kan-haru blog 2013 善光寺出開帳両国回向院ポスター
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・善光寺出品文化財(2)
本堂3階のその他の善光寺出品文化財には、善光寺如来の来歴を記した「絹本着色善光寺縁起絵」および、法要などで打ち鳴らす鉦鼓と呼ばれる大型の吊るし鉦「銅造双盤」や、和宮親子内親王(1846~77)由緒品の「皇女和宮由緒品」には梨子地葵紋蒔絵御文筥、梨子地唐草文蒔絵銀網掛手炙、梨子地菊葵紋散二階棚など10種類の品が展示してありました。
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絹本着色善光寺縁起絵(図はガイドブックから)
・びんずる尊者坐像
本堂3階から1階ロビーに降りると、奥に今回始めて善光寺本堂から外に出たびんずる尊者坐像が鎮座しており、大勢の参詣者が治して頂く願をこめて、復興しゃもじや掌で触れておりました。
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びんずる尊者(左:回向院出開帳のびんずる尊者(ガイドブックから)、右:善光寺本堂のびんずる尊者20121031)
また、1階ホールでは、北原香菜子の演奏による薩摩琵琶の奉納演奏が開かれており、満席で入場が出来ませんでした。同ロビーの左側では、善光寺と回向院のご朱印を受け付けており、長い行列待ちをしていました。
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本堂1階ロビー(左:善光寺・回向院出開帳ご朱印所、右:左がご朱印所、奥がびんずる尊者坐像)
ご朱印は、善光寺から出開帳御朱印を、回向院から本尊阿弥陀如来と馬頭観世音のご朱印を受けてきました。
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善光寺と回向院のご朱印
回向院のご本尊は、阿弥陀如来で、かつては本堂を背にして露天に安置されていた濡仏さまでした。釜屋六右衛門の作で、 1705 年(宝永二年)に安置され、身の丈約250センチ、蓮座約130センチもある大きな銅作りの坐像で、都有形文化財に指定されています。
馬頭観世音は、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、供養をするため、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻して安置しました。馬頭観世音菩薩像は、1716~35 年(享保年中)の頃から「江戸三十三観音」に数えられて、回向院は「江戸砂子拾遺」その二十六番札所と記されています。当時のものは災難にあい焼失しましたが、現在でも昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として巡拝者で賑わっています。
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回向院本尊阿弥陀如来像と馬頭観世音菩薩像(回向院HPから)
本堂の2階では、浮世絵美人画家の鳥居清長(1752~1815)の絵の「江戸の華 浮世絵と回向院展」を開催していました。回向院には、鳥居清長の墓碑があることは知られながらも、度重なる災害によりその所在は不明となっていました。
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本堂2階「江戸の華 浮世絵と回向院展」(左:浮世絵展と回向院展への階段口、右:茶見世十景冨ヶ岡 回向院HPから)
回向院のお戒壇巡りは、念仏堂の横を裏手に進み、入り口で係員の説明を聞いた後入ります。お戒壇は、念仏堂の背面に曲がりくねって作られた塀囲いの回廊で、真っ暗な回廊を巡り、出開帳仏背面に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の前におられる出開帳仏と結縁を果たし、極楽往生のお約束をいただく修業です。出てくる時、最初に目にするのが出口から射し込んでいる光で、目の見える尊さと光のありがたさを感じます。
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戒壇巡り(左:回向院のお戒壇巡り入口、右:善光寺本堂のお戒壇巡り入口 ガイドブックから)
最後に、善光寺出開帳の回向院参詣の記念に、出開帳授与品頒布所で善光寺のお線香と花絵のろうそくを購入して帰宅につきました。
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出開帳授与品(左:出開帳授与品頒布所、右:善光寺お線香と花絵のろうそく)
・盛り場両国江戸庶民の行動文化展で見る出開帳
善光寺出開帳両国回向院の開催に関連して、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)で、4月16日~5月26日まで開催している、「盛り場両国江戸庶民の行動文化」展で回向院の建立と開帳の常設展の展示を、5月15日に見てきました。
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盛り場両国江戸庶民の行動文化展パンフレット
入場料は、一般 が600円、大学生・専門学校生が480円、中学生(都外)・高校生・65歳以上が300円、中学生(都内在学または在住)・小学生・未就学児童が無料です。なお、当日は第3水曜日のシルバーデーにあたり、65歳以上は常設展観覧料が無料となります。
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シルバーデー入場券
展示会の第1章は回向院の建立と両国橋の架橋で、ともに1657年(明暦3年)の大火を契機とし、10万8千人の犠牲者をとむらうために本所牛島新田に「万人塚」が設けられ、その後國豊山無縁寺回向院が建立される。両国橋も大火を逃れて避難した人々が焼死もしくは溺死した惨事を受けて、1661年(寛文元年)に架橋されました。
「むさしあぶみ」上・下:文政年間に編集された「御府内寺社備考」によれば、回向院の起立は,明暦大火の後に犠牲者を弔うため与えられた本所牛島新田の50間四方の土地に死骸を埋葬したことにはじまるとしています。その後、寺領は幕府の助成もあって次第に拡張されていき、伽藍も整えられていきます。
「江戸名所図会」十八:回向院は江戸時代には坪数5101坪余りの大寺院として発展していくが、境内みは本堂のほかに鐘楼、馬頭観音堂、一言堂、地蔵堂、蓮池に弁財天などもありました。茶屋なども設けられており、常に多くの参詣者で賑わっていたことがうかがいしれます。馬頭観音は1655~58年(明暦年間)に将軍家綱の愛馬を埋葬するために建立されたといいます。
明暦大火罹災市街の図:火事は19日の深夜に一端は鎮火したが、小石川より出火しました。北西風によって江戸城の天守閣、本丸、二の丸までもが炎上しました。飯田町・市ヶ谷・番町などの江戸城周辺の武家屋敷も延焼し、さらに麹町からも出火して被害は芝口まで拡がりました。死者は10万人余といわれています。なお、この絵画によって木戸の跡がわかり、当時の町の状況を知ることができます。
第1章回向院の建立と両国橋の架橋(左:「むさしあぶみ」上・下、中:「江戸名所図会」十八、右:明暦大火罹災市街の図)
第3章は、回向院の開帳と相撲興行で、両国橋東詰に位置する回向院では、全国各地の寺院の出開帳がさかんに行なわれました。
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相州小田原道了宮両国回向院ニテ開帳参詣乃図 歌川広重/画(江戸東京博物館)
開帳の時期ともなると寺社の宝物を目当てに多くの人々が訪れ、より一層の賑わいをみせました。また、回向院は大相撲の興行場所としても賑わいました。
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近世善光寺出開帳一覧
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・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2013年版、2008~2010年版、2007・2008年版、2006・2007年版 へ
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・善光寺出品文化財(2)
本堂3階のその他の善光寺出品文化財には、善光寺如来の来歴を記した「絹本着色善光寺縁起絵」および、法要などで打ち鳴らす鉦鼓と呼ばれる大型の吊るし鉦「銅造双盤」や、和宮親子内親王(1846~77)由緒品の「皇女和宮由緒品」には梨子地葵紋蒔絵御文筥、梨子地唐草文蒔絵銀網掛手炙、梨子地菊葵紋散二階棚など10種類の品が展示してありました。
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絹本着色善光寺縁起絵(図はガイドブックから)
・びんずる尊者坐像
本堂3階から1階ロビーに降りると、奥に今回始めて善光寺本堂から外に出たびんずる尊者坐像が鎮座しており、大勢の参詣者が治して頂く願をこめて、復興しゃもじや掌で触れておりました。
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びんずる尊者(左:回向院出開帳のびんずる尊者(ガイドブックから)、右:善光寺本堂のびんずる尊者20121031)
また、1階ホールでは、北原香菜子の演奏による薩摩琵琶の奉納演奏が開かれており、満席で入場が出来ませんでした。同ロビーの左側では、善光寺と回向院のご朱印を受け付けており、長い行列待ちをしていました。
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本堂1階ロビー(左:善光寺・回向院出開帳ご朱印所、右:左がご朱印所、奥がびんずる尊者坐像)
ご朱印は、善光寺から出開帳御朱印を、回向院から本尊阿弥陀如来と馬頭観世音のご朱印を受けてきました。
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善光寺と回向院のご朱印
回向院のご本尊は、阿弥陀如来で、かつては本堂を背にして露天に安置されていた濡仏さまでした。釜屋六右衛門の作で、 1705 年(宝永二年)に安置され、身の丈約250センチ、蓮座約130センチもある大きな銅作りの坐像で、都有形文化財に指定されています。
馬頭観世音は、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、供養をするため、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻して安置しました。馬頭観世音菩薩像は、1716~35 年(享保年中)の頃から「江戸三十三観音」に数えられて、回向院は「江戸砂子拾遺」その二十六番札所と記されています。当時のものは災難にあい焼失しましたが、現在でも昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として巡拝者で賑わっています。
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回向院本尊阿弥陀如来像と馬頭観世音菩薩像(回向院HPから)
本堂の2階では、浮世絵美人画家の鳥居清長(1752~1815)の絵の「江戸の華 浮世絵と回向院展」を開催していました。回向院には、鳥居清長の墓碑があることは知られながらも、度重なる災害によりその所在は不明となっていました。
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本堂2階「江戸の華 浮世絵と回向院展」(左:浮世絵展と回向院展への階段口、右:茶見世十景冨ヶ岡 回向院HPから)
回向院のお戒壇巡りは、念仏堂の横を裏手に進み、入り口で係員の説明を聞いた後入ります。お戒壇は、念仏堂の背面に曲がりくねって作られた塀囲いの回廊で、真っ暗な回廊を巡り、出開帳仏背面に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の前におられる出開帳仏と結縁を果たし、極楽往生のお約束をいただく修業です。出てくる時、最初に目にするのが出口から射し込んでいる光で、目の見える尊さと光のありがたさを感じます。
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戒壇巡り(左:回向院のお戒壇巡り入口、右:善光寺本堂のお戒壇巡り入口 ガイドブックから)
最後に、善光寺出開帳の回向院参詣の記念に、出開帳授与品頒布所で善光寺のお線香と花絵のろうそくを購入して帰宅につきました。
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出開帳授与品(左:出開帳授与品頒布所、右:善光寺お線香と花絵のろうそく)
・盛り場両国江戸庶民の行動文化展で見る出開帳
善光寺出開帳両国回向院の開催に関連して、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)で、4月16日~5月26日まで開催している、「盛り場両国江戸庶民の行動文化」展で回向院の建立と開帳の常設展の展示を、5月15日に見てきました。
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盛り場両国江戸庶民の行動文化展パンフレット
入場料は、一般 が600円、大学生・専門学校生が480円、中学生(都外)・高校生・65歳以上が300円、中学生(都内在学または在住)・小学生・未就学児童が無料です。なお、当日は第3水曜日のシルバーデーにあたり、65歳以上は常設展観覧料が無料となります。
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シルバーデー入場券
展示会の第1章は回向院の建立と両国橋の架橋で、ともに1657年(明暦3年)の大火を契機とし、10万8千人の犠牲者をとむらうために本所牛島新田に「万人塚」が設けられ、その後國豊山無縁寺回向院が建立される。両国橋も大火を逃れて避難した人々が焼死もしくは溺死した惨事を受けて、1661年(寛文元年)に架橋されました。
「むさしあぶみ」上・下:文政年間に編集された「御府内寺社備考」によれば、回向院の起立は,明暦大火の後に犠牲者を弔うため与えられた本所牛島新田の50間四方の土地に死骸を埋葬したことにはじまるとしています。その後、寺領は幕府の助成もあって次第に拡張されていき、伽藍も整えられていきます。
「江戸名所図会」十八:回向院は江戸時代には坪数5101坪余りの大寺院として発展していくが、境内みは本堂のほかに鐘楼、馬頭観音堂、一言堂、地蔵堂、蓮池に弁財天などもありました。茶屋なども設けられており、常に多くの参詣者で賑わっていたことがうかがいしれます。馬頭観音は1655~58年(明暦年間)に将軍家綱の愛馬を埋葬するために建立されたといいます。
明暦大火罹災市街の図:火事は19日の深夜に一端は鎮火したが、小石川より出火しました。北西風によって江戸城の天守閣、本丸、二の丸までもが炎上しました。飯田町・市ヶ谷・番町などの江戸城周辺の武家屋敷も延焼し、さらに麹町からも出火して被害は芝口まで拡がりました。死者は10万人余といわれています。なお、この絵画によって木戸の跡がわかり、当時の町の状況を知ることができます。
第1章回向院の建立と両国橋の架橋(左:「むさしあぶみ」上・下、中:「江戸名所図会」十八、右:明暦大火罹災市街の図)
第3章は、回向院の開帳と相撲興行で、両国橋東詰に位置する回向院では、全国各地の寺院の出開帳がさかんに行なわれました。
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相州小田原道了宮両国回向院ニテ開帳参詣乃図 歌川広重/画(江戸東京博物館)
開帳の時期ともなると寺社の宝物を目当てに多くの人々が訪れ、より一層の賑わいをみせました。また、回向院は大相撲の興行場所としても賑わいました。
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近世善光寺出開帳一覧
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