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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K31) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第2回)

2006年07月05日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
前回の日記(7月3日)にもちょっと触れましたが、北朝鮮が懸念していた弾道ミサイルを7月5日未明から続けさまに6発を日本海に向けて発射しました。
世界の平和にキナ臭いにおいが漂い初めました。kan-haru日記のカテゴリー「大森町界隈あれこれ 空襲」シリーズの若山武義氏手記のこの日記は、ご遺族のご提供による悲惨な戦争の戦災体験を赤裸々に記述されたもので、貴重な記録を関連資料とともに編集して掲載しております。
このシリーズ掲載の理由は、私が国民学校(今の小学校)時代に望まない学童疎開などの戦争体験を受けた者として平和の尊さを誰よりも認識しており、戦争を知らない世代が80%を超え風化しつつある現在、平和の守りを後世に語り継ぐ必要があると考えて連載しております。
今回の連載を交えて、今までに次の連載を掲載してあります。この記事に触れお読みになられ方は、お知り合いにご紹介を頂き、二度と過ちを繰り返さないで平和の継続が維持できることを希望しております。
 ・東京大空襲~あれから61年~(その1、2) まえがき
 ・大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲(第1~11回) 若山武義氏手記第1編
 ・大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
 ・大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回~)  連載継続中

東京大空襲の記録資料(6)
大空襲記録資料は、前々回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
空襲都日記(第一部)は、五月一、二日の日記にて終了となり、五月三日から「降伏日記(空襲都日記第二部)」となります。
若山武義氏の手記と同期して、海野十三降伏日記(空襲都日記第二部)から抜粋し記述してみます。
六月十日の日記から
「四月十六日以後一ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主として、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、五月十四日以降再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、五月十四日、十七日名古屋に、二十三、二十五日東京、二十九日横浜に来襲した。

四月十六日から五月三十一日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。」

七月十四日の日記から
○沖縄は去月二十日を以って地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦も関が原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。

当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関が原でもなかった。そんなに重要ではない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関が原だといったのだと、いいたくなるわけだ。

沖縄戦
沖縄戦については、沖縄市ホームページの「平和の発信都市 那覇市」内の「沖縄戦の概説」で沖縄戦の概要が見られます。
それによると、沖縄戦は、1945年の3月下旬から8月までの戦いをいい、1944年10月10日に空襲があり、旧那覇市街の90%が消失し首里城の司令部も焼ける。司令部が首里陥落目前に、南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。沖縄戦の主戦場は、南部ではなく、米軍の上陸地点から首里城までが主戦場であり、この間10キロを進むのに50日かかり、日本兵の死者は1日あたり千人以上にのぼり、10万人の主戦力守備軍の7割の兵力を失う、太平洋戦争で最も激しい戦いでありました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第2回
鈴木内閣誕生
大命は日清、日露歴戦の勇将の鈴木大将に降下し新に首相の印綬をおびて登場したのである。洵に無色透明な人格者、なるほど此の人でなくては、此の危機に軍にも官にもにらみのきく人は他にあるまい。政治はきらいと我がままを云わせられぬ程度危急の時局である。
忠誠至純の人柄に先ず我々は安心したのである。東条内閣の如き暴政は為ないし、小磯内閣の如き愚政は致すまい。鈴木老提督の下に全国民初めて結束し得ると。

而して、其の初の臨時議会の施策演説に首相として
「今日、アメリカは我に対し無条件降伏を揚言して居る、かくの如きは、正に我が国体を破壊し、我が民族を滅亡せしむるものである、我々としては今一段の努力である、敵国内の情勢の動向を推し、又国際情勢の機微を察するに、我々としては、ただ此の際、あくまでも戦い抜く事が、戦椗への最も手近なる方法である」、と
 阿南陸相は更に勇敢に
 「今日に於いて、勝利を疑い遲疑する人は、勝利を信ぜざる人である、勝利を信ぜざる人は、勝利を自ら放棄する人である、戦局の推移誠に不利の時、必勝を不動の信念として、我等は国民に告ぐるものである」と
 米内海相曰く
 「最後の勝利は、総力を結集して、最後の五分間を最もよく戦い抜きたるもののみが獲得する」と
「最後の五分」は開戦以来、聞きあきる程聞いた言葉であるが、今日此の情勢は、真実なる意味のこもる五分である。平凡な言葉ではあるが、今日一徳一心、茲に最後の五分を頑張り抜かねばならぬ時が刻々到来しつつある此際、ただただ我々は政府を信じ、其の指揮命令に忠実に服従するより他に道はないのである。

敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

沖縄陥落
敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
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