
kan-haru blog 2007 京急普通電車の旅① 北品川・新馬場編(拡大)
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利田(かがた)神社と鯨塚
北品川宿(地図・案内図参照)の台場横町を八ッ山通りへ進むと、北品川から立会川にかけての町並みは古い家を、あちこちで見かけます。陸続きの御殿山下台場に下って行く横町を、台場横町と呼んでいます。

台場横丁説明板 横町の古い家1 横町の古い家2
八ッ山通りに面した品川浦公園に接して利田神社があります。
利田神社(品川区北品川1-7-17)は、1626年(寛永3年)に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりといわれており、洲崎の弁財天と呼ばれて漁師町の守護神として祀られていました。歌川広重の「名所江戸百景」に、弁天堂が描かれております。

利田神社 神社正門 神社本殿
利田神社にある鯨塚は、1798年(寛政10年)に江戸・品川沖に迷い込んだ体長17mほどの鯨を、品川州崎の漁師たちが総出で捕らえ、骨を埋めて葬って石碑が建てられておりす。当時の騒動を伝えた「かわら版」の写しが残されており、江戸市中で評判となり見物人が押しかけたそうです。時の将軍徳川家斉にも、芝の浜御殿(現在の浜離宮庭園)の沖まで鯨を曳いて行き、将軍に供覧したと云われております。

利田神社の鯨塚 利田新地説明板 品川浦公園に接する船だまり
御殿山下台場(砲台)跡
御殿山下台場(砲台)跡へは、利田神社の前の路地を海寄りに進みますと台場小学校があり、この小学校の敷地を含めた陸続きの五角形の地形が砲台跡です。小学校の正門の脇に、台場跡から見つかった石垣を使って記念碑が建てられました。石垣の上に建つ灯台は、1870年(明治3年)に第二台場に造られた、日本で3番目の洋式灯台「品川灯台」を模したものです。実物の品川灯台は、重要文化財として愛知県犬山市の明治村に移設されています。
御殿山下砲台は、1853年(嘉永6年)に米国のペリーが4隻の黒船を率い、日本に開国を求め浦賀に来ましたので、江戸を守るため徳川幕府は品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を作ることにしました。このうち、五つの台場は完成しましたが、残りは着工にも至りませんでしたので、陸続きの五角形の砲台を造り、これが御殿山下砲台です。
現在は、周囲が埋め立てられ姿を消しましたが、台場の輪郭は道として残りましたので、位置と形を知ることができます。台場小学校の敷地は、台場の半分程の面積を占めてます。

御殿山下砲台跡説明板 砲台跡記念碑灯台 台場小学校
・黒門横町
御殿山下砲台跡を後にして、もと来た道を八ツ山通りに戻り台場横丁の南側に幅の狭い名も無い路地がありましたので、そこを突き抜けて旧東海道に戻りました。
この路地の交差点と台場横丁の交差点との中間点に第一京浜国道に抜ける横町があります。
この通りは、旧東海道から東海寺に至る道で「東海寺大門通り」と呼んでいました。寺の入口に黒塗りの大門があったことから「黒門横町」と呼ばれるようになりました。
品海公園「品川宿の松」
北品川宿まち歩きの次の行き先の法善寺に向う途中左手の品海公園(品川区北品川1-30)に、「品川宿 日本橋より二里・川崎宿へ二里半」の石標が建っており、日本橋から二里にあたります。
品川宿は東海道五十三次の最初の宿場町であり、旅人は品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人の規模で賑わっていました。
2000年に品海公園を改修した記念に品川宿から寄付された松を、「街道松」として植樹しました。

品川宿説明板 日本橋から二里の石標
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利田(かがた)神社と鯨塚
北品川宿(地図・案内図参照)の台場横町を八ッ山通りへ進むと、北品川から立会川にかけての町並みは古い家を、あちこちで見かけます。陸続きの御殿山下台場に下って行く横町を、台場横町と呼んでいます。

台場横丁説明板 横町の古い家1 横町の古い家2
八ッ山通りに面した品川浦公園に接して利田神社があります。
利田神社(品川区北品川1-7-17)は、1626年(寛永3年)に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりといわれており、洲崎の弁財天と呼ばれて漁師町の守護神として祀られていました。歌川広重の「名所江戸百景」に、弁天堂が描かれております。

利田神社 神社正門 神社本殿
利田神社にある鯨塚は、1798年(寛政10年)に江戸・品川沖に迷い込んだ体長17mほどの鯨を、品川州崎の漁師たちが総出で捕らえ、骨を埋めて葬って石碑が建てられておりす。当時の騒動を伝えた「かわら版」の写しが残されており、江戸市中で評判となり見物人が押しかけたそうです。時の将軍徳川家斉にも、芝の浜御殿(現在の浜離宮庭園)の沖まで鯨を曳いて行き、将軍に供覧したと云われております。

利田神社の鯨塚 利田新地説明板 品川浦公園に接する船だまり
御殿山下台場(砲台)跡
御殿山下台場(砲台)跡へは、利田神社の前の路地を海寄りに進みますと台場小学校があり、この小学校の敷地を含めた陸続きの五角形の地形が砲台跡です。小学校の正門の脇に、台場跡から見つかった石垣を使って記念碑が建てられました。石垣の上に建つ灯台は、1870年(明治3年)に第二台場に造られた、日本で3番目の洋式灯台「品川灯台」を模したものです。実物の品川灯台は、重要文化財として愛知県犬山市の明治村に移設されています。
御殿山下砲台は、1853年(嘉永6年)に米国のペリーが4隻の黒船を率い、日本に開国を求め浦賀に来ましたので、江戸を守るため徳川幕府は品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を作ることにしました。このうち、五つの台場は完成しましたが、残りは着工にも至りませんでしたので、陸続きの五角形の砲台を造り、これが御殿山下砲台です。
現在は、周囲が埋め立てられ姿を消しましたが、台場の輪郭は道として残りましたので、位置と形を知ることができます。台場小学校の敷地は、台場の半分程の面積を占めてます。

御殿山下砲台跡説明板 砲台跡記念碑灯台 台場小学校
・黒門横町
御殿山下砲台跡を後にして、もと来た道を八ツ山通りに戻り台場横丁の南側に幅の狭い名も無い路地がありましたので、そこを突き抜けて旧東海道に戻りました。
この路地の交差点と台場横丁の交差点との中間点に第一京浜国道に抜ける横町があります。
この通りは、旧東海道から東海寺に至る道で「東海寺大門通り」と呼んでいました。寺の入口に黒塗りの大門があったことから「黒門横町」と呼ばれるようになりました。
品海公園「品川宿の松」
北品川宿まち歩きの次の行き先の法善寺に向う途中左手の品海公園(品川区北品川1-30)に、「品川宿 日本橋より二里・川崎宿へ二里半」の石標が建っており、日本橋から二里にあたります。
品川宿は東海道五十三次の最初の宿場町であり、旅人は品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人の規模で賑わっていました。
2000年に品海公園を改修した記念に品川宿から寄付された松を、「街道松」として植樹しました。

品川宿説明板 日本橋から二里の石標
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