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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第7回)

2006年08月27日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
降伏文書調印
61年前の9月2日は、東京湾上の米戦艦ミズリー号の甲板で、外相の重光葵と参謀総長の梅津美治郎が日本の全権として、連合国への降伏文書に調印をしたのであります。
調印の署名は、重光、梅津、マッカーサーに続き、米国、中華民国、英国、ソ連、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドの代表の順で署名されました。
日本では、政府・軍の指導者には屈辱との受け止めが多く、だれが代表として降伏文書に名を残すのかの人選は難航しました。
政府代表の人選は、首相の東久邇宮稔彦と副総理の近衛文麿が断り、外相の重光葵が決まり、軍代表の梅津美治郎は、本土決戦を唱えた本人であることから激しく抵抗したが、東久邇宮が「天皇のおぼしめし」として指名されたのです。

日本は、8月14日に御前会議でポツダム宣言を受諾し、15日の天皇の「玉音放送」で国民に伝えたが、9月2日までは、正式に戦争が終結したとはいえなかった。
8月8日に宣戦布告したソ連は、9月初めまで、樺太の南半分や千島列島、北方四島などを占領したのです。

(国立国会図書館ウエブサイト)
降伏文書調印に関する詔書 1945年9月2日
降伏文書


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第7回 
続 ポツダム宣言
まさか連合国と雖も、餌を興えずして卵をのみ獲るとはよもすまい。如何に苦しかろうとも、罪の償い、立派に其の責務の賠償を果したい。其の責務を果たしてこそ、三千年の父祖に、負けるべき戦争をおこした罪を詫び、子孫をして再び此の戦争の愚をなめさせないようにと。

 日本国国民ヲ欺瞞シ、之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ
権力及勢力ハ永久ニ除去セザルベカラズ
これは敢て連合国の指示を俟つ迄もなく、我々の手にて除去に努力せねばならぬ。
これ等の権力、勢力亦思想は、一石一草と雖もあますなく除去して、その上でなくては本当の民主主義が成り立たぬと思う。

 日本ニ対スル聨合国ノ緒目的ガ達成セラレ且ツ日本国民ノ自由ニ表明セル意志ニヨッテ、平和的傾向ヲ持チ且ツ責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聨合国ノ占領軍ハ直チニ撤収セラルベシ
敗戦の今日、軍閥は勿論解体されるだろう。戦争で儲けた新旧財閥、之も壊滅せしめなけ
ればならぬ。戦争中軍閥と共に国民を奴隷にした重臣、官僚群、華族などの特権階級は寸刻も早く追放せねばならぬ。而して全国民の九割を占める勤労階級の自由に表明せる意思によって、平和的責任ある政府を一日も早く我等の手で樹立せねばならぬ。かくてこそ、聨合国を安心させ、我等国民も初めて安心し得るのである。

 聨合国ハコノ条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ、右ニ代ル条件存在セズ。
とある。どうせ勝てぬ戦争なら、もっと早く終戦の機会はなかったのか、と思う。今更昨日が今日にはならぬから、愚痴は一切申すまいとは思わぬではないが、凡人の悲しさ、敗戦と云う千仭の谷底になげ込まれた上、今日迄、あまりにまっ正直に政府と軍とを信用しきって来た我々庶民は、この発表された「ポツダム宣言」に「右ニ代ル条件存在セズ」とあるけれど、お上の都合のよいようのに訳してあるのでないだろうか、丸々うのみに信用出来るかなと迷わざるを得なかったのでえある。

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