ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

天気がいいです、ゴルフ日和

2008年03月29日 | 日記
今月のシニアでは、61打(パー39)にも
なってしまい、それ以来、前進がでけまへん。
あきまへんなぁー。

このショートコースは、12ホールを1ラウン
ドすると、本コースのハーフとほぼ同じといわ
れていますので、なんとか40台で回ってみた
いと思っていますが、ホントにそういう日がく
るのでしょうか。

61打のスコアは、ベト(後ろから)3でした。
スコア表に自分の名があり、張り出されている
ので、恥ずかしいですわ。

次から他人の名で申し込んだらどうやろか、な
んてことも思います。
「NARASETU」とか「テーラー毎度」、
いやいや、どうせなら、
「梅さま」がいいですな。

シニア杯は40台の人がほとんどで、次元が違
いました。ゴルフしてまで恥かかんでもええ、
それなら止めろ!と言いたいですが、
今日は天気がええです。

あー、行きたいなぁ。

「うれしい出会いあり」(その後)

2008年03月26日 | 日記
あまりにうれしかったものだから、『うれしい
出会いあり』が長くなりました。ほなさんのゴ
ルフでのチョンボやミスを期待していた方、ご
めんなはれ。またはじまるけんね。

コメントくださった
ゴルフバムさん、だまこさん、ありがとね。

ついでにここで補足をば。
ほなさんと青年が応援に行った、九州の商友の
親父さんは、あれから数年後、他界されました。
そして、一人前の商人になるぞ!と決意した本
人は、努力はしたのですが売れるまでにいたら
ず、2年前、彼もまた親父さんのところへと旅
立ってしまいました。まだ50歳前でした。過
労でした。

亡くなる数年前に会った時は、資金繰りに追わ
れる毎日で、簡易宝くじを手にして、100円
玉でアタリの部分をこすりつつ、
「ほなさん、オレ、一人前の商人にようならん
だった。」
とため息混じりに言いました。

それを聞いて、私は、
「○○さんは何を恥じることがある。ふたりの
子供さんを成人させ、結婚して孫までできたや
ないか。それが世の中での一番の仕事やないの、
胸張って生きていったらええ。」
とこたえました。

そう聞いた○○さん、ちょっとホッとした顔で
した。
ほなさんの商人としての原点は
、「天国の父ちゃんこんにちは」
(TBS日曜劇場)
です。

「こんにちはー、パンツやでーす。」で始まる
森みつ子の元気な母ちゃん。他人に迷惑かけず
ひたむきに生きるなら、だれもが一人前です。
九州の彼も、借金返すのにひたむきに生きてま
したから、一人前だったはずです。その中で、
子供を育て、結婚もさせたのですから、ほなさ
んが言ったことも納得できることでしょう。

それ以外に、借金の仕方、返し方、彼に教わる
ことが多かったです。その話の時、
「ほなさん、まだまだ甘いわ。」
と何度もダメ出しされました。
我のほか、皆師なりですね。

親父さんと14年前に和解した彼は、親父さん
の元へいっても、話しやすかったことでしょう。
少しはよいことができたかな、と思いました。


さて、ゴルフの話です。
ある奇蹟
ジーンときました。

うれしい出会いあり(終)

2008年03月25日 | 日記
「開店・閉店、誰でも売れる。平日売れずに
店つぶれる」
は昔からの言葉だ。

ものめずらしい開店の後、潮がひくようにだ
んだんお客様が来なくなる。華々しい開店を
なしとげた店ほど、1年、2年後に行ってみ
ると、違う店かと思うほど生気がなくなって
みえる。どこでもそうなるのだ。

力のある店は、そこからが異なる。
落ち着いてお客様の動向をみ、品揃えを修正
し、本来のあるべき姿にもってこようと努力
している。商品やサービスを育て、さまざま
な取り組みを水面下でやっている。

しかし、お客様の生活に入り込み、花開くま
でには、また資金が必要となる。開店(開業)
してから、軌道にのせるまでの間、資金が尽き
て、止めてゆく事業はとても多い。形は会社と
いえど、個人経営はどんどん淘汰されてゆく。
そして医者も例外で無くなった。徳島などは、
コンビニの軒数より、歯医者の方が多いという
から、銀行も医者の肩書きだけで融資する時
代は終わった、という。

青年の店が開店し2年目に会ったら、彼は成績
が上がらず、資金に困り意気消沈していた。
3年目に会ったら、思いつめた顔をしていたの
で、
「○○(青年の名)さん、この店に失敗したら
死のうと思っているでしょう。」
とほなさんは言った。

彼は、
「両親にもずいぶん迷惑をかけたので、ダメだ
ったら、そうしようと考えてます。」
ときっぱり答えた。覚悟のできた顔だった。
この国では、零細企業は、借金が返せなくて自
殺する場合が多い。融資制度が個人責任のシス
テムだから、自殺者は増えるのだ。

青年の覚悟の顔は、迷いのふっきれた、すみき
った良い顔だった。こういう好青年を殺しては
ならない。
だが、
「これなら、やれる!」
ほなさんにはそう思えた。
人間、迷いが無くなったら、やるだけのことを
やりつくす。

それから2年後、彼は売上を増やし、店を黒字
にした。
「よくやったなぁ。」
と言うと、
「いやぁ、止められないですからね。まだまだ
ですよ。」
といつも彼はいう。

そして今年、
嫁さんになる人をみつけて紹介してくれた、と
いう訳だ。
この知らせに、ほなさんの家族中が湧いた。
彼を祝福したいと電話を取り合った。

彼や婚約者のお嬢さんが、これからどんな風に
なってゆくか、どんな景色をみつめてゆくのか
それは、ほなさんにもう見えない。
でも彼らが、この時代をリードし、次の時代を
つくるのだけは間違いないことだ。
きっと面白い、楽しいことになるだろう。

うれしい出会いあり(5)

2008年03月24日 | 日記
土地を貸してくれる店舗物件が見つかった
のだ。それまでは、貸し手は居ても、青年
を見ただけで、若い子の世迷言だと、地主
や不動産屋が相手にしてくれなかった。20
歳代では無理からぬことだ。

居ぬきの物件もあたったが、いくら探して
良いのはなかった。それで借地をしようと
探していたのだ。市内の空き地はすべて回
った。何度もみていると、不審者に間違わ
れ変な顔をされたこともあった。

この間、銀行にも通った。ほなさんから普
通預金通帳を作ったら、それをできるだけ
汚せ、といわれていた。「汚す」とは口座
引き落としなどの取引をすることをいう。
銀行は手数料収入がバカにならないから、
たくさん落としてくれると、収入も判るし
、良いお客さんということになる。

お金がなくて定期預金ができなくとも、良
いお客さんになることはできるのだ。
それから、毎年の決算が終わったら、銀行
の担当に決算書を渡せ、とも言われていた。
取引していなくとも、担当者は決算書をも
らうと、いくらんでも捨てるわけにいかな
いから、置いておく。それを毎年ずっとや
っていくと、長年の信用が生まれる。取引
してないが、実績も判るし、少なくともキ
チンとしている人だ、ということになる。

こちらは金が無くて、将来は融資をしてほ
しいのだから、数年前からこういう準備を
しておくべきだ。顔だけ売っおいたから安
心してると、銀行というところは、いざと
なれば知らん顔をする。雨の日に傘を貸さ
ず、晴れの日にどうぞというのが、昔から
の通例だ。

一方で、銀行はわれわれのスポンサーであ
るから、スポンサーへの配慮が必要だとい
いかえることもできる。
どちらにしても金があれば借金などするこ
とないのだから、金が無いヤツには時間と
知恵がいるぞ、と言われたのだった。

やがて、念願の開店をなしとげ、売出しも
よく売れ、当初は順風だった。ところが、
この後、だんだんと苦しくなってきたのだ。
それは予期しえたことであったが、青年に
は初めての体験だった。

うれしい出会いあり(4)

2008年03月23日 | 日記
九州から自分の店へ帰った青年は、独立す
るためには、自分で商売をやってみなくては
ならなかった。そのために、お母さんの小さ
な店の店頭部分、さらに狭い、ほんの2坪ぐ
らいのスペースに商品を置き売ることにした。
2坪の商品ぐらいでは、とても食っていける
ものにならないが、そこでしか実践する場所
はなかった。

さらに雨の日はたいへんだ。雨よけのテント
もないから、こういう日は店じまいとなる。
商店街から少し入った生活道路に面している
から、たくさん商品を出せば、通行客や車の
邪魔になる。いちいち謝りながらの商売だっ
た。

横柄な中年男だと、近所から文句のひとつも
出ることだろうが、若いハンサムな青年が、
腰低くがんばっていると、応援するファンも
生まれる。がんばっていると、その成果は微
々たるものであっても、田舎にあっては目立
つから、
「おい、あそこの息子が帰ってきたら、よく
がんばってるぞ。」
という話は、人の口の端にのぼるものだ。

そんなことをやっているうちに、ガス屋さん
が地域の公民館を回り、展示会をやっていく
というので便乗させてもらうことになった。

自分の車に商品を詰めるだけつめ、チラシを
蒔いた臨時展示場(公民館)で、エプロンや
肌着や靴下を売った。 会場費を払うと儲け
もあまりなかったが、雨の日でも店を開け、
商売ができることがうれしかった。

厳しいのは、雨の日ばかりではない。お母さ
んの店の店頭では、陽射しの強い日には商品
が一日で焼け、外に出してあった商品すべて
色が変わり、売り物にならなくなったことも
何度か経験した。丸損だった。
風の強い日は商品が飛び、什器が倒れた。
自然現象の厳しさに若いから本人の体はもっ
たが、商品は保たないことが多かった。

だから、ガス屋さんが声をかけてくれると喜
んで参加したのだ。
「ほなさん、屋内の、蛍光灯の光の下で商売
できるっていいですね。」
と私にうれしそうに電話をくれた。

「自分の店が持ちたい!」という想いは、実
はこんな気持ちの結晶なのだ。この後、数年
も彼は下積み時代が続き、彼自身を苦しめて
も絶対に止めなかったのは、外での苦しさを
体験したからだ。何度も厳しい目に会いなが
ら、それを乗り越えてきた、この時があるか
らだと、ほなさんは思っている。

何度も言うが、この青年以外は、すべて最初
から店がありスタートした。そういう仲間た
ちは結局長続きしなかった。

ほなさんらの商人は、企業になることはない。
どこまでいっても家業、なりわいなのだ。
損得勘定の計算式でできるような店や経営は
できない。そういうのは大手の店だ。

大手のできない、また決してやらない、勘定
の合わないことを、一生懸命やらせてもらっ
て、やっとお客様の信用をえることができる。
たった一言、
「この店があってよかった」
と言っていただくために、自らのすべてをか
けてやってゆく。大手のような損得勘定でや
った店は、採算が合わないとやめてしまった
のだった。

ダスキンの鈴木社長は
「損と得の道あらば、われ損の道を行く」
と言った。
企業家、経営者にはこの言葉は当てはまらな
いだろうが、この言葉はわれわれ商人のため
にこそある。この言葉を、正義感をふりかざ
していうのではなく、そうでも思わないとや
っていられない、自分を慰めれない時がある
のだ。

この言葉にどれほど勇気付けられ、背中を押
され、日々を乗り越えることができた。
「商いは、実りの秋が無い」
と教える先生もいた。
農民は実り(収穫)の秋があるが、商人には
収穫を期待するな、というのである。これま
た厳しい言葉だ。

だが、やがて彼は、チャンスを見つけた。

うれしい出会いあり(3)

2008年03月20日 | 日記
帰宅して数日後、九州の商友から電話が
あった。内容は手伝ってくれたことへの
お礼と思っていたら、親父さんのことだ
った。

ほなさんと青年が、田舎の店をなんとか
しようと手伝いに行ったこと、夜中まで
一生懸命作ったことなど、そういう商友
の姿に、親父さんは驚いたそうだ。

商売人同士の付き合いと言えば、お互い
の腹のさぐりあい、競争相手だから仕方
ないと距離をとりつつ、その場しのぎの
付き合いばかりやってきた古い商人から
見れば、どうにかして良い店ができない
かと、地域も離れた者同士が、親戚でも
ないのに知恵と力を出し合う、こんな純
粋な付き合いがあったなど思いもしなか
ったようだ。

店の成績の悪さを、息子の努力のなさと
きめつけ小言を言い続けてきた親父さんは、
息子に手弁当でかけつけてくれる商友が
いたことに、いたく感動したようなのだ。
そして、ほなさんらの仕事振りをつぶさ
にみていると、自分の店のように真剣に
やってくれた、親が思うより息子の真面
目さな取り組み方に、初めて気付いたの
だった。

そして、
「お前にあんな良い友達がいるのなら」
と200万の定期預金を、仕入れ資金に
使えと出してきたのだ。
小柄でがっしりした九州男児の親父さん
は、息子に甘いことなど一切言わない頑
固者で、息子と話すことさえめったにな
かったようなのだ。

この時、初めて、父親と息子は200万
の定期を間にして、一晩語り合い、そし
て泣いたという。長い親子の確執がとれ
たのだった。

「ほなさん、オレ、はじめて親父と話し
ました。親父も喜んでくれました。○○
(奥さんの名)もお袋も喜んでいます。
本当に良かったです。オレ、本気で一人
前の商人になります。」
と電話の向こうで、商友は泣いていた。
ほなさんもうれしくて泣いた。

うれしい出会いあり(2)

2008年03月20日 | 日記
青年が帰る前に、九州の商友の手伝いに二人で
いった。九州の商友は売れないでくすんでいた
から、励ます意味でふたりで応援に行ったのだ。

古びた商店の床を掃除し、什器を並び替え、商
品をつった。夜中までかかり、翌日に仕上げを
することにした。一生懸命、金をかけずに三人
で考えて売場をつくったが、たいしたことは何
もできなかった。

でも、なんとかしなければという想いと、一人
前の商人になりたいという情熱だけは、みなに
あった。春とはいえ、九州の深夜は寒かった。
ほなさんらの動きを、鋭いが、心配そうにお父
さんがみていたのが印象的だ。お父さんは商人
としては先輩だから、どうなるのかと思ったの
だろう。

1泊2日の九州での手伝いを終わり、この青年
と、大阪空港で別れの時がきた。8ヶ月だった
けど、お互いの運命を決めた時だったのかもし
れない。
「長い修行ご苦労さん。助けてもらってありが
とう。帰ったらくじけずガンバレよ。」
とほなさんは言うと、
「僕は、ほなさんに教えてもらった店なんか
絶対につくりませんから。」
と、少し怒っていた。

いつも素直な彼が、この時ばかりは子供のよう
に、精一杯の抵抗をみせたのだった。本当に帰
りたくなかったんだ、とほなさんは思った。
帰っても自分が仕事などできる場所がない、こ
のまま修行の身分で、時期を待ちたいと考えて
いたのだろう。

しかし、巣立つ時というのは、条件などお構い
なしだ。巣立つというのは、そういうことなの
だ。
これ以上彼を留めることは、こちらの甘えとな
ってしまう。ほなさんにしてやれることはここ
までだった。あとは、彼が自分でチャンスを切
り開き、一人前の商人に育つことを願うだけだ。

資金をつくり、店を探し、チャンスをうかがい
独立してゆく、何年かかろうとなしえなければ
ならない。それが商人の道なんだから。
商人には、どんな小さな店だって感動ドラマが
あるものだ。
がんばれよ、青年。必ず育ってこい!
徳島行きのプロペラ機の中で、ほなさんは青年
の前途を想い、何度も目頭が熱く、そのたびに
奥歯をかみしめた。たぶん彼も同じ想いだった
ろう。

それが14年前のことだった。

うれしい出会いあり(1)

2008年03月19日 | 日記
ほなさんの唯一の弟子を名乗ってくれる若い同
業者の青年が、このほど結婚相手を紹介してく
れるというので、夫婦ともどもお昼をしました。
その時のお話です。

この青年が連れてきた若い娘は、ひと回り下だが
とてもしっかりしていて、立ち姿がとても良かっ
た。一目でほなさんは気に入って、
「これはいい!」
といったら、一目でなにがわかるの?と女房はキ
ョトンとしていた。

青年はここ10年苦労して、やっと店を軌道に乗
せてきた。だからその間は食っていけないから、
結婚できないと考えてきたようだ。明るい美男子
であるのに、結婚が遅れた原因だ。
青年の周りで自立しようとして店をやった若い連
中は、有名な店で修行したり、親がかりでやった
のに、全部失敗し、残ったのはもうこの青年だけ
だ。それほどこの日本の物販・流通業は過酷な時
期を通り過ぎてきたし、トンネルの闇は更に深く
抜けそうにない。

この青年と出合ったのは、15年前。
ほなさんの店が移転した時、手伝いにきてくれた
中部地方の同業者の息子さんだ。いろんな人から
応援があり、この方は3ヶ月も手伝ってくれると
いうので、人手不足のほなさんはとても助かった。
修行だから、寝る場所と食事のみの無給生活だ。
労働基準法も関係ない、厳しい生活だ。

三ヶ月たったので帰るのかと思ったら、
「帰ってもすることがないので、もうしばらく置
いてくれ。」
と言う。大事な息子さんを長く預かってよいもの
か悩んだが、忙しい毎日だったので、小遣い銭程
度を払い、年末まで甘えることにした。

年明けたので正月に帰ったと思ったら、数日後、
いっぱいお土産を下げて徳島にやって来た。
どうしたんだというと、ここでもっと勉強したい
という。親御さんも同意しているというのだ。
親御さんに電話すると、ぜひにというので、また
3ヶ月引き受けた。

この青年は他店で2年修行した方で、店のことは
ほとんど知っていたから、使う分にはほんとに重
宝な存在だった。店長レベルで若く、客あしらい
もうまい。言うこと無いのだ。そんな青年を私の
ような者が長く預かることはできない。

ただ、よくよく見てみると、自立してゆくために
必要な知識と、夢を描けないでいた。
要は、独立した店づくりは面白いという、きわめ
てあたり前のことを知らないのだ。そのため、夜
になると青年と二人で勉強した。

ほなさんは週に半分以上も泊り込んで、一緒にや
った。女房に愚痴られ、体力は消耗。人を一人前
にするということは、こちらにも相当な覚悟と時
間と情熱と体力がいる。そんな集中講義を8ヶ月
づつけ、ある日、
「もう帰れ!教えることはない。」
と宣言した。そう聞いた彼は寂しそうだった。
だが無理やり親元に帰すことにした。

週のうち半分は睡眠3時間、そして休みナシの生
活、しかも、ほなさんにもスタッフがおり、その
面倒もみないといけない。こちらももういっぱい
いっぱいだったのだ。

「やっちまった!」は心の声

2008年03月18日 | 日記
今回のスコア「61」で、
ふと、想い出したことがあるのです。

いえ61というスコア自体は、ときどきありまし
たので、そう驚くことじゃありませんが、
今回は
「自分が緊張している」
と感じたのでした。

メンバーも違いました。
最初の気楽さもありませんでした。
そして何よりも、スコアアップするための条件が
そろっていました。これが気負いをよび、しらず知
らずのうちに力が入っていたのでした。
今なら、そう思います。

日頃は入れない位置のバンカーに入れたり、パーパ
ットを外した瞬間、同伴者から、
「もったいないのを外したなぁ。どうしたの?」
といわれ、萎縮していったんですね。そして返しの
パットも外しダブルボギー、おきまりの転落パター
ンですわ。

「もったいないのを外したなぁ。どうしたの?」
これは同伴者の声でありましたが、実は、自分の声
だったのでしょう。
この同伴者の方、だまっていてくれないか、と途中
思いましたが、そうでもないんですね。なんてった
って、これは自分の声なんですから。

次からは、もう何を言われたって、
「それズボシの言葉。自分でもそう思います。ほら
しっかりせんかい!」
って自分に言いながらプレーしようと思いますが、
さてこの結果は、来月の「こころ」のありようだ。

な、な、な、なんでだろう

2008年03月16日 | 日記
頭の中をいっとき流行った、
「なんでだろう、なんでだろう」
が今もエンドレスで流れています。

ほなさんの第二回目のシニア杯結果は、

「61」   でございました。

天候もよく、これはあわよくば50を切る
かもと期待したのに、残念でした。
パーの数は変わらないけど、7番で10打叩き
くずれました。11番でも7打でした。パー3
の6打もありました。

障害者ゴルフの覇者Kさんが、
「そんな60も叩くようなスイングじゃな
いよ。」
と慰めてくれましたが、事実は事実。
それで、よーく考えてみました。

そしたら某雑誌に、
「アマチュアは自分の腕を過信している」
とありました。
うーんnnn、その通りであります。
自分のこと、認めたくないけどねぇ。
だから次こそは、、、、。