kan-haru blog 2013 永井荷風『墨東綺譚』岩波文庫本
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木村荘八
1893年(明治26年)に、東京・日本橋のいろは牛肉店の創立経営者の8男に生まれた木村荘八は、父の死後浅草と京橋のいろは牛肉支店の帳場を担当しながら、美術家を志ました。1911年、旧制京華中学卒業後、白馬会葵橋洋画研究所に入り、岸田劉生と知り合い、1922年までヒュウザン会に参加し毎回出品しました。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品し『二本潅木』で高山樗牛賞受賞しました。1937年には、永井荷風の代表作『墨東綺譚』に挿絵を、他に大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』の挿絵を連載しました。晩年の戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作『東京の風俗』や『現代風俗帖』などの著作を多数出版しました。多忙により病気の発見が遅れ、悪化し1958年に病没しました。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞しました。(Wikipediaから)
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。
木村荘八 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵
生誕120年木村荘八展
東京で20年振りの生誕120年木村荘八展が、東京ステーションギャラリーで公益財団法人東日本鉄道文化財団と東京新聞の主催で、2013年3月23日から5月19日まで開かれました。入館料は、一般が900円、大・高学生が700円で、中小学生が400円です。
生誕120年木村荘八展パンフレット
木村荘八展の出展作品は、代表作「パンの会」、「牛肉店帳場」、「浅草寺の春」などの油彩画が約78点、「墨東綺譚」の挿絵34点と、「東京繁昌記」挿絵65点と「師走風俗帖」挿絵25点および、岸田劉生、高須光治、椿貞雄、横堀角次郎、河野通勢、宮崎丈二、中川一政などの作品(「生誕120年木村荘八展東京ステーションギャラリー 出品リスト」参照)が、前期(3/23~4/21)と後期(4/23~5/19)に分けて展示されました。
木村荘八油彩画(左上:パンの会、左下:牛肉店帳場、右:浅草寺の春)
・東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリーは1988年に誕生し、2006年の復元工事に伴い休館していましたが、2012年10月1日に再開館しました。
東京ステーションギャラリー
ギャラリーは、赤煉瓦駅舎内の東京駅丸の内北口改札前の1階に入り口があり、2階と3階が展示室(約2,900平方メートル)の構成で、順路や階段は創建当時の煉瓦壁の雰囲気が漂っています。
東京ステーションギャラリーの建当時の煉瓦壁階段・回廊(左上:東京ステーションギャラリーの入り口、中上・右上:東京ステーションギャラリーの階段、左下:階段周囲の創建当時の赤レンガ、中下・右下:東京ステーションギャラリー2階回廊)
・東京駅
東京駅は、1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)に新線の途中に中央停車場を建設することが可決されました。1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)に開業して皇居正面の原野に設置され、「東京駅」と名付けられました。
東京駅丸の内北口の丸天井(左・中・右写真拡大)
1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾により大火災を引き起こし、レンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ちて内装も大半が焼失しました。戦後の1947年(昭和22年)に修復工事を行い、3つのドーム部の外壁を修復し安全性を考慮して3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更して復元しました。
東京駅丸の内北口(左:東京駅丸の内北口駅舎内部、中:東京駅丸の内北口出口、右:東京駅丸の内北口外観)
丸の内駅舎の復元は、2001年(平成13年)に外観の復元を行うこと、南北ドーム見上げ部分の復元を行うこと、現存している部分を可能な限り保存し活用することなどの基本方針に従って、「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」保存復原工事が2007年(平成19年)に着手され、赤煉瓦駅舎を恒久的に保存・活用するため、駅舎1階と新たに設ける地下1階との間に免震層を設ける方式を採用し、2011年(平成23年)9月末に免震化が完成しました。屋根は、創建当初は雄勝産の天然スレート約7600平方メートルで葺かれていましたが、戦災復旧に際して鉄板葺きを1952年、1973年、1990年の3回にわたって天然スレートに葺き替えが行われてきました。復原工事前のスレートは、ドーム部と中央部は魚鱗葺き、切り妻部は一文字葺きとなっていましたが、復原に当たって創建当初の一文字葺きに統一されました。ドーム内部の設計図は1枚しか残っておらず、写真も白黒のものだけでありましたが、南ドーム3階壁面南東側のレリーフのみは戦災後も一部残存していたので、これを樹脂を含浸して補強し石膏パーツで強化補強してそのまま取り付けられました。
東京駅丸の内中央口と皇室専用貴賓出入口(左・中:東京駅丸の内中央口、右:東京駅皇室専用貴賓出入口)
復原駅舎は地上3階(一部4階)で、地下2階建ての延べ床面積約4万3000平方メートルで、このうち駅施設およびトラベルサービスセンターが約7800平方メートル、ホテルが約2万800平方メートル、ギャラリーが約2900平方メートル、地下駐車場が約3600平方メートル、設備室などが約7900平方メートルの復元工事が2012年(平成24年)10月1日に完成しグランドオープンしました。(Wikipediaから)
東京駅丸の内南口(左:東京駅丸の内南口外観、中:東京駅丸の内南口出入り口、右:東京駅丸の内南口の丸天井)
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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
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木村荘八
1893年(明治26年)に、東京・日本橋のいろは牛肉店の創立経営者の8男に生まれた木村荘八は、父の死後浅草と京橋のいろは牛肉支店の帳場を担当しながら、美術家を志ました。1911年、旧制京華中学卒業後、白馬会葵橋洋画研究所に入り、岸田劉生と知り合い、1922年までヒュウザン会に参加し毎回出品しました。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品し『二本潅木』で高山樗牛賞受賞しました。1937年には、永井荷風の代表作『墨東綺譚』に挿絵を、他に大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』の挿絵を連載しました。晩年の戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作『東京の風俗』や『現代風俗帖』などの著作を多数出版しました。多忙により病気の発見が遅れ、悪化し1958年に病没しました。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞しました。(Wikipediaから)
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。
木村荘八 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵
生誕120年木村荘八展
東京で20年振りの生誕120年木村荘八展が、東京ステーションギャラリーで公益財団法人東日本鉄道文化財団と東京新聞の主催で、2013年3月23日から5月19日まで開かれました。入館料は、一般が900円、大・高学生が700円で、中小学生が400円です。
生誕120年木村荘八展パンフレット
木村荘八展の出展作品は、代表作「パンの会」、「牛肉店帳場」、「浅草寺の春」などの油彩画が約78点、「墨東綺譚」の挿絵34点と、「東京繁昌記」挿絵65点と「師走風俗帖」挿絵25点および、岸田劉生、高須光治、椿貞雄、横堀角次郎、河野通勢、宮崎丈二、中川一政などの作品(「生誕120年木村荘八展東京ステーションギャラリー 出品リスト」参照)が、前期(3/23~4/21)と後期(4/23~5/19)に分けて展示されました。
木村荘八油彩画(左上:パンの会、左下:牛肉店帳場、右:浅草寺の春)
・東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリーは1988年に誕生し、2006年の復元工事に伴い休館していましたが、2012年10月1日に再開館しました。
東京ステーションギャラリー
ギャラリーは、赤煉瓦駅舎内の東京駅丸の内北口改札前の1階に入り口があり、2階と3階が展示室(約2,900平方メートル)の構成で、順路や階段は創建当時の煉瓦壁の雰囲気が漂っています。
東京ステーションギャラリーの建当時の煉瓦壁階段・回廊(左上:東京ステーションギャラリーの入り口、中上・右上:東京ステーションギャラリーの階段、左下:階段周囲の創建当時の赤レンガ、中下・右下:東京ステーションギャラリー2階回廊)
・東京駅
東京駅は、1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)に新線の途中に中央停車場を建設することが可決されました。1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)に開業して皇居正面の原野に設置され、「東京駅」と名付けられました。
東京駅丸の内北口の丸天井(左・中・右写真拡大)
1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾により大火災を引き起こし、レンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ちて内装も大半が焼失しました。戦後の1947年(昭和22年)に修復工事を行い、3つのドーム部の外壁を修復し安全性を考慮して3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更して復元しました。
東京駅丸の内北口(左:東京駅丸の内北口駅舎内部、中:東京駅丸の内北口出口、右:東京駅丸の内北口外観)
丸の内駅舎の復元は、2001年(平成13年)に外観の復元を行うこと、南北ドーム見上げ部分の復元を行うこと、現存している部分を可能な限り保存し活用することなどの基本方針に従って、「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」保存復原工事が2007年(平成19年)に着手され、赤煉瓦駅舎を恒久的に保存・活用するため、駅舎1階と新たに設ける地下1階との間に免震層を設ける方式を採用し、2011年(平成23年)9月末に免震化が完成しました。屋根は、創建当初は雄勝産の天然スレート約7600平方メートルで葺かれていましたが、戦災復旧に際して鉄板葺きを1952年、1973年、1990年の3回にわたって天然スレートに葺き替えが行われてきました。復原工事前のスレートは、ドーム部と中央部は魚鱗葺き、切り妻部は一文字葺きとなっていましたが、復原に当たって創建当初の一文字葺きに統一されました。ドーム内部の設計図は1枚しか残っておらず、写真も白黒のものだけでありましたが、南ドーム3階壁面南東側のレリーフのみは戦災後も一部残存していたので、これを樹脂を含浸して補強し石膏パーツで強化補強してそのまま取り付けられました。
東京駅丸の内中央口と皇室専用貴賓出入口(左・中:東京駅丸の内中央口、右:東京駅皇室専用貴賓出入口)
復原駅舎は地上3階(一部4階)で、地下2階建ての延べ床面積約4万3000平方メートルで、このうち駅施設およびトラベルサービスセンターが約7800平方メートル、ホテルが約2万800平方メートル、ギャラリーが約2900平方メートル、地下駐車場が約3600平方メートル、設備室などが約7900平方メートルの復元工事が2012年(平成24年)10月1日に完成しグランドオープンしました。(Wikipediaから)
東京駅丸の内南口(左:東京駅丸の内南口外観、中:東京駅丸の内南口出入り口、右:東京駅丸の内南口の丸天井)
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