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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K34) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第5回)

2006年08月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
明後日の15日は、61回目の終戦の日を迎えます。
若山武義氏の貴重な東京空襲の戦災体験の手記も、終戦の日に合わせて休載しておりましたが、今日から他のカテゴリーの記事と交えながら掲載を再開します。
手記は、第一編「鎮魂! 大森町大空襲」が連載11回、第二編「戦災日誌中野にて」が連載7回、第三編「終戦前後目黒にて」の連載が今回まで5回を数えます。

若山武義氏が手記を記述した所は、たまたま8月9日に掲載の記事「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」に出てくる、現在工事中の「大森ふるさとの浜辺公園」の隣接の住居地に居住中に書かれたものであり、また、その場所は大戦中の空襲体験時の勤務先事務所の所在地でもありました。まさに、大森町は若山氏の戦中の大森大空襲時の焼夷弾の雨を目の前に落とされ、爆撃延焼の猛火を潜り命辛々逃げ惑って、人知れぬ思わぬ苦難を強いられた貴重な体験記であります。

61年前の空襲での民間人被害
61年前の8月6日と9日には、世界で始めて広島と長崎に原爆が投下されました。
当時の広島市内には、34万2千の人口で、爆心地から1.2kmの範囲では50%の人が死亡し、1945年末までに14万人が死亡したと推定されております。また、長崎市の人口はおよそ24万人で、即死者は3万5千人、1945年末までに総死亡者数は7万人以上でありました。
東京大空襲では、原爆は免れましたが、1942年4月18日の初空襲以来、1945年8月15日の空襲までに36万発以上のM69型焼夷弾と爆弾が落とされ、11万7000人が犠牲となりました。
この世界大戦では、全国47都道府県の無差別爆撃で、罪のない一般市民の約56万人(推定)が犠牲となっております。この犠牲者には、地上決戦場となった沖縄県民の犠牲者は含まれておりません。

戦争では、焼夷弾で被爆して怪我をしても、肉親を亡くしても、財産を失っても、国からの空襲被害者への保障は一切ありません。この様に、悲惨で、無残な戦争は二度と起こしてはならないのです。
このところ、世界ではイスラエルとレバノンではきな臭い戦争が起きています。また、北朝鮮やイランでは、核開発が進められております。
日本では戦争を体験しない人が80%を超え、戦争を知らない世代が増えております。大戦後61年を経過して、戦争の記憶が風化してます。
日本国憲法に掲げられている、恒久平和の理念は私達の願いです。世界に非核三原則の維持を訴え戦争を無くすために、若山武義氏の手記などを読んで頂き、平和の尊さを口伝えに広めて頂ければ何よりと思っております。

手記参考情報(国立国会図書館ウエブサイト)
・ポツダム宣言
・カイロ宣言


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第5回
・戦争だけはやめになった
 息つまる緊張がとけると、ああと吐息が出た。対ソ宣戦ではないぞと、判ったような、判らぬような、半信半疑である。
 「おじさん、サッパリわからんけんど、一体全体どうなったのさ」
 「おれもサッパリわからんけんど、戦争だけはやめになった、休戦だな」
 「それではまけたの?」
 「負けたとは思わないし、勝ったでもないようだが、とにかくいくさだけはやめになったと思う、とにかくあしたの新聞見んことには、しっかりした事わからない」
 「戦さがやめになったら、今夜から空襲はないね」
 「無論なくなるさ」
 「ああよかった、それさえなければねぇ」
本当に今日迄毎日毎夜、ある夜の如き、しのつく豪雨のさなかの空襲警報に、ねむれる子供をおこし、夫れ夫れ仕度させ、幼児を背に二人の子の手をひき、防空壕に退避させねばならぬ、其の困苦、毎夜二度、三度、困惑真に想像される。
 あす、お国と我が民族の運命が如何なろうとも、とにかく空襲の恐怖から開放された丈でも「ああよかった」と思う母親がいかに多かった事であろう。

・無条件降伏 
然し狐にばかされたような、なんとしても割り切れぬ気持ちである。むやみやたらに腹がたつ。それが翌日の新聞で、初めてポツダム宣言受諾即ち無条件降伏と知って腰を抜かすばかり呆然自失した。
 「無条件降伏って、どんな事なの?」
妻の問いに対し、「若い女房や娘はみんなラシャメンに連れて行かれる、男は一生奴隷として働かされるのさ」。とにかく大変な事になった。だから戦争は負けられんのだ、負けたら先様の云いなり放題だ。
 不安にあけて不安にくれる、恐怖からデマが乱れとぶ。海軍機がビラを散布し、
 「我ら断じて戦う、工員諸士、職場に就け」と
 交通機関を除いて、ピタリと休止、働らなくなった、動きたくも動かない、腰抜けとなったのである。

 「ピカッ! ドカン!」の死の恐怖からは開放されたが、今度は生きるに新しい不安と恐怖である。湘南方面では、婦女子全部急疎開せよと騒ぎ出し、我も人も落付きがない。
 然し、我々もから騒ぎはして居られない、心を落付けて詔書をよく熟読し、其のポツダム宣言とは如何なるものか、これが問題なのである。大体其の内容は全然我等は知らぬし、戦争中は教えても呉れぬ。終戦前鈴木首相が記者団の質問に答えて
 「カイロ宣言の焼き直しである」
と事もなげに無関心に云うた。其の「カイロ宣言」なるものも、どんなものか全然知らぬ。尤も最後の決戦に必ず提っのであるから、敵は何と宣言し、何を宣伝しようと馬耳東風でよかったのである。敢えて知る必要もなかった。
 敗戦、而も無条件降伏となっては、我が国の運命を規定するこのポツダム宣言の意味をよく知らねばならぬ。

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