通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

ピースウォークひろしまツーデー(その6) 西平和大橋から平和公園

2012年12月18日 | 見て歩き
1日目
太田川リバーウォーク 35キロ

その6 中区
西平和大橋から平和公園まで






「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 緑大橋(みどりおおはし)から西平和大橋(にしへいわおおはし)までを紹介したが」

「6回目の今日は、中区、西平和大橋から平和公園まで」

「旧太田川(本川)に架かる西平和大橋を渡ると、平和記念公園(以下、平和公園)に入るんじゃ」




西平和大橋

「前回も紹介したけど、平和公園の近くには、戦争や原爆に関係する碑がたくさんあるんよね」






原爆犠牲国民学校 教師と子どもの碑

「この像は、比治山女子短大の教授じゃった芥川 永(あくたがわ ひさし)の作で、1971年(昭和46年)に建立されたんじゃ」



原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表す。

(「33 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」広島平和祈念資料館)




「この碑には、詩人・正田篠枝(しょうだ しのえ)の銘文が刻まれとるんよね」



太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり



「この短歌は1946年(昭和21年)、正田篠枝が広島刑務所の印刷部で秘密に出版した歌集『さんげ』からとられたものなんじゃ」

「なんで、刑務所で印刷して秘密裏に出版せにゃいけんかったん?」

「1946年当時、日本は連合国軍に占領されとったのは、知っとるよの」

「アメリカからマッカーサー元帥が来たよね」

「マッカーサーといえば、連合国軍の最高司令官じゃの。プレスコードという言葉があるように、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本の報道機関に対して報道内容の制限したんじゃ」

「あぁ、そんな話は聞いたことがあるよ」

「原爆に対する記事は、当然、プレスコードに引っかかって、最悪、出版禁止になる」

「この歌集は出版禁止を受ける可能性があったというわけじゃね」

「ほいじゃけぇ、秘密出版せにゃいけんかったんじゃの」



↓比治山女子短大については、こちら↓

比治山大学






若葉

「あぁ、この像は『若葉』というタイトルなんじゃね」

「これは広島県出身の彫刻家・円鍔勝三(えんつば かつぞう)の作で、1966年(昭和41年)、広島南ロータリークラブ創立10周年を記念して建立されたんじゃ」



まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは
(湯川秀樹)




「「まがつび」って?」

「まがつびは、禍津日神(まがつひのかみ)という災厄の神のことじゃ」

「「ここは平和を祈る人だけが集うところだから、まがつび(=原爆)よ、二度とここに来るな」という意味じゃね」

「湯川秀樹(ゆがわ ひでき)といえば、日本人で初めてノーベル賞を受賞された方じゃの」

「核兵器の廃絶を訴えられとったよね」

「太平洋戦争中は、原子爆弾の開発計画にも携わられたことがあったんじゃ」

「えぇ、ほんま?」

「陸軍がニ号研究(理化学研究所)、海軍はF研究(京都帝国大学)という呼び名で研究をしよったんじゃ。湯川秀樹は京都帝国大学の卒業じゃけぇの」






嵐の中の母子

「嵐の中の母子像は本郷新(ほんごう しん)の作で、1960年(昭和35年)に建立されたんじゃ。この作品自体は、1953年(昭和28年)、本郷新が47歳の時に制作した作品なんじゃがの」

「ということは、ここに建てるために作られた作品じゃないということ?」

「1959年(昭和34年)に開かれた第5回原水爆禁止世界大会を記念して、「嵐の中の母子像」の石こう像が、日本原水協(原水爆禁止日本協議会)から広島市に贈られた。それを受けて広島市婦人会連合会が募金活動を行い、この石こう像をブロンズ像にして、今の場所に設置されたんじゃ」



この作品について本郷 新は、次のように語っています。

この作品のモチーフは、広島の惨害です。
胸に乳飲み子を抱きかかえ、背にもう一人子どもを背負って、立ち上がろうとする母子の必死の姿は、まさに突進の形です。
普通母子像は、暖かい愛情を表現するものですが、「嵐の中の母子像」は、いつ離れ離れになるかも知れぬという不安と、非常な事態の中での愛情の危機、もしくは極限の状態です。
この、とことんまで生きようとする母子の像を通じて人間の生命の尊厳を象徴づけたつもりです。
だから単なる母子像というより、母子二代にわたる悲しみ、二つの世代に横たわる悲劇の記念碑というわけです。

(「嵐の中の母子像」本郷新記念 札幌彫刻美術館)







祈りの泉

「この噴水、「祈りの泉」という名前があったんじゃね」

「1964(昭和39)年の11月に広島銀行が建設して、それを広島市に寄贈したそうじゃ」

「原爆犠牲者を慰霊する建物や碑には、「水を水を」と言いながら亡くなった人のために、水や池などがあるんよ」



現在の大噴水がある場所には、最初は小さな噴水池がありました。
噴水池は1958(昭和33)年4月、広島復興大博覧会をきっかけに、会場となった平和記念資料館(現在の本館)の南側正面に設置されました。

当初は博覧会のテーマ塔を建てる予定でしたが、たまたま協同組合連合会日本専門店会連盟から「原爆犠牲者の弔慰のための施設に使用してほしい」ということで広島市に100万円の寄付金が寄せられており、検討の結果、原爆犠牲者へ水供養する意味で、噴水池をつくることになりました。

噴水池は円形で、内径は11m、中央に1本、周囲に8本の噴水口があり、それぞれ約4mの高さに水を噴き上げるようになっていました。

(「祈りの泉」広島平和祈念資料館)






「祈りの泉の向こうには平和記念資料館の本館、原爆死没者慰霊碑、そして原爆ドームが見えるんじゃね」

「次回は中区、平和公園から平和大橋までを紹介する予定じゃ」





【メモ】

平和公園前通過時間/11時35分ころ
(スタートから約3時35分)





【参考文献】

有元正雄ほか『広島県の百年』(山川出版社 1983年)

高木茂登『ひろしま 水と緑と彫刻』(ひろしま文庫 1984年)






「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、中区の緑大橋から西平和大橋までについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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