1日目
太田川リバーウォーク 35キロ
その12 中区
宇品橋から平和公園前交差点まで
「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、南区 暁橋(あかつきばし)から宇品橋(うじなばし)までを紹介したが」
「12回目の今日は、宇品橋から平和公園前交差点まで」
「宇品橋を渡ると、あとはゴールがある中央公園まで歩いて行けばええんじゃね。がんばれ!」
「ここからは、元安川(もとやすがわ)に沿うて、北に向かって歩いていくんじゃ。町名は、南区の宇品西(うじなにし)から、中区の南千田西町(みなみせんだにしまち)に変わるんじゃの」
現在の千田町は、もともと藩政期に新開地(埋立地)として広島湾頭に造成された土地であり、当時は広島城下国泰寺村の一部をなしていた。
その後町名変更により国泰寺村より独立、宇品港(現在の広島港)を築港した当時の広島県令(現在の県知事)の千田貞暁にちなみ「千田町」と改名した。
(「千田町(広島市)」ウィキペディア)
「相変わらず、雲がたれ込めとるね」
「雲間から光が差し込んどるじゃろ。これを「天使の階段」と呼ぶんじゃ」
「天使の階段か。言われてみると、天と地を結ぶ光の階段を天使が降りて来るようにも思えるね」
「気象現象としては「薄明光線(はくめいこうせん)」と呼ぶそうじゃ。元安川の川向こうにあるのが吉島町(よしじまちょう)じゃの」
古くは「葭島」とも表記した吉島の名は「葭の茂っている中州」を意味すると言われる。
(「吉島(広島市)」ウィキペディア)
「「葭」と書いて、「よし」って読むん?」
「ほうじゃの。「葭」とは、湿地に生える「葦(あし)」のことじゃ。「あし」は「悪し」に通じるけぇ、逆の意味の「よし(=良し)」と言い替えたんじゃと」
「へぇ」
「江戸にあった遊郭といえば?」
「吉原じゃね」
「正解」
「え、ひょっとしてここも?」
「ここもあしが茂る湿地じゃったけぇ「葭原(よしはら)」という地名じゃったんじゃが、縁起をかついで「吉原」と改められたということじゃ」
「南千田橋は、地下道を通って行く」
「このあたりに、千田公園があるんよね」
「隣には情報プラザや県立図書館なんかもあるよの」
「子どもたちが小さいころは、よく遊びに来よった。ローラー滑り台やアスレチックなんかがあるんよ」
「滑り台は、ダンボールか何かを敷いて滑らんと、おしりが痛(いと)うなるんじゃ」
「残念なのは、駐車場がないことじゃね」
「この日も、違法駐車のクルマが駐まっとったのう」
「南大橋の交差点を渡ると、町名が千田町から大手町に変わる。ほいで、川の両側にはラブホテルが立ち並んどるんじゃの」
「お金も時間も相手もないけぇ、ここはスルーしようね」
「大手町」の町名は、かつて存在した広島城大手門の南に位置したことに由来する地名である(藩政時代の町名は「白神」(一-六丁目)であり、その名は近隣に所在する神社に由来する)。
(「大手町(広島市)」ウィキペディア)
「明治橋の東側(右手)には、たかのばし商店街があって…」
「北側には、原爆犠牲者慰霊碑もあるんじゃ」
昭和四十五年八月六日
タカノ橋商店街振興組合
理事長 新長 武
建立
「歩いてきた道を左に曲がって、明治橋を渡る。町名は、大手町から住吉町(すみよしちょう)に変わるんじゃ」
「吉島通りに出た。このあたりは、江戸時代から戦前まで広島の中心地じゃったんじゃ」
「なんで?」
「江戸時代には、藩主の別邸・与楽園(よらくえん)や藩の船屋敷があった。明治時代には、広島県庁や公立広島病院(現:県立広島病院)などもあったんじゃ」
「そういや、住吉神社もこの近くにあるよね」
「住吉神社の夏祭り「すみよしさん」は、広島三大祭りのひとつになっとるよのう」
↓住吉神社については、こちら↓
ようこそ広島の住吉さんへ 住吉神社公式ホームページでございます。
「国道2号線を渡ると、町名は、住吉町から加古町(かこまち)に変わる。「加古」というのは、「水主」を言い換えたものじゃ」
「水主は、水夫(すいふ)のことじゃね」
「さっき、藩の船屋敷があったと言うたが、船屋敷があるということは、水主、つまり船を操る人が要るということじゃ」
「それで、加古町という地名になったんじゃね」
「むかしは、「水主町」と書いたそうじゃがの。加古町の南に羽衣町(はごろもちょう)があって、ここにも萬象園(ばんしょうえん)という広島藩の庭園があったんじゃ」
「アステールプラザじゃね」
「さっき話をした、藩主の別邸・与楽園がここにあったんじゃ」
与楽園(よらくえん)は広島城下・水主町(現中区加古町)に所在していた庭園である。
1801年藩主・浅野重晟により、藩主の別邸として隣接する広島藩中屋敷(水主町屋敷)とともに着工され、1826年完成した。
明治以後は県立病院(当時)の庭園となり、原爆により大きな被害を受けたが、戦後もしばらく存続していた。
現在は跡地にアステールプラザなどが建てられ、「与楽園」の名は中島小学校の理科園の名前として残っている。
(「広島藩の庭園」ウィキペディア)
↓アステールプラザについては、こちら↓
アステールプラザ
「ここは、「広島市文化交流会館」のはずじゃけど…?」
「今年(2012年)の11月から2017年3月までは、ホールだけが「広島文化学園HBGホール」という名前になるんじゃ。ほいじゃけぇ、名前が2つ並んどるんじゃないんかの」
「命名権というのは、めんどくさいねぇ。勝手に名前が変わっとるもん。うちゃ今でも「厚生年金会館」って言うてしまうよ」
「バス停は、「広島厚生年金会館前」のまんまじゃしの。「ウェルシティ広島」という愛称もあって、正直、訳分からんようになっとるよのう」
↓広島市文化交流会館については、こちら↓
広島市文化交流会館オフィシャルサイト(旧:広島厚生年金会館ウェルシティ広島)
↓広島文化学園については、こちら↓
広島文化学園総合ページ
「さぁ、いよいよ平和公園じゃね」
「ということで、次回へ続く」
「えー、まだ続くん?」
「いや、あれもこれもと思うとったら、容量をオーバーしてしもうての。しかも、あと2回あるんじゃ…」
「これを終わらせてしまわんにゃ、年が越せんよ!」
「というわけで、次回は中区、平和公園から元安橋(もとやすばし)まで を紹介する予定じゃ」
【メモ】
平和公園前交差点通過時間/15時20分ころ
(スタートから約7時間20分)
「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、宇品橋から平和公園前交差点までについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
太田川リバーウォーク 35キロ
その12 中区
宇品橋から平和公園前交差点まで
「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、南区 暁橋(あかつきばし)から宇品橋(うじなばし)までを紹介したが」
「12回目の今日は、宇品橋から平和公園前交差点まで」
「宇品橋を渡ると、あとはゴールがある中央公園まで歩いて行けばええんじゃね。がんばれ!」
「ここからは、元安川(もとやすがわ)に沿うて、北に向かって歩いていくんじゃ。町名は、南区の宇品西(うじなにし)から、中区の南千田西町(みなみせんだにしまち)に変わるんじゃの」
現在の千田町は、もともと藩政期に新開地(埋立地)として広島湾頭に造成された土地であり、当時は広島城下国泰寺村の一部をなしていた。
その後町名変更により国泰寺村より独立、宇品港(現在の広島港)を築港した当時の広島県令(現在の県知事)の千田貞暁にちなみ「千田町」と改名した。
(「千田町(広島市)」ウィキペディア)
「相変わらず、雲がたれ込めとるね」
「雲間から光が差し込んどるじゃろ。これを「天使の階段」と呼ぶんじゃ」
「天使の階段か。言われてみると、天と地を結ぶ光の階段を天使が降りて来るようにも思えるね」
「気象現象としては「薄明光線(はくめいこうせん)」と呼ぶそうじゃ。元安川の川向こうにあるのが吉島町(よしじまちょう)じゃの」
古くは「葭島」とも表記した吉島の名は「葭の茂っている中州」を意味すると言われる。
(「吉島(広島市)」ウィキペディア)
「「葭」と書いて、「よし」って読むん?」
「ほうじゃの。「葭」とは、湿地に生える「葦(あし)」のことじゃ。「あし」は「悪し」に通じるけぇ、逆の意味の「よし(=良し)」と言い替えたんじゃと」
「へぇ」
「江戸にあった遊郭といえば?」
「吉原じゃね」
「正解」
「え、ひょっとしてここも?」
「ここもあしが茂る湿地じゃったけぇ「葭原(よしはら)」という地名じゃったんじゃが、縁起をかついで「吉原」と改められたということじゃ」
「南千田橋は、地下道を通って行く」
「このあたりに、千田公園があるんよね」
「隣には情報プラザや県立図書館なんかもあるよの」
「子どもたちが小さいころは、よく遊びに来よった。ローラー滑り台やアスレチックなんかがあるんよ」
「滑り台は、ダンボールか何かを敷いて滑らんと、おしりが痛(いと)うなるんじゃ」
「残念なのは、駐車場がないことじゃね」
「この日も、違法駐車のクルマが駐まっとったのう」
「南大橋の交差点を渡ると、町名が千田町から大手町に変わる。ほいで、川の両側にはラブホテルが立ち並んどるんじゃの」
「お金も時間も相手もないけぇ、ここはスルーしようね」
「大手町」の町名は、かつて存在した広島城大手門の南に位置したことに由来する地名である(藩政時代の町名は「白神」(一-六丁目)であり、その名は近隣に所在する神社に由来する)。
(「大手町(広島市)」ウィキペディア)
「明治橋の東側(右手)には、たかのばし商店街があって…」
「北側には、原爆犠牲者慰霊碑もあるんじゃ」
昭和四十五年八月六日
タカノ橋商店街振興組合
理事長 新長 武
建立
「歩いてきた道を左に曲がって、明治橋を渡る。町名は、大手町から住吉町(すみよしちょう)に変わるんじゃ」
「吉島通りに出た。このあたりは、江戸時代から戦前まで広島の中心地じゃったんじゃ」
「なんで?」
「江戸時代には、藩主の別邸・与楽園(よらくえん)や藩の船屋敷があった。明治時代には、広島県庁や公立広島病院(現:県立広島病院)などもあったんじゃ」
「そういや、住吉神社もこの近くにあるよね」
「住吉神社の夏祭り「すみよしさん」は、広島三大祭りのひとつになっとるよのう」
↓住吉神社については、こちら↓
ようこそ広島の住吉さんへ 住吉神社公式ホームページでございます。
「国道2号線を渡ると、町名は、住吉町から加古町(かこまち)に変わる。「加古」というのは、「水主」を言い換えたものじゃ」
「水主は、水夫(すいふ)のことじゃね」
「さっき、藩の船屋敷があったと言うたが、船屋敷があるということは、水主、つまり船を操る人が要るということじゃ」
「それで、加古町という地名になったんじゃね」
「むかしは、「水主町」と書いたそうじゃがの。加古町の南に羽衣町(はごろもちょう)があって、ここにも萬象園(ばんしょうえん)という広島藩の庭園があったんじゃ」
「アステールプラザじゃね」
「さっき話をした、藩主の別邸・与楽園がここにあったんじゃ」
与楽園(よらくえん)は広島城下・水主町(現中区加古町)に所在していた庭園である。
1801年藩主・浅野重晟により、藩主の別邸として隣接する広島藩中屋敷(水主町屋敷)とともに着工され、1826年完成した。
明治以後は県立病院(当時)の庭園となり、原爆により大きな被害を受けたが、戦後もしばらく存続していた。
現在は跡地にアステールプラザなどが建てられ、「与楽園」の名は中島小学校の理科園の名前として残っている。
(「広島藩の庭園」ウィキペディア)
↓アステールプラザについては、こちら↓
アステールプラザ
「ここは、「広島市文化交流会館」のはずじゃけど…?」
「今年(2012年)の11月から2017年3月までは、ホールだけが「広島文化学園HBGホール」という名前になるんじゃ。ほいじゃけぇ、名前が2つ並んどるんじゃないんかの」
「命名権というのは、めんどくさいねぇ。勝手に名前が変わっとるもん。うちゃ今でも「厚生年金会館」って言うてしまうよ」
「バス停は、「広島厚生年金会館前」のまんまじゃしの。「ウェルシティ広島」という愛称もあって、正直、訳分からんようになっとるよのう」
↓広島市文化交流会館については、こちら↓
広島市文化交流会館オフィシャルサイト(旧:広島厚生年金会館ウェルシティ広島)
↓広島文化学園については、こちら↓
広島文化学園総合ページ
「さぁ、いよいよ平和公園じゃね」
「ということで、次回へ続く」
「えー、まだ続くん?」
「いや、あれもこれもと思うとったら、容量をオーバーしてしもうての。しかも、あと2回あるんじゃ…」
「これを終わらせてしまわんにゃ、年が越せんよ!」
「というわけで、次回は中区、平和公園から元安橋(もとやすばし)まで を紹介する予定じゃ」
【メモ】
平和公園前交差点通過時間/15時20分ころ
(スタートから約7時間20分)
「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、宇品橋から平和公園前交差点までについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
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