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大森町界隈あれこれ(K38) 手記第3編 終戦前後目黒にて (最終回)

2006年08月31日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏の手記(1945年記述)は、終戦を迎え大空襲篇は今回が最終回ですが、戦後61年を経過した今日、戦争を語り継ぎ平和を求めていくためには大変貴重な手記であります。ご提供を賜りました、ご遺族様には大変感謝を申し上げます。
軍・官の無謀と無知に振り回された戦争は、多くの死傷者を出し、平和な家族と離れ離れとなり、暖かな生活を営む住居を灰燼に帰し、一般庶民に多大な犠牲を強いたのです。このような無残で悲惨な戦争は、二度と繰り返してはならないのです。
戦争を知らない人が80%を越しました。戦争を風化させずに、平和について考えていきたいのです。この手記をお読みになられた方は、戦争について語りついていくため、是非紹介をお願い致します。

なお、ブログのカテゴリ欄に、「大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次」を掲載します。
目次は、第1編「戦災日誌(大森にて)」、「手記第2編 戦災日誌中野にて」、「手記第3編 終戦前後目黒にて」および「東京大空襲~あれから61年~」の全29記事と、記事中に参照している写真や全資料のリンク付きの総目次で索引が容易に行えますのでご利用下さい。

また、若山武義氏の手記は、戦災編が終わりでなく、大戦後を記録した戦後編も残されております。戦後篇の手記は、戦災篇よりも長編で、今日では誠に貴重な記録でありますので、これからもカテゴリーを変えて、内容を抜粋して掲載してまいります。

掲載手記から再現
今までの手記を振り返りますと、第一編の「戦災日誌(大森にて)」10回連載では、大森町に住んでいた1944年暮れ頃から東京大空襲も激しくなり始め、4月15日の晩の大森町大空襲の手記場面では、
 「...京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
 「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!
 アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面
 火の海。
 立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛
 炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ
 次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
 予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ顚倒、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と
 化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。 ...」

 「...一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち
 付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹き
 つけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の
 海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海
 岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とか
 だまりあって駆け出した。
 呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふるか
 えって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し
 繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。 ...」

と、大森町の住居は全焼の戦災に遭い、「手記第2編 戦災日誌中野にて」7回連載では、中野に移っての5月25日の手記には、
 「...今度は、敵機は反対の方面、帝都の中心より侵入し始め、我等の頭上に交錯し始
 めた。あっ、これは危険だぞと思うまに、幡ヶ谷、高円寺、東中野方面が次第に火の海と
 なり出した。秒一秒、不安がつのり、焦慮がます。いよいよ大変な事になったと思うトタ
 ンに
  ピピユーピピユー
 物凄い腸のちぎれるような怪音と共に、焼夷弾が一斉に附近一帯に落下した。
 「組長さんのとこ、焼夷弾落下!」
 と女の呼び声。ソレッとばかり、平素の訓練通りバケツ持ち出した連中、二発は消し止め
 たけれど、近所近隣のは一ぺんに火を吹き出した。もう消す処の沙汰ではない。此の勢い
 に皆退避し初めた。 ...」

 「...決して離れるなよと注意して、差当り火の手のない東養豚所まで来たら、再び
 第二の焼夷弾が怪音と共に降って来た。 ...
  ...さあ来いとばかり一散に飛び出した。約二、三十人の人と魔物に追われる気持ち
 でかけ出して、畑を横切る時、ガアーッと落雷の如き物凄き音、
  アッ、爆弾
 と直覚、トタンに背後で轟然炸裂した。アッもスッもない。無我夢中でスッとんだ。吹き
 飛ばされたとおんなじだ。 ...
  ...何とか此の危機をのがれたいとする、焦虜と不安と恐怖の地獄の釜のなかにたた
 きこまれた騒ぎ、このまま人生一巻の終わりになるのかと、泣くにも泣けぬ、我れ初め顔
 色を失ってしまった。 ...」

と、中野でも大森町についで2度とも住居消失の戦災を蒙りました。仕事のため住居を求めて目黒に移った、「手記第3編 終戦前後目黒にて」9回連載では玉音放送で終戦を迎えた記録です。
若山武義氏が、大森町大空襲の戦災期を記述し始めてから、終戦を迎えるまでの期間は僅かに8ヶ月足らずです。この間に、大戦のため庶民である一般国民は、何度も住いを焼かれ、何度も死ぬ思いをしながら爆撃の火の手を避けての避難を繰り返すという戦災被害を受けられました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第9回
続東久邇宮内閣
仮りに民間人が内閣を組織して、敗戦の真因を軍官の批政の結果なりと痛烈に批判して見よ、たちまい一発の御見舞を受ける処である。それが宮様なればこそ、かくツケツケ仰せ給うのである。全くひそかにヤミをやり生きて来た我々庶民は、総ざんげするのは忘れ、真に本当だ、まさしく其の通りであると、戦時中圧制されて来た軍、官に、初めて反撥し、批判する余裕が生じたのである。
然しさればとて過去の事で茲に泥試合は許されないが、お互深く反省せねばならぬ事は当然である。此の敗戦と云う冷厳な事実を、臨時議会で、首相の宮様が具体的数字を挙げての御説明に、初めて愕然として驚き、真に無暴な戦をしたものだと憤慨せざるを得ぬ。

かって、世界に初めての十六吋巨砲の陸奥、長門の巨艦を造り上げて米英を吃驚させて軍縮会議の素因を造り、更に其の制限範囲内に最優秀装備の重、軽巡洋艦を造り上げ、軍縮撤廃後、我が海軍が全智全能、その精魂を傾けて尽した怪物巨艦武蔵、大和等々、我が無敵艦隊の
  赫々たる戦果、勇壮なる軍艦マーチ
ああ、夢の夢、今はかげも形もなし、其の威容をむなしく海底に誇り居ようとは思わなんだ。
初めて知り唖然とし、只々呆然とし、泣くになけぬくやしさである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
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