1日目
太田川リバーウォーク 35キロ
その2 東区
新こうへい橋から安芸大橋まで
「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 中央公園(スタート地点)から新こうへい橋までを紹介したが」
「2回目の今日は、東区の新こうへい橋から祇園新道を経由して安芸大橋(あきおおはし)まで」
「京橋川(きょうばしがわ)に架かる新こうへい橋を渡って、中区の白島北町(はくしまきたまち)から東区の牛田新町(うしたしんまち)へ行くじゃ」
「京橋川の下流(東側)には、工兵橋(こうへいばし)があるよ」
「工兵橋は1889年(明治22年)、白島にあった陸軍の工兵隊が牛田にあった演習場への連絡橋として架けたつり橋で、今でもそれが残っとるんじゃ」
「1945年(昭和20年)広島に原爆が投下された時、原爆に遭った人たちが広島市内から郊外(牛田方面)へ逃げて行くときに渡った橋が、この橋じゃったんよね」
「新こうへい橋を渡って、県営住宅を右手に、旧太田川(おおたがわ)を左手に見ながら川上(北)に向かって歩いていくんじゃ」
「県営住宅の向こうには、広島ビッグウェーブや牛田浄水場があるね」
「正面には大芝水門が見えてきた」
「基町や白島には並木があったけど、このあたりにはないね」
「新こうへい橋から大芝水門まではランニングコースになっとるけぇ、ランニングをする人がおっちゃったのう」
広島三角州最北端付近の太田川左岸の氾濫原(はんらんげん)である。
奈良時代末期には奈良西大寺の荘園として開墾された。
昔は大人田(うした)村と記されていたというが、地名の由来は不明である。
(「牛田」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)
↓広島ビッグウェーブについては、こちら↓
「総合屋内プール(広島ビッグウェーブ)」公益財団法人広島市スポーツ協会
↓牛田浄水場については、こちら↓
広島市水道局牛田浄水場・広島市水道資料館
↓牛田浄水場についての関連記事は、こちら↓
広島市水道資料館 広島市東区牛田新町
「大芝橋の下をくぐると、太田川緑地じゃね」
「このあたりになると、アストラムラインがすぐ近くを走っとるんじゃ」
「ここはアストラムラインの不動院前駅で、山側に歩いていくと、国宝の不動院(ふどういん)があるんよ」
「不動院は爆心地から約4キロのところにあって、原爆の爆風で金堂の屋根の一部が吹き飛んだりしたんじゃが、倒れはせんかった。それもあって、先に紹介した工兵橋を渡って、広島市内から避難してきた人であふれたそうじゃ」
あの日の不動院
原爆投下 昭和20年8月6日 午前8時15分
不動院は爆心地から3.9キロメートル、市の中心部からかなり離れた山麓に位置しているため爆風による被害以外、大きな被害を受ける事は無かった。
6日朝は、特に変わったこともなく、住職と家族が住んでいたが、原子爆弾による負傷者も出ず、火災も発生しなかった。
しかし市の中心部で被爆した人達が郊外へ逃れる道筋であったために、次々と続く無惨な姿の被災者の死の行列は北へ北へと続き、力尽きた人々は死体となって、道路といわず川土手といわず、埋めていったという。
不動院の境内には被爆者であふれ、修羅場と化した。
山門前では衛生兵や地域の住人が出て被爆者救護のためドラム缶入りの大豆油を用意してやけどの治療を開始したが、順番待ちの列の中で治療を待ち切れず息絶えた人も多かったという。
被爆後、市内から親類縁者及び檀信徒をはじめ、一般の罹災者が避難に来て、庫裡・不動堂に充満し、ついに境内にはみ出し、暫く起居していたが、中には、広島陸軍病院関係の軍医なども負傷して避難して来ていた。
「原爆被災史より」
(境内に掲示してある案内板より)
「この間、若い娘(こ)と話をしよったら、「アトム」って言うんよ。何のことかと思うたら、「アストラムライン」のことを「アトム」って言うんじゃね」
「そりゃ、初めて聞いたのう」
↓アストラムラインについては、こちら↓
アストラムライン 広島高速交通株式会社
↓不動院については、こちら↓
真言宗 別格本山 不動院
「祇園新橋の下を通って行くと、左手に太田川ゴルフ倶楽部が見えるのう」
「川向こうに見えるのは、祇園(ぎおん)にあるNHKラジオ放送所じゃね」
「…?」
「学校のマラソン大会用に、道路に書いとってんじゃろうの」
「うちゃ走るのが苦手じゃけぇ、運動会のかけっこやマラソン大会のない学校に行きたかったよ」
「このあたりで、牛田から戸坂(へさか)に町名が変わるんじゃ。わしが通うとった城北高校があるも戸坂じゃ」
広島市東区の北西に位置し、太田川沿いの県道広島-向原線により南は牛田、北は安佐北区高陽町と接している。
1955年(昭和30)広島市と合併した後、昭和30年代から40年代にかけ住宅地化が急進し、40年代前半には市内最高の人口増加率を示した。
(「戸坂」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)
↓城北高校については、こちら↓
城北学園 城北中・高等学校
「基町(もとまち)はまだ読めるけど、「戸坂」を「へさか」とは、なかなか読めんよね」
「難読地名(なんどくちめい)というやつじゃの。広島市には、ほかにもこんな地名があるんで」
中区
幟町(のぼりちょう)
東区
温品(ぬくしな)
南区
荒神町(こうじんまち)
東雲(しののめ)
向洋(むかいなだ)
安佐北区
飯室(いむろ)
南原(なばら)
「安芸大橋(あきおおはし)が見えてきたね」
「赤い色のアーチ型の橋じゃ。わしが小(こ)まいころ、今から40年以上前じゃが、わしゃ、このあたりで泳ぎよったんで」
「えぇ?! ほんま?」
「この写真の手前の、河川敷あたりじゃ」
「泳いでもえかった(=良かった)ん?」
「知らん。家族で来て、わしと弟だけが泳ぎよった。もっとも、ほかに泳いどる人がおってんなかったけぇ、ほんまは泳いじゃいけんかったんかもしれんの」
「太田川に架かる安芸大橋を渡ると、いよいよ安佐南区じゃね」
「次回は安佐南区、安芸大橋から祇園大橋(ぎおんおおはし)までを紹介する予定じゃ」
【メモ】
安芸大橋通過時間/9時10分ころ
(スタートから約1時間10分)
歩数/約7,400歩
歩いた距離/約5.8キロ
(注:距離は歩数計に示されたもので、公式のものではありません)
「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、東区の新こうへい橋から安芸大橋までについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
太田川リバーウォーク 35キロ
その2 東区
新こうへい橋から安芸大橋まで
「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 中央公園(スタート地点)から新こうへい橋までを紹介したが」
「2回目の今日は、東区の新こうへい橋から祇園新道を経由して安芸大橋(あきおおはし)まで」
「京橋川(きょうばしがわ)に架かる新こうへい橋を渡って、中区の白島北町(はくしまきたまち)から東区の牛田新町(うしたしんまち)へ行くじゃ」
「京橋川の下流(東側)には、工兵橋(こうへいばし)があるよ」
「工兵橋は1889年(明治22年)、白島にあった陸軍の工兵隊が牛田にあった演習場への連絡橋として架けたつり橋で、今でもそれが残っとるんじゃ」
「1945年(昭和20年)広島に原爆が投下された時、原爆に遭った人たちが広島市内から郊外(牛田方面)へ逃げて行くときに渡った橋が、この橋じゃったんよね」
「新こうへい橋を渡って、県営住宅を右手に、旧太田川(おおたがわ)を左手に見ながら川上(北)に向かって歩いていくんじゃ」
「県営住宅の向こうには、広島ビッグウェーブや牛田浄水場があるね」
「正面には大芝水門が見えてきた」
「基町や白島には並木があったけど、このあたりにはないね」
「新こうへい橋から大芝水門まではランニングコースになっとるけぇ、ランニングをする人がおっちゃったのう」
広島三角州最北端付近の太田川左岸の氾濫原(はんらんげん)である。
奈良時代末期には奈良西大寺の荘園として開墾された。
昔は大人田(うした)村と記されていたというが、地名の由来は不明である。
(「牛田」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)
↓広島ビッグウェーブについては、こちら↓
「総合屋内プール(広島ビッグウェーブ)」公益財団法人広島市スポーツ協会
↓牛田浄水場については、こちら↓
広島市水道局牛田浄水場・広島市水道資料館
↓牛田浄水場についての関連記事は、こちら↓
広島市水道資料館 広島市東区牛田新町
「大芝橋の下をくぐると、太田川緑地じゃね」
「このあたりになると、アストラムラインがすぐ近くを走っとるんじゃ」
「ここはアストラムラインの不動院前駅で、山側に歩いていくと、国宝の不動院(ふどういん)があるんよ」
「不動院は爆心地から約4キロのところにあって、原爆の爆風で金堂の屋根の一部が吹き飛んだりしたんじゃが、倒れはせんかった。それもあって、先に紹介した工兵橋を渡って、広島市内から避難してきた人であふれたそうじゃ」
あの日の不動院
原爆投下 昭和20年8月6日 午前8時15分
不動院は爆心地から3.9キロメートル、市の中心部からかなり離れた山麓に位置しているため爆風による被害以外、大きな被害を受ける事は無かった。
6日朝は、特に変わったこともなく、住職と家族が住んでいたが、原子爆弾による負傷者も出ず、火災も発生しなかった。
しかし市の中心部で被爆した人達が郊外へ逃れる道筋であったために、次々と続く無惨な姿の被災者の死の行列は北へ北へと続き、力尽きた人々は死体となって、道路といわず川土手といわず、埋めていったという。
不動院の境内には被爆者であふれ、修羅場と化した。
山門前では衛生兵や地域の住人が出て被爆者救護のためドラム缶入りの大豆油を用意してやけどの治療を開始したが、順番待ちの列の中で治療を待ち切れず息絶えた人も多かったという。
被爆後、市内から親類縁者及び檀信徒をはじめ、一般の罹災者が避難に来て、庫裡・不動堂に充満し、ついに境内にはみ出し、暫く起居していたが、中には、広島陸軍病院関係の軍医なども負傷して避難して来ていた。
「原爆被災史より」
(境内に掲示してある案内板より)
「この間、若い娘(こ)と話をしよったら、「アトム」って言うんよ。何のことかと思うたら、「アストラムライン」のことを「アトム」って言うんじゃね」
「そりゃ、初めて聞いたのう」
↓アストラムラインについては、こちら↓
アストラムライン 広島高速交通株式会社
↓不動院については、こちら↓
真言宗 別格本山 不動院
「祇園新橋の下を通って行くと、左手に太田川ゴルフ倶楽部が見えるのう」
「川向こうに見えるのは、祇園(ぎおん)にあるNHKラジオ放送所じゃね」
「…?」
「学校のマラソン大会用に、道路に書いとってんじゃろうの」
「うちゃ走るのが苦手じゃけぇ、運動会のかけっこやマラソン大会のない学校に行きたかったよ」
「このあたりで、牛田から戸坂(へさか)に町名が変わるんじゃ。わしが通うとった城北高校があるも戸坂じゃ」
広島市東区の北西に位置し、太田川沿いの県道広島-向原線により南は牛田、北は安佐北区高陽町と接している。
1955年(昭和30)広島市と合併した後、昭和30年代から40年代にかけ住宅地化が急進し、40年代前半には市内最高の人口増加率を示した。
(「戸坂」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)
↓城北高校については、こちら↓
城北学園 城北中・高等学校
「基町(もとまち)はまだ読めるけど、「戸坂」を「へさか」とは、なかなか読めんよね」
「難読地名(なんどくちめい)というやつじゃの。広島市には、ほかにもこんな地名があるんで」
中区
幟町(のぼりちょう)
東区
温品(ぬくしな)
南区
荒神町(こうじんまち)
東雲(しののめ)
向洋(むかいなだ)
安佐北区
飯室(いむろ)
南原(なばら)
「安芸大橋(あきおおはし)が見えてきたね」
「赤い色のアーチ型の橋じゃ。わしが小(こ)まいころ、今から40年以上前じゃが、わしゃ、このあたりで泳ぎよったんで」
「えぇ?! ほんま?」
「この写真の手前の、河川敷あたりじゃ」
「泳いでもえかった(=良かった)ん?」
「知らん。家族で来て、わしと弟だけが泳ぎよった。もっとも、ほかに泳いどる人がおってんなかったけぇ、ほんまは泳いじゃいけんかったんかもしれんの」
「太田川に架かる安芸大橋を渡ると、いよいよ安佐南区じゃね」
「次回は安佐南区、安芸大橋から祇園大橋(ぎおんおおはし)までを紹介する予定じゃ」
【メモ】
安芸大橋通過時間/9時10分ころ
(スタートから約1時間10分)
歩数/約7,400歩
歩いた距離/約5.8キロ
(注:距離は歩数計に示されたもので、公式のものではありません)
「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、東区の新こうへい橋から安芸大橋までについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」