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kan-haruの日記

東京大空襲~あれから61年~(その2)

2006年03月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
いま、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となっております。

そこで61年も前の、東京大空襲での東京区部での戦災焼失区域を知ることができる術があるのかを調べたところ、現在2種類の東京区部戦災焼失区域図が販売されていることが判りました。

1つは、㈱之潮の発行による、1945年8・9月にアメリカ軍撮影の空中写真から作成された、戦災復興院が1946年に刊行した、知られざる東京戦災白地図群(縮尺1:5000)の33葉で、一部は品切れの地図もあるが残存品は財団法人 日本地図センターのイベント公開時に入手が可能です。
もう1つは、株式会社明元社の発行による、『東京都戦災誌』編集/東京 ISBN-4902622-04-1 東京都焼失区域図で、東京都区部焼失区域図(東部・西部)2枚と八王子市焼失区域図1枚組があり、大型書店やAmazonから購入ができます。
ただし、何れも高価なため、購入は限定されます。しかし、明元社ホームページ(http://www.
meigensha.co.jp/)の地図見本に東京区部焼失区域図から東京の広域にわたり焼失区域を知ることができます。

また、インターネットWeb検索により、東京大空襲の写真などの情報は多くみることができます。しかし、3月10日の東京大空襲での焼夷弾の低空爆撃や100回に及ぶ空襲により、東京区部焼失区域図に見られる様に下町は壊滅状態となり、約10万人が犠牲となり、20万戸に及ぶ家屋が焼失した被害を蒙ったとされてます。
低空爆撃の焼夷弾の雨のなかでは、密集した小さな家々があっという間に火の海に包まれ、火焔による酸素欠乏で消防車のエンジンが止まり消化不能となり、一家が逃げた川べりでは、次々と人間が焔に包まれ黒焦げになって重なり遭う様は想像に絶するものです。

そこで、東京大空襲の記憶を伝へる戦争体験者の高齢化により、記憶の継承が途切れることの危機感から、戦争の語り部の先頭に立って活動を続ける作家の早乙女勝元さん(73)は、2002年3月に「東京大空襲・戦災資料センター」を開設して館長を務めて精力的に活動しておられます。

「東京大空襲・戦災資料センター」の設立は、はじめ「東京空襲を記録する会」が1970年より、この空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきて、1999年に東京都の「平和祈念館」が凍結の事態となり、「記録する会」と財団法人政治経済研究所はやむにやまれぬ思いから民間募金と資料収集をよびかけ、4000名をこえる方々の協力により、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかった地にセンターを完成できました。
センターには、「東京大空襲を記録する会」が1970年から収集してきた空襲・戦災に関するの文献をはじめ、約5000冊の各種資料が収蔵されています。
資料のなかの、焼夷弾でえぐられた古いピアノが、無言で悲惨さを物語ります。資料・展示保管室の写真や地図をはじめ、防空頭巾や防毒マスク、溶けたガラス盃、焼夷弾などセンターが収集してきた資料が各テーマに沿って並べられ、訪れる人たちに無言で語りかけます。

本日、昨年10月に次いでの2回目の「東京大空襲・戦災資料センター」に訪問しました。これは、先にお伝えしました、「大森町界隈よもやま」の大森町大空襲編に故人若山武義氏の手記を掲載するに当り、関連資料および写真の掲載許可の打診をして参りました。掲載許可については、内諾を得ることができましたので、若山武義氏の手記は貴重な資料となります。

当kan-haruの日記をご覧頂いた皆様には、「東京大空襲・戦災資料センター」にお尋ね頂き、戦争の悲惨さと無益さを皆様にお伝え頂ければ幸いと思います。

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