1日目
太田川リバーウォーク 35キロ
その14 中区
元安橋から中央公園まで
「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 平和公園前交差点から元安橋(もとやすばし)までを紹介したが」
「14回目の今日は、元安橋からゴールの中央公園まで」
「元安橋の東詰北側にあるのが、広島市道路元標(どうろげんぴょう)」
「目立たんところにあるけぇ、うちは知らんかったよ」
「広島県ができた1871年(明治4年)、木製の道路元標が建てられた。ほいで、広島市ができた1889年(明治22年)、広島県から広島市の道路元標になって、石柱に替えられたそうじゃ」
「ところで、道路元標ってなに?」
「道路の起点や終点の基準となる標識を、道路元標というんじゃと。江戸時代、ここは西国街道があって交通の便もええし、太田川の水運の便もえかったけぇ、広島城下町の中心地じゃったんよ。そこで、ここが起点になったということじゃ」
「これは、動員学徒慰霊塔。戦争末期、学生が軍需工場とかで働かされよったんよ」
「働き手である成人男性が次々と戦場に送られて、国内では労働力が不足しとったんじゃの」
政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。
また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。
広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。
その他に市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となりました。
(「42 動員学徒慰霊塔」広島平和記念資料館)
「原爆が投下されたころ、広島市では東は鶴見橋(つるみばし)から、西は小網町(こあみちょう)までの間で、建物疎開をしよったんじゃ」
「空襲を受けたとき、火が燃え広がらんように防火地帯を作りよったんよね。これが今の平和大通りになるんじゃけど」
「この人たちの上で、原子爆弾が炸裂したんじゃの」
「8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲になったんか。恐ろしいことじゃね」
「ここには、原爆犠牲者だけじゃのうて、学徒動員の作業中に亡くなった全国の学生への慰霊が込められとるんじゃ」
「いよいよ、世界遺産の原爆ドーム」
「原爆ドームが建っとる場所には、広島藩の米蔵(こめぐら)があったそうじゃ」
「江戸時代、旧広島市民球場や広島そごうあたりまでが広島城で、今の相生通り(あいおいどおり)は、お城の堀じゃったんよ」
「城の近くじゃし、米を船で運んでくるにもええ場所じゃったけぇ、ここに米蔵を建てちゃったんじゃろうの」
「1915年(大正4年)、この場所に広島県物産陳列館が建てられたんよ。ということは、97年前になるんじゃね」
「そのあと、1921年(大正10年)には広島県立商品陳列所、1933年(昭和8年)には、広島県産業奨励館と名前を変えとるんじゃ。1945年(昭和20年)8月6日、ここから南東に約150メートル、上空約580メートルの地点で、原子爆弾が炸裂したんじゃ」
原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられています。
爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
そして、その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。
(「38 原爆ドーム 」)広島平和祈念資料館
↓原爆ドームについては、こちら↓
原爆ドーム
「原爆ドームの敷地内にあるのが、建設省(内務省)職員殉職碑じゃね」
「原爆が投下された1945年(昭和20年)当時、産業奨励館(現:原爆ドーム)は内務省の中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの事務所として使われとったんじゃ」
現在原爆ドームと呼ばれている広島県産業奨励館の3階全部と1階の一部を借りて入っていた出張所の職員93人のうち、牛田町官舎等へ疎開していた人たちを除き、殉職者52人(内訳は男性30人、女性22人で、そのうち庁内執務者13人、作業出動者32人、行方不明者7人でした。)と負傷者9人という大きな被害を受けました。
(「39 中国・四国土木出張所職員殉職碑〔建設省(内務省)職員殉職碑〕」)広島平和祈念資料館
「これは、鈴木三重吉(すずき みえきち)文学碑じゃね」
「鈴木三重吉いうたら、広島市出身の小説家・児童文学者じゃのう」
「1918年(大正7年)には、児童文芸誌『赤い鳥』を創刊しとってじゃね」
昭和39年(1964年)6月、鈴木三重吉顕彰会建立。
肩に鳩を乗せた三重吉の胸像の台座は本を模しており、「赤い鳥」の文字と三重吉の好きだった馬が彫られている。
右側の少年と少女が座る台座には三重吉の筆で「私は永久に夢を持つ。たゞ年少時のごとく、ために悩むこと浅きのみ」の碑文がある。
円鍔勝三氏作。
(「「赤い鳥」文学碑」ようこそ 鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界へ)
「左側が旧相生橋(あいおいばし)の碑で、右側が初代の親柱になるんじゃ」
「相生橋は、全国的にも珍しい「T」の形をした橋なんよ」
「珍しい形の橋じゃけぇ、原爆投下のとき、この橋が目印にされてしもうたんじゃ」
原爆投下はこの橋を目標にしたといわれています。
原爆は目標をそれ、300m離れた島病院上空でさく裂しました。
すさまじい衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干は川に落ち、歩道の一部が持ち上がりました。
(「6 相生橋」)広島平和祈念資料館
「ここから下に下りて、相生橋の下をくぐって歩いていくんじゃ」
「これは、リバークルーズの船じゃね」
「バールンという名前の船で、空鞘橋(そらざやばし)の下を通っとったんじゃ」
↓バールンについては、こちら↓
世界遺産を結ぶ海上アクセス - 広島・宮島観光/アクアネット広島
「空鞘橋も橋の下を通って、ようやく中央公園に戻ってきた。そして、ゴール!」
「おー、お疲れさま。パチパチパチ」
「おや、この写真は?」
「ゴールした後、公園の芝生の上にビニールシートを敷いて、そこでゴロンと仰向けになったときに撮った写真じゃ。あー、ちかれたびー」
「お父さんはマラソン大会に出るとき、ビニールシートを持って行きよったね」
「走った後くらい、ゴロンと横になりたいけぇの。そうそう、マラソン大会では荷物を預かってくれるんじゃが、ウォーキング大会は、自分で背負うて歩かんといけんのじゃ」
「そりゃ、しんどいね」
「今日は、「雨が降るかも」とか「寒いじゃろうの」と荷物を余分に入れてきてしもうた。明日は荷物を減らさんといけんの」
「明日は25キロじゃけど、大丈夫?」
「ま、なんとかなるじゃろ」
「そういや、何時間くらい歩いたん?」
【メモ】
ゴール時間/15時45分ころ
(スタートから約7時間45分)
歩数/約44,700歩
歩いた距離/約34.8キロ
(注:距離は歩数計に示されたもので、公式のものではありません)
「うわー、8時間近くも歩いたん?」
「休憩時間を入れてじゃがの」
「歩数が約45,000歩って、どんなんじゃろうか。うちには想像もできんよ」
「本人は、そんなの意識しとらんけぇの。あちこち見ながら歩きよったら、結果としてそうなったというだけじゃ。ただ、体はしんどいよのう」
「無理しんさんなよ。年じゃけぇ」
「電車に乗って帰ろうと、中央公園を出て基町クレド・パセーラの前を通ったら、サンフレッチェの試合がクレドビジョンで放送されとったんじゃ」
「そこで、サンフレッチェの初優勝のシーンを見たんよね」
↓サンフレッチェの試合についての関連記事は、こちら↓
サンフレッチェ広島 J1初優勝
「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、元安橋から中央公園までについて話をさせてもらいました。1日目の35キロは、今回で終わりです」
「紹介するのに全14回もかかってしもうた。ほんまはこの半分で終わらせる予定じゃったんじゃが」
「とりあえず、年内に終わらせることができたね」
「とりあえずというか、むりやりというか…。書き残したことが、まだまだあるんじゃがのう」
「まだ、2日目の25キロも残っとるけど?」
「そりゃまた、来年、考えるわい」
「それではみなさん、今年1年、ありがとうございました。来年も、よろしくお願いします」
「よいお年をお迎えください。ほいじゃあ、またの」
太田川リバーウォーク 35キロ
その14 中区
元安橋から中央公園まで
「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 平和公園前交差点から元安橋(もとやすばし)までを紹介したが」
「14回目の今日は、元安橋からゴールの中央公園まで」
「元安橋の東詰北側にあるのが、広島市道路元標(どうろげんぴょう)」
「目立たんところにあるけぇ、うちは知らんかったよ」
「広島県ができた1871年(明治4年)、木製の道路元標が建てられた。ほいで、広島市ができた1889年(明治22年)、広島県から広島市の道路元標になって、石柱に替えられたそうじゃ」
「ところで、道路元標ってなに?」
「道路の起点や終点の基準となる標識を、道路元標というんじゃと。江戸時代、ここは西国街道があって交通の便もええし、太田川の水運の便もえかったけぇ、広島城下町の中心地じゃったんよ。そこで、ここが起点になったということじゃ」
「これは、動員学徒慰霊塔。戦争末期、学生が軍需工場とかで働かされよったんよ」
「働き手である成人男性が次々と戦場に送られて、国内では労働力が不足しとったんじゃの」
政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。
また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。
広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。
その他に市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となりました。
(「42 動員学徒慰霊塔」広島平和記念資料館)
「原爆が投下されたころ、広島市では東は鶴見橋(つるみばし)から、西は小網町(こあみちょう)までの間で、建物疎開をしよったんじゃ」
「空襲を受けたとき、火が燃え広がらんように防火地帯を作りよったんよね。これが今の平和大通りになるんじゃけど」
「この人たちの上で、原子爆弾が炸裂したんじゃの」
「8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲になったんか。恐ろしいことじゃね」
「ここには、原爆犠牲者だけじゃのうて、学徒動員の作業中に亡くなった全国の学生への慰霊が込められとるんじゃ」
「いよいよ、世界遺産の原爆ドーム」
「原爆ドームが建っとる場所には、広島藩の米蔵(こめぐら)があったそうじゃ」
「江戸時代、旧広島市民球場や広島そごうあたりまでが広島城で、今の相生通り(あいおいどおり)は、お城の堀じゃったんよ」
「城の近くじゃし、米を船で運んでくるにもええ場所じゃったけぇ、ここに米蔵を建てちゃったんじゃろうの」
「1915年(大正4年)、この場所に広島県物産陳列館が建てられたんよ。ということは、97年前になるんじゃね」
「そのあと、1921年(大正10年)には広島県立商品陳列所、1933年(昭和8年)には、広島県産業奨励館と名前を変えとるんじゃ。1945年(昭和20年)8月6日、ここから南東に約150メートル、上空約580メートルの地点で、原子爆弾が炸裂したんじゃ」
原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられています。
爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
そして、その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。
(「38 原爆ドーム 」)広島平和祈念資料館
↓原爆ドームについては、こちら↓
原爆ドーム
「原爆ドームの敷地内にあるのが、建設省(内務省)職員殉職碑じゃね」
「原爆が投下された1945年(昭和20年)当時、産業奨励館(現:原爆ドーム)は内務省の中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの事務所として使われとったんじゃ」
現在原爆ドームと呼ばれている広島県産業奨励館の3階全部と1階の一部を借りて入っていた出張所の職員93人のうち、牛田町官舎等へ疎開していた人たちを除き、殉職者52人(内訳は男性30人、女性22人で、そのうち庁内執務者13人、作業出動者32人、行方不明者7人でした。)と負傷者9人という大きな被害を受けました。
(「39 中国・四国土木出張所職員殉職碑〔建設省(内務省)職員殉職碑〕」)広島平和祈念資料館
「これは、鈴木三重吉(すずき みえきち)文学碑じゃね」
「鈴木三重吉いうたら、広島市出身の小説家・児童文学者じゃのう」
「1918年(大正7年)には、児童文芸誌『赤い鳥』を創刊しとってじゃね」
昭和39年(1964年)6月、鈴木三重吉顕彰会建立。
肩に鳩を乗せた三重吉の胸像の台座は本を模しており、「赤い鳥」の文字と三重吉の好きだった馬が彫られている。
右側の少年と少女が座る台座には三重吉の筆で「私は永久に夢を持つ。たゞ年少時のごとく、ために悩むこと浅きのみ」の碑文がある。
円鍔勝三氏作。
(「「赤い鳥」文学碑」ようこそ 鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界へ)
「左側が旧相生橋(あいおいばし)の碑で、右側が初代の親柱になるんじゃ」
「相生橋は、全国的にも珍しい「T」の形をした橋なんよ」
「珍しい形の橋じゃけぇ、原爆投下のとき、この橋が目印にされてしもうたんじゃ」
原爆投下はこの橋を目標にしたといわれています。
原爆は目標をそれ、300m離れた島病院上空でさく裂しました。
すさまじい衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干は川に落ち、歩道の一部が持ち上がりました。
(「6 相生橋」)広島平和祈念資料館
「ここから下に下りて、相生橋の下をくぐって歩いていくんじゃ」
「これは、リバークルーズの船じゃね」
「バールンという名前の船で、空鞘橋(そらざやばし)の下を通っとったんじゃ」
↓バールンについては、こちら↓
世界遺産を結ぶ海上アクセス - 広島・宮島観光/アクアネット広島
「空鞘橋も橋の下を通って、ようやく中央公園に戻ってきた。そして、ゴール!」
「おー、お疲れさま。パチパチパチ」
「おや、この写真は?」
「ゴールした後、公園の芝生の上にビニールシートを敷いて、そこでゴロンと仰向けになったときに撮った写真じゃ。あー、ちかれたびー」
「お父さんはマラソン大会に出るとき、ビニールシートを持って行きよったね」
「走った後くらい、ゴロンと横になりたいけぇの。そうそう、マラソン大会では荷物を預かってくれるんじゃが、ウォーキング大会は、自分で背負うて歩かんといけんのじゃ」
「そりゃ、しんどいね」
「今日は、「雨が降るかも」とか「寒いじゃろうの」と荷物を余分に入れてきてしもうた。明日は荷物を減らさんといけんの」
「明日は25キロじゃけど、大丈夫?」
「ま、なんとかなるじゃろ」
「そういや、何時間くらい歩いたん?」
【メモ】
ゴール時間/15時45分ころ
(スタートから約7時間45分)
歩数/約44,700歩
歩いた距離/約34.8キロ
(注:距離は歩数計に示されたもので、公式のものではありません)
「うわー、8時間近くも歩いたん?」
「休憩時間を入れてじゃがの」
「歩数が約45,000歩って、どんなんじゃろうか。うちには想像もできんよ」
「本人は、そんなの意識しとらんけぇの。あちこち見ながら歩きよったら、結果としてそうなったというだけじゃ。ただ、体はしんどいよのう」
「無理しんさんなよ。年じゃけぇ」
「電車に乗って帰ろうと、中央公園を出て基町クレド・パセーラの前を通ったら、サンフレッチェの試合がクレドビジョンで放送されとったんじゃ」
「そこで、サンフレッチェの初優勝のシーンを見たんよね」
↓サンフレッチェの試合についての関連記事は、こちら↓
サンフレッチェ広島 J1初優勝
「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、元安橋から中央公園までについて話をさせてもらいました。1日目の35キロは、今回で終わりです」
「紹介するのに全14回もかかってしもうた。ほんまはこの半分で終わらせる予定じゃったんじゃが」
「とりあえず、年内に終わらせることができたね」
「とりあえずというか、むりやりというか…。書き残したことが、まだまだあるんじゃがのう」
「まだ、2日目の25キロも残っとるけど?」
「そりゃまた、来年、考えるわい」
「それではみなさん、今年1年、ありがとうございました。来年も、よろしくお願いします」
「よいお年をお迎えください。ほいじゃあ、またの」