通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

1945年7月28日、広島県内で空襲を受けたのはどこ?

2010年07月29日 | 広島の話題

空襲といえば、東京大空襲(何度かあったが、1945年3月10日のものをいう)。
戦争の継続を難しくさせるため、敵の工業施設を狙うものもあったが、住宅地を狙っての、非戦闘員(民間人)の殺傷が目的のものもあったんじゃ。



【問題】
65年前の1945(昭和20)年7月28日、広島県内で空襲を受けたのは、次のうちどこでしょうか?

1.因島(因島空襲)
2.呉(呉空襲)
3.広島(広島空襲)
4.福山(福山空襲)









【正解】
1.因島(因島空襲)




【解説】
尾道市因島田熊町(たくまちょう)の田熊小校庭にある防空壕(ごう)跡前で27日、空襲ピアノによるコンサートがあり、住民や児童ら約200人が参加した。
因島空襲の日(28日)を記念したイベント「因島ピースデー・よみがえれ因島」の一環。

防空壕前には、65年前の名古屋空襲で傷つき、広島市安佐南区のピアノ調律師矢川光則さん(58)がよみがえらせたアップライトのピアノが置かれ、呉市在住のピアニストでシンガー・ソングライターのきくちレイコさんが「戦場のピアニスト」などを演奏した。

田熊小4~6年生20人が「君の笑顔が好きだから」、田熊公民館歌声教室の35人が「埴生(はにゅう)の宿」、一緒に「みかんの花咲く丘」を歌った。
田熊保育所園児20人も自分たちが作った「はっさくの歌」を披露した。

(「田熊小の防空壕跡で演奏会」中国新聞 2010年7月28日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201007280011.html



今日は、「因島空襲」「主催者」「因島ピースデー・よみがえれ因島」について調べてみようかの。



まずは、因島空襲について。



因島空襲は1945年3月19日と7月28日、米軍機が造船所を中心に攻撃し、100人以上が亡くなったとされるが、記録や資料が少なく一般に知られていない。
最近の調査で、7月28日は造船所に停泊中の貨物船など4隻が被災、船員17人が死亡したことが分かった。


(「防空壕跡の調査開始 尾道・因島空襲を考える会」山陽新聞 2010年3月15日)
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010031509350441/



次に、主催者について。

このイベントを企画したのが、青木忠。彼は生後10カ月で因島空襲を受け、防空壕(ぼうくうごう)から助け出されたそうじゃ。



「小学校長として軍国主義教育を進めた父に反発し、空襲について直接話す機会はほとんどなかった。だが、亡くなる数年前、『お前が今生きていられるのはお母さんやおばあさんが身を挺(てい)して守ってくれたから』と教えられた。調査は空襲のダメージで40歳の若さで亡くなった母と、祖母への供養、私を助け出してくれた地元の人々への恩返しとして始めた」

(「広島の発言2010:「因島ピースデー~よみがえれ因島」を開催、青木忠さん」毎日新聞 2010年7月24日)
http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20100724ddlk34070624000c.html



そんなわけで、約10年前から、遺族や関係者から話を聞き、因島空襲について調べるようになったということじゃ。



2002年に始めた防空壕前の被爆ピアノコンサートや因島空襲を語る会に地元の100人余りが集まった。
日立造船因島工場の社葬責任者だった男性から話を聴くことが出来、100人を超える人々が亡くなったことが分かった。


「造船企業城下町として戦前・戦中・戦後の繁栄を誇った因島では、戦後賠償から逃れ、朝鮮戦争などの戦争特需で復興を遂げるために、太平洋戦争を一日も早く忘れる必要があった。一方、遺族の話を聴く中で、何年たっても戦争は終わらない、犠牲者の生と死、残された家族の悲劇を語り続けることこそが戦争を語り継ぐことだと教えられた」

(同上)



最後に、因島ピースデー・よみがえれ因島について。



因島重井町(しげいちょう)の運動公園野球場であった野外コンサート。
約700人を前に、広島市出身の歌手原田真二さんが、この日のために作った曲「Island of peace 因島」を熱唱した。

(「平和への願い 歌声に込めて」中国新聞 2010年7月29日)




原田真二は、1977(昭和52)年10月に「てぃーんず ぶるーす」でデビューし、「キャンディ」「シャドーボクサー」を3カ月連続でリリース。
同じころに「あんたのバラード」でデビューした「世良公則&ツイスト」ともども、人気があったんじゃ。
(世良公則は福山市出身)

なぜ原田真二なのかというと、今年2月、広島市であった被爆ピアノのニューヨーク公演支援コンサートを見に行った際、青木忠が原田に出演を依頼したことに始まるそうじゃ。

その他にも、「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子の兄・雅弘の朗読会や、甥の祐滋が演奏をされたそうじゃ。

また、「慰霊と証言の集い」も開かれたそうじゃ。



野外コンサートに先立ち、因島土生町(はぶちょう)のポートピアはぶで「慰霊と証言の集い」があった。
因島空襲犠牲者を悼み、黙とうした後、空襲体験者ら6人が証言した。旧国民学校4年の時、集団下校中に米軍機の機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を受けた因島中庄町(なかのしょうちょう)の浅田節子さん(74)は「私が体験した恐怖感は孫たちに味わわせたくない」と語った。


(同上)



↓因島についての過去の記事は、こちら↓

尾道市因島に新設された中学校の名前は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100407

女性の願い事をかなえるという伝承がある、因島三庄の市史跡は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100611



今日は、「因島空襲」「主催者」「因島ピースデー・よみがえれ因島」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

コメント
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