずかしいような気分にさせてくれ
た青年が、9月21日の結婚披露宴に招いてれました。

 なお有難いことに、来賓で挨拶までせよと言われ、
これには驚きましたが、かつてブログに書いたものに
手をいれ使うことにしました。
挨拶はトップバッターに指名され、びびりながらのご
挨拶、こんな重要な役目、ほなさんで良いのでしょう
か、と思いながら、静まり返る場で精一杯勤めさせて
いただきました。なにしろ乾杯の前なんですから、ト
ップって辛いのね。

終わってから、シャンパンやビールを口にし、人前に
出てしゃべらされる、もうそんな歳になったのか、私
も60歳が近いんだなぁと実感。なにひとつ進歩しな
いまま歳をとっていくことへ、なんとも言えない寂し
さを感じました。
さて話した(読んだ)内容は、以下の通りです。

○○君(青年の名)によんでいただき、喜び勇んで駆けつけました四国・徳島で店
をやっています「ほな」と申します。われわれ夫婦は結婚28年、この間4回移転
し、2年前にやっと思い描いた店を作ることができ、○○君にもお手伝いいただき
現在軌道にのせようと奮闘努力中でございます。
○○君との出会いのことなど、この春、婚約者○○さんをご紹介された日に書いた
私のブログ、日記のようなものがございますので、不調法ながらそれを読ませてい
ただきます。

○○君(青年)・△△さん(奥様)、ご結婚おめでとう。○○家(青年の姓)・△
△家(奥様)のご家族・ご親族の方々、心からお喜び申し上げます。

この青年に出合ったのは15年前。
ほなさんの店が3度目の移転の際、いろんな方から応援を受け、中でも、この方は
3ヶ月も手伝ってくれるというので、人手不足の私ら夫婦にはとても有難かった。
約束の三ヶ月が終わる頃、「帰ってもすることがない」というので、さらに年末ま
で居てもらうことにした。修行という立場は、食べることと寝る場所だけの厳しい
ものだ。労働基準法も関係なく、青年はよくやってくれた。

年が明け、正月に青年は帰っていったと思ったら、今度は静岡土産をいっぱい手に
持ち徳島にやってきた。「どうしたんだ?」というと、「しばらく徳島で勉強した
い。親の許可もとってきた。」という。ご両親に電話すると、頼むといわれたので
また3ヶ月引き受けた。青年はすでに他所で2年も修行した方で、若いが客あしら
いもうまかった。他店の息子さんを、私のような者が教えることなど大して無かっ
たが、よくよく見ていると、独立してゆくため夢と手順が描けないでいた。要は、
自営は面白いということを知らないのだ。

それで店が終わってから二人で勉強することにした。前にも増して、ハードになっ
た。週のうち半分は睡眠3時間というのが続いた。そして春のある日、突然「もう
教えることはない、帰れ!」と宣言した。聞いた彼は、拍子抜けしたような顔になり、
怒ったような悲しい表情をした。彼には帰っても商売する店もなければ、場所もな
かったのだ。だから何度も私に訴えた。でも弟子より師匠の私の方がふらふらで、
おしえられるすべてを教えてしまっていたし、これ以上いれば、私の方にも甘えが
出そうだった。巣立つ時は突然来る、巣立つというのはそういうことなのだ。


8ヶ月で120ラウンドした男(3)

2008年09月19日 | 日記
このアンチャン、打つだけ打つと、椅子に
腰掛けて煙草をすってます。

広い2階席には、われわれ二人しかいない
のですから、ほなさんの腕を見たいと思っ
ているのですね。
それなら、ご披露しましょうか。

ほなさんは、サンドの30yのショットから
練習しはじめました。順序だててやってい
ると、なんか上手いゴルファーの仲間入り
したような気になりますな。

パラパラ雨が降り出してます。
扇風機の風が涼しくていいですわ。

ほなさんの30yはほとんど届かず、全部シ
ョートしてしまいました。それで、今度は
50yショットの練習です。手の位置が9時
から3時です。(わたいはギッチョです)
これまた届きません。ちょいと足らないの
です。(私の頭のように言わんといて!)

すると休んでいたアンチャンが、人懐っこ
い表情で声をかけてきました。

8ヶ月で120ラウンドした男(2)

2008年09月18日 | 日記
年々、ストレッチの重大さが理解できるように
なりました。体を動かす前と終わったあとと、
気をつけてやっておくと、爽快な気分で終われ
ます。

隣のとばし屋の兄ちゃんは、打つ手をとめて
「ドロゥを××にかえているんスよ。 この前
ラウンドした、ハンデ4の人にね、若いんだか
らもっと飛ばせ!って言われて飛ばしていたら
270yも80も出るんスけど、チィーピンが
出るようになって、それで飛距離は250ぐら
いしか出ないけど××練習をしてるんっス。」

こう一挙に言われたほなさんは、数字とカタカ
ナ言葉が、耳の中でこだまして、意味がよくつ
かめません。
だいたいほなさんの昔からの友達は、電話で
15分話しても
「お互い、金ないなぁ」だけど「元気だなぁ」
ぐらいのもの。

小学校の3年の時からの友達、M君などは、
買い物にきてくれても、
「ほなくん、元気?」
と私の顔みて、ニコっと笑って帰ります。
これでお互いに意味は十分に伝わるんですか
ら、不思議ですよね。だから彼がどんな仕事
をしているんだか全く知りません。女房はこ
んな付き合いを理解できないようです。

若い兄ちゃんの言葉、「××」の部分は、「
スェード」とか言ったような、スェードなら
皮だしな、いったいなんだろう?
「あっ、それって、フェード。」
と判ったのは、1時間もしてからでした。

ウン!フェードってどんな球だったっけ?
まっ、いいか、どうせ自分には打てないんだ
し。



8ヶ月で120ラウンドした男(1)

2008年09月18日 | 日記
自分のことを棚に上げて、他人のことばかり
書いてきました。このところの日本のマスコ
ミみたいになっているなぁ、と反省。

アメリカの会社の心配するより、この日本の
状況を心配せんといかんのではないでしょう
か?木村剛さんがTVでそう言ってたのを
聞き、「そうだ、そうだ。」と思いました。
ほなさんは自分のゴルフと仕事の心配だけし
てればいいのです。
難しい話は、木村さんのブログで読んでくだ
さいね。

それで今日の話は、昨日「8ヶ月で120ラウン
ド」したという猛者に会いました。
これって、NARASETUさんじゃありません。

昨日昼から休みになったので、練習場へ行っ
てきました。腰が悪くなってから、しばらく
敬遠していたのです。

ざっとみたところ駐車場の8割満杯。これに
はしばらくぶりで驚きました。平日の昼間は、
夕方4時まではいくら打っても1時間の料金
です。だから弁当持ってくる爺ちゃんもいる
とか、お昼の3時にはむぎ茶も出してくれる
し、ありがたい練習場です。

1階席は空いてません。それで2階へ。
二階はガラガラでした。ほなさんが頼んだ打
席は左右打ち、その隣、左打席に右打ちのお
兄さんがいました。
これがまた、ええ音させとんですわ。

「向かい合って打つようになるけんど、それ
でもかまわんで?」
と尋ねました。一応、断っておくに限ります。

背はほなさんぐらい、小柄です。でも、白い
Tシャツの中は、筋肉質に違いありません。
40代とおぼしき兄ちゃんは、ドライバーか
らギンギン音を出してます。ところが大振り
ではありません。コンパクトなんですね。
糸を引くような球筋で、高く上ってゆきます。

いやあ、こういうのって、よろしいなぁ。
ほなさんはストレッチをしながら、しばらく
見とれてました。

そんなバカな(終)

2008年09月16日 | 日記
その若いシェフのレストランは、やがて
閉めることになるだろうと思いました。

良い腕だったのになぁ、
ザンネンだなぁ、
なぜ離婚してしまったのか、

家族と離れ借金だけ抱え、その返済のた
めにだけ働くなんて、
あー、もったいない。

と思わざるをえませんでした。

夫婦で乗り切れば、さらに味もよくなっ
ていったはずなのに、

三輪車にまたがり誇らしげな子供の顔、
しっかりものの若奥さんの顔がうかび、
帰り道、思わずこうつぶやいたのでした。

でもこれが現実なのかもしれません。
苦しい時こそ、ふたりでがんばって欲し
かったのになぁ。
かえすがえすも残念な話です。

そんなバカな(5)

2008年09月16日 | 日記
金融機関というのは、支払いが滞ると処分の
方向を考えます。ところが「払いたい」とい
う意思をはっきりさせると、さらに追加融資
なども応じることさえあります。

こういう風になったのは、最近のことではな
く、自己破産など借り手側の法的な防波堤が
見つかる以前からありました。最近の破綻で
はなく、昔、山一証券を政府が支えた時、中
小業者の要求で、無担保無保証人制度が生ま
れました。

50万・100万円程度の小額のものでしたが、大
手を救うなら零細業者も救えという要望が実
現したのでした。無担保無保証人制度という
のは、担保力もない、保証人も居ない人に融
資をするんですから、日本では画期的なもの
でした。
その根本に中小零細業者は社会的に必要だと、
はじめて公的に認められた存在となったので
す。

ところが、実際には、商売人自身がそういう
自覚をもってやっていない場合が多く、店を
作るもの勝手、止めるのも勝手と、思ってい
ます。

金融機関はそういう自己中の経営者と、景気
の良いときはどんどん付き合います。なにし
ろ儲けさせてくれますからね。
銀行員さんと話をしていると、こういう景気
の良い会社のこと、ずいぶん伺います。
でも、そういう会社って、意外と残らないの
です。

「ライブ○ア」が急成長してる頃、私が誉め
ないもんだから、その理由を聞かれました。

「その会社って何をつくっているの?何を販
売しているの?どうもよくわからないなぁ。
お金でお金を買ってゆくだけなんだから、会
社や物へのこだわりもないでしょうしね。
堀○モンにだれかがお金の出しているんでし
ょう。それがいいのかなぁ。」

結局、「ライブ○ア」にお金を出していた会
社も、昨日破綻しましたね。どこからも助け
船が出ませんでした。それが印象的です。
冷たい金融機関であっても、社会的に必要だ
と思える会社なら、また違った形になったか
もしれません。