ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

良いお葬式とは?

2022年11月24日 | 日記
葬儀社のCMを観ていると
「良いお葬式だったね」
と家族が言い合う場面があります。

なんとなく言いたい事は伝わってきますが、
「良いお葬式」とは誰にとっての事でしょうか?
死んだ本人にとってか?
残された遺族にとってか?
ひねくれもの”ほなさん”は、そんなことを思ってし
まいました。

今は故人となってしまった方は、本当に生ききるこ
とができたのでしょうか?
家族も介護職も医療スタッフも友人も
そのサポートをどこまでやれたでしょうか?

それにはまず、
本人がどんな意思を持っていたのか?
どうサポートして欲しいと思っていたのか?
本人が話せないなら家族や周りの人たちが代弁して
伝えてこれたか?

まず本人の意思ありき!
ほなさんは、これからの人生をどう生きようと考え
るでしょうか。
これこそがほなさんの終活だと思うのです。
そのエンドがお葬式という「人生の卒業式」なので
すね。
あなたはどんな意思をお持ちですか?


最期は「家で」(2)

2022年05月29日 | 日記
「最期は家で」と言いながら矛盾するようですが
「施設で看取り」という選択肢ももちろんあります。

ご自宅で全部のことができない、と思う家族もおられる
ことでしょうし、生きている人間はいつかは死ぬもので
ありますから、看取りのできない施設はあくまで仮の住
まいと考えられたら良いのではないでしょうか。

「最期は家で」という選択をなされたら、けっこう急が
ねばならないことが、たくさんあります。
相続?
墓?
後見人?
こんなことではありません。

ほなさんがまず思うのは、
「この家は最期まで住める状態か」
という現状分析です。
とある講習会で、ほなさんが家の中のヒートショック対策
と段差解消の話をしているとき、
「うちの家の岩風呂は豪華なのよ。」
と自慢げに話した方がいました。その岩風呂がどれだけ危
険なものになるか、うーん。

「最近の年寄りパワーはすごい。〇〇さんは80代だという
のに、鍛えた背中から観たら中年かと思った。」
と元気な年寄りの話をされますが、注意深くみてもらわな
くちゃならないのは、元気でなくなると
「黙って静かに病院や施設という場所に隔離」
されているから、みなさん方の目に留まるのは元気な方だ
けだという事実に気付かないだけです。

シニア世代の住宅改修は外壁工事で終わりじゃありません。
もとよりシニアが住む部屋は、夫婦二人で二部屋あれば十
分です。子育てのための家なんて、動き回る子供が居たか
ら必要な作りだったのです。子育て20年の為の我が家に、
これから20年、はたまたそれ以上住めるでしょうか?

最期は「家で」

2022年03月22日 | 日記
「終活」というと、見かける多くのことが
お葬式、その後の墓守り、そして相続のことである。
ほなさんが思うには、これらのことは後に残された
人達には大事なことではあるが、死にゆく本人にと
って最も大事なことではない、ように思う。

死にゆく本人は、まだ死んでいない。
のだから、息を引き取る最後の一瞬まで、どう生き
たいかを主張する権利があるように思う。

であるのに、家族は「死後の話」ばかりに気がいっ
ており、主人公は誰だ?主人公はどうしたいのか?
を代弁しているのだろうか、と疑問符がつく。

死を前にして、もっとも不安なのは本人なのだから
その不安を少しでも軽くしてあげるべきだ。
その重要な仕事を成し遂げるられるのは、
医者ではなく、多くの場合、家族しか居ない。

医者と病院は、あくまでも病気を治すところであり
治らないのが判ったら居るべき場所ではないだろう。
ほなさんは、誰も居ないかもしれないけれど
住みなれた我が家で最期を迎えたい、と願っている。

死にそうな時、いちいちナースコールを押さねばな
らない不便で、消毒液の臭いで充満した部屋、救急
車のサイレンとバタバタした足音や機械音の中より
たとえ家族がその場に居なくても、
我が家だけの匂い、
外から聴こえる近所の日々の生活音、
昨日と同じ一日の時間の流れが感じられる
我が家の方が、よほど落ち着いた気分になれること
でしょう。
死ぬのは、一回かぎりです、多くは。

ある在宅医の先生は、
「家庭には上質のモルヒネが流れている」
とおっしゃいました。


ほなさんの終活探し(8)

2022年03月21日 | 日記
老年から人生の終末期にかけて、ほとんどの方が
それまでの惰性で走ろうとします。
その一方で、
「こんなもの(電動ベッドや車いす、杖など)を
 使うようになったらお終いよ。」
と一方的な極論をいう人までいます。
可笑しい話ですね、身体のどこか悪くなったら
もうそれで人生は終わりだなんて。

実はどこまで行っても死ぬまで人生は続きます。
あの世に着いたことが判ったら、その時点で
あーあ、自分の人生は終わったのだなぁ、と思
えば良いのです。それまで人生に終わりはあり
ません。

でもただひとつ、大事なことがあります。

「どこで最期を迎えるのか」
または
「人生の終わりは何処に居たいか」
ということです。


ほなさんの終活探し(7)

2022年02月21日 | 日記
高齢者や介護の手を必要とするようになると
まっさきにいろいろな道具=福祉用具などが
必要になってきます。

おぼつかない足元を助ける杖であったり、手
すりであったりしますが、こういう新たな道
具は、これまで使ったことのないものですか
ら、多くの高齢者はできれば使いたくものと
して遠ざけたがります。
喜んで使う方はほんの一部の方にとどまる
傾向があるようです。

しかし家という住宅をとってみても、これま
で住んできた家は、楽に子育てするための造
りであり、高齢者に合わせた規格ではありま
せん。あくまで子供と若い住人のためのもの
となっていることを忘れてはいけません。

高齢者という名の時代を過ごすための準備を
しなければならないのに、その想定すらしな
いできたのです。今後30年以内に数十パーセ
ントの確立で起こる「南海トラフ」や「首都
直下型地震」などの災害より、60歳を超え
ればはるかに確実に起こる「障害」です。

であるのになぜか私たちは想像という準備す
らしません。皆に起こる災害の準備をしても
わが身に100%起こる高齢化による「障害」
は想定しないのです。

本当に不思議な話ですね。

ほなさんの終活探し(6)

2022年02月06日 | 日記
家族団らんの中では、ひとつだけ「ルール」が
決めてありました。

死にゆく人は、産まれて初めての死を経験する
ことになり、そのことへ不安でいっぱいだろう
から、
「本人が不安になるようなことは口にしない」
ということを、子供たちにも守ってもらいまし
た。
これ以外は何をしても言ってもOKだよ、と。
そして、
「これまでありがとう」
「母さんのおかげで良かったよ、助かったよ。」
は何度言ってもいいからね、と。

考えてみて下さい、人生に終わりを告げて旅立つ
人にも「未来」があるのです。人生で初めての経
験をするわけです、誰だって不安になるでしょう。
まだ死んでもいないのに、横で葬儀の段どりをし
たりとかは考えられせん。

旅立つ人が穏やかな心で居られるよう、
「心配する事なんかないよ」
「大丈夫だよ」
「母さんありがとう」
と家族の手元から送り出したかったのです。

ほなさんの終活探し(5)

2022年02月06日 | 日記
「口から食べて下から出す」
これが生活の基本とほなさんは考えています。
本格的に食べれなくなったら、お迎えがきたと考
えています。

誤嚥性肺炎などにより口から食べれないと、「胃
ろう」などの医学的処置を一時的にして、その後
また元の生活を取り戻された人もおられますから、
一概に医療的措置を否定できませんが、ほなさん
個人の終末期における意見は、
「医療的措置は基本何もせず、枯れていきたい」
ということです。

ほなさんの母(98歳)の場合、
3日前まで起きて車椅子の生活でした。
車いす上でほとんど眠っていることが多くなり、や
がて起きておられなくなり床につきました。

十数年前の父親は寝たり起きたりの生活が3か月ほ
ど続き、本人の希望で最後の3日間点滴を打ちまし
た。それでも枕元にはゴムの筋肉を鍛える道具があ
りましたから、動けなくて寝たきりでじっとしてい
たのではありません。

母の場合、息はぜーぜーと今にも死にそうでしたが、
家族が傍にいると、安心するのか安らかな息使いに
変わります。緑内障が進んだため目は見えなくなっ
ていましたが、声や雰囲気で家族と他人の区別が明
確にできていました。
子や孫たちが集まってくると、耳を澄まして話を聞
いているようでしたし、呼びかけるとその方に顔を
向け、話をじっと聞いていました。

6-7人の家族団らんのワイワイ、ガヤガヤした茶の
間の雰囲気が母のベッドの周りにそのまま再現され
それぞれの家族の話題に花が咲きました。厳かな雰
囲気にほど遠い、市井の井戸端会議そのものです。
コロナ禍のために息を引き取る「その時」には立ち
会うことはできませんしたが、ほとんどその直前ま
で家族の団らんを楽しむことができました。


ほなさんの終活探し(4)

2021年11月22日 | 日記
ほなさんは「自宅で終わりたい」と思っています。
そんなことできるの???
いやいや、それができそうなのです。

ケアマネジャーさんに伺いをたてると、
「在宅医の良い医者」がいる。
「それなりに自己負担」がいる。
「ほかに、家族らの経験などなど」がいる。
と返答がありました。
ハードルはかなり高いと思われました。

でもこれらは本当ではありませんでした。
オムツ交換さえしたことが無いほなさんにも
看取りはできました。

つまり、
お金持ちじゃなくても、医療保険と介護保険を使
うと、経験のない家族でも看取りは十分に可能で
す。
前もって準備していくと、介護経験なんてものは
あればいいですが、やっていくうちにわかってき
ます。

大事なのは、本人がどうして欲しいか?
それが判るのは家族をおいて他にはありません。
そして、本人に代わって
「私はこうして欲しい。」
「こういう風に死んでいきたい。」
と言えるのは家族しかありません。

そして家族で看取ると、その後の後悔がまったく
ありません。
一番ダメなのが「病院」です。
最期の最後に救急車に乗せられて病院にでも行っ
たら、これは最悪!です。
病院というところは、病気を治すところです。
「死」を前にして行く場所ではありません。



ほなさんの終活探し(3)

2021年11月17日 | 日記
痛くされるのはイヤ。
自由に動けないのもイヤ。
死に当たっては、痛さや苦しさをとって欲しい。
すーっとあの世とやらに行きたい。

こんなわがまま放題のほなさんの終活への要望。
ほんとに、そんなことはできるの?

施設での集団生活はどんなに良いと思われる場所
でも、実際に自分が入りたいとは思えない。
やっぱり自宅が一番なのです。

元気なうちは、病院も施設も関係ない。
病院へ行っても、病気が治るうちは問題ない。

ほなさんの終活探し(2)

2021年11月08日 | 日記
ではどこで、どうやって死にたいか?は、
とても重要なことだと思います。
救急車で運ばれた病院のベッドで死にたいとは
まったく思いません。

多くの方というより、実際にはほとんどの方は
人が死にそうになると救急車を呼ぶようです。
というより呼んでしまいます。この辺りの対応
は条件反射的です。専門の施設職員にしたって
そうなんですから、生死を決めるのは医者だと
言わんばかりです。(看護士は別です。)

しかし死に行く人間に医者は、あまり必要とは
言えないようです。人が死亡してから診断書を
書いてもらうのが医者の仕事であって、常日頃
からお世話になっている主治医であれば息を引
き取るその場に居る必要はないんだそうです。
というのは、死に行く人に対して医者のする仕
事はないからだそうで、死に行く人の傍に必要
なのは、家族や友人です。

今にも死にそうな人の息遣いも、家族が見守る
だけで穏やかなものに変わります。
薬がそうさせるのではありません。
自宅であったり、家族が周りに居るだけで、本
当に変わるのを見てきました。